学校では教えてくれない!歴史の話(戦国時代編)

大河ドラマで注目の斎藤道三と息子義龍の新事実その2

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通説の道三が盗んでいたもう一つのものとは?

その1に続いてその2でさらなる新事実をお伝えします。

まだご覧になっていない方は是非ご覧になってからその2をご覧ください。

父子二代の事績を独り占めしてきたことによって、道三の力量は課題に評価される傾向がありました。

道三が信長の師匠だった?

などともいわれています。

確かにそのようなことを言っている資料がないわけではないようですが、しかしそれは、「甲陽軍鑑」にある、「信長は先方に関することは、父の信秀を少しもてほんにしようとせず、舅の斉藤道三をまねた」

というもので、これはどうも信用できないそうです。

というのは、もともと出典の『甲陽軍鑑』という書物の信憑性ががイマイチなうえ、この書物が、「特に戦法に関する記述には後世の加筆が多いではないか」と疑われていたからである。

また道三が城下で「楽市楽座」という経済対策を他の大名に先駆けておこなっていた、などの説もあるが、もしこれが本当なら、確かに彼は信長の『師匠』だったといえそうです。でもそんな事実はどの文献からも発見されていないそうなのです。

それならばなぜ、そんな説がまかり通っているかと考えたところ、思い当たったのは、司馬遼太郎の小説『国盗り物語』が原因ではないかと思われます。その中に、

庄九郎(道三のこと)が今やっている「事業」の中でもっとも人に恨まれているのは、「楽市」「楽座」であった。

彼は稲葉山の山上に城を営み、山麓に居舘を立てただけではない。諸国のどの支配者もやったことのない、「専売制の撤廃」というのを変えの城下に限って断行したものである。

司馬良太良 『国盗り物語』

とこの本では書いてあります。しかしこれは、歴史資料ではなく、歴史小説です。当然史実としての裏付けには使えないものです。

昭和四十年、に発行され、文庫本で重版され続けてを考えると、この中の『道三が楽市楽座をおこなっていた』という設定が、史実として、混同されてしまった可能性があるというのです。

実際の道三は史料を見る限り、実際の道三は『楽市楽座』どころか、戦国大名らしい施策は何一つ行っていないそうなのです。むしろ美濃の権力を自分の手に握るため、国内を混乱させ国内を衰退させたのが、道三だったらしいです。

ただし、息子の義龍は父とは違いなかなかの国主だったようなのです。

どのように違ったのか。ドラマでは描かれない義龍の新事実とはどんなものか。

もし信長にししょうがいるとしたら、道三ではなく、子の義龍ではなかっただろうかと考えております。

これはあくまでも、可能性の話ではありますが、「通説の道三」が盗んでいたものは、「義龍の美濃の改革者としての功績」ではないでしょうか。

天正26年(1554年)の3月突然引退して、家督を息子に譲っているのですが、これは、ついに家臣たちの不満が爆発して、道三を強制的に国主の座から引きずりおろした、というのが、その真相でした。つまり「国主失格だったのではないか」と思うのです。(もちろん時代や、様々な人間たちの陰謀もあるのだとはおもいますが)

ちなみにこれまでの家督交代の通説は、出生の秘密(実は義龍は道三の本当の息子ではなかったというもの)を知った義龍が、道三を恨むようになって起こしたクーデターだったと伝えられていますが、もちろんこれは後世の創作です。

この後道三は再起をはかって挙兵したものの、これに応じて集まった兵は、わずか2700だったそうです。対する義龍側は17500。美濃の武士や農民歩兵たちは、新国主義龍を選んだのです。

ただ個人的には人数の多さで優秀であったかは微妙だとは思いますし、義龍も、大河ドラマでもやっている通り土岐派に振り回され操られていたのではないかと思います。道三の側室深芳野は土岐頼芸のめかけで、その時の子ではないかとの説もあるようですし、ドロドロなんですね、戦国時代って。

こうして、天文23年1554年の3月、新国主となった義龍だが、実は彼が美濃の国主だった期間は、わずか7年でしかなかったようです。というのも義龍は永禄4年(1561年)に、35歳という若さで、病死してしまったからです。

しかし彼が行った数々の施策はほとんど戦争しかしていない道三とは比較にならないほど、進歩的だったとのことです。

では、その3では義龍という武将について書きたいと思います。

是非お楽しみください。

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