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【キングダム】始皇帝嬴政(えいせい)2021年最新版ネタバレ必須目指した国造りとは?

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【キングダム】嬴政(えいせい)エンディング後の世界?

嬴政は中華統一後に何を成し遂げる!?キングダムではどこまで描かれるのか…始皇帝の偉業まとめ

原作ではまだまだ先の話になりますが、嬴政(えいせい)と秦の将軍たちは最終的に六国を平定し、中華を一つにしました。

そして嬴政(えいせい)は皇帝という地位に上り、最初の皇帝として始皇帝と呼ばれるようになりました。

始皇帝となった嬴政(えいせい)がどのような中国をつくろうとしたのか解説していきます。

まず始皇帝は強力な中央集権国家を目指しました。

楚や趙といった国は廃止されて細かく細分化され、最終的には48の郡県となりました。

これを郡県制といいます。

秦の次に中国を制した漢の劉邦は、秦の郡県制を失敗と考えたのでしょうか。

多くの功臣や王子たちを各地の王に添えましたが結局王たちが反乱をおこしたりして百年もたたないうちに郡県制に戻りました。

この点で言えば李斯(りし)の見立ては正しかったのでしょう。

【キングダム】中国の様々なものが政によって統一されていった

秦の始皇帝・嬴政はどうやって生まれたのか?【キングダム考察】

中央政権と並行して、経済も統制されていきました。

通貨や秤の基準なども統一され、また馬車の車輪の幅も統一されていきました。

馬車の車輪といっても現代では何とも・・・

とういう感じだとは思いますが、電車が走るレールの幅をイメージしていただければわかりやすいかなと。

戦国時代であれば敵国の軍が侵入してきた際に少しでも進軍速度を落としたかったので、あえて幅を変えて走りにくくしました。

中華が統一された以上そういったをそれよりも生産性といった便利さをとることに力を注げるように統一していきました。

こうしたことは政のひとつの中華をつくるといった理念によってつくられたといっていいでしょう。

しかし、同時に、多くの富豪たちが咸陽(かんよう)にほぼ強制的に集められました。

金を多く持つものは地域で反乱を目論むとも考えられたのでしょう。

また、始皇帝は土木工事も行いました。

富豪たちははじめ多くに人々が咸陽(かんよう)にやってきたため、咸陽(かんよう)はどんどん拡大されていきました。

同時にそれだけのものが住む咸陽(かんよう)の中で皇帝が一番であるということが示すために阿房宮(あぼうきゅう)という巨大な宮殿が立てられました。

もっとも阿房宮の運命は長くはありませんでした。

秦が思いのほか早く滅んでしまったためです。

また、この時代に北方の異民族の中から匈奴は拡大化してきました。

匈奴の侵攻に備えるため建築されたのが万里の長城です。

長城といってもこの時代の万里の長城は今に残る立派な長城ではありませんでした。

馬が飛び越えられないような土塁のような場所も多かったと言われています。

また長城を築くという発想自体も斬新であったわけではなく、すでに北の国燕(えん)などでは、長城をすでに築き上げていたといわれています。

秦はそうした各国の作っていた長城を補修し、空白地帯には途切れる場所がないように、新しいものを作ってつなげていました。

【キングダム】嬴政(えいせい)始皇帝は天下を巡遊し、儀式を行い、碑を残す

動画 始皇帝が中華統一後にやったこと【キングダム考察】

天下統一を果たした始皇帝は天下巡遊を行いました。

広い中華を見て回ったのです。

巡遊は最初のうちは秦国内で、その後秦を出て遥か中国を合計4度の渡って巡りました。

その最後の巡遊中に病死しました。

なぜ始皇帝となった政は中国全土の大きな土地を巡ったのでしょうか。

最初の秦国内で巡遊を行ったのは天下統一という事業を祖先や他の関係者に報告したのではないかという可能性があります。

原作でも秦のために命を落としている者がたくさんいます。

そうした人たちの霊に語りかけたかったのかもしれません。

その後、天下を巡ったのは秦と皇帝の力を見せたかったのではないかと思います。

最初に巡遊で、始皇帝は泰山で封禅という儀式を行いました。

封禅というのは帝王が天と地に自らの即位と天下安寧であるということを報告する儀式であり、周王朝のころは頻繁に行われていましたが、始皇帝が即位したころにはながらく行われていませんでした。

政には

「自分はひとつの中国を完成させた」

という自負があったと思います。

そのため封禅を行うことは重要な意味がありました。

最も長らく行われていなかったためやり方が分からず専門家に聞いても答えが様々だったため我流で行われたそうです。

この封禅が代表例だと思われますが、とにかく中国が一つになったことを示すためにそのシンボルとしての工程が中国を巡る必要があったと考えたのでしょう。

儀式をおこなうのはもちろん、中華統一という事業を石碑等の形で残すこともしました。

巡遊のために道路も整備され皇帝のために道も作られました。

こうした工程のための道を中国中に張り巡らせることも中国が一つになったことを示すためだったと考えられます。

【キングダム】嬴政(えいせい)始皇帝に迫る暗殺の危機?

このように壮大な中国を築き始めていた始皇帝の統治時代でしたが、暗い側面もありました。

まず始皇帝は皇帝時代に3度暗殺未遂にあっています。

暗殺をしようとした人物は高漸離(こう ぜんり)という人物で、彼は荊軻(けいか)の友人でした。

荊軻(けいか)の暗殺未遂失敗後、友人の仇として狙っていたのですが、捕まってしまいました。

ただ、高漸離(こう ぜんり)は筑という楽器の名人であったため、始皇帝はその才能を惜しみ、目を潰して筑の演奏をさせることにしました。

目が見えなければ暗殺はできないと考えていたのか・・・

ですが高漸離(こう ぜんり)は諦めず、あるとき鉛を仕込んだ筑を始皇帝のいる方向に投げつけました。

もし頭に直撃していれば始皇帝も危なかったのですが、目に見えない悲しさか筑は外れてしましました。

怒った始皇帝は高漸離(こう ぜんり)を処刑するとともに、以降は秦以外のの出身者を身近に近づけないようになったと言われています。

更には巡遊中にも始皇帝は狙われてしまいました。

首謀者は秦に滅ぼされたの貴族であった張良(ちょうりょう)でした。

後の時代には劉邦の軍師として名を馳せることになる人物ですが、この時は亡国の貴族であり、始皇帝を仇としてつけ狙う青年でした。

とはいえ、自分で暗殺を行えるほど張良は武芸優れてはいませんでした。

後の大軍師らしく、彼は怪力の持ち主を味方にして、高所から巡遊中の始皇帝の車目がけて鉄槌を投げさせました。

重さ一二〇斤(約三〇キロ)といいますからまともに当たれば命はなかったことでしょう。

ただ、鉄槌は外れ、始皇帝は辛くも助かりました。

始皇帝は怒って徹底した捜索を行わせましたが張良はうまく逃げ、後に劉邦陣営に加わって秦への恨みを晴らすことになりました。

また、咸陽で夜間にお忍びで外出していた時にも賊に命を狙われたことがありました。

この時には護衛の奮闘もあって(ひょっとしたら李信もいた?)賊の取り押さえに成功しましたが、単なる盗賊であったのか、政治的な意図をもった暗殺未遂だったのか、背後関係を洗い出すことはできなかったようです。

一つの中国を目指した政でしたが、その実現は容易ではなかったようですね。

【キングダム】嬴政(えいせい)焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)で言論を弾圧

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始皇帝時代の暗い側面のもう一つが焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)と呼ばれるものです。

元々始皇帝は韓非子をはじめとした法家の思想に馴染んでいました。

国家は法によって治められ信賞必罰をもって民衆を動かそうというものでした。

手柄を立てれば褒賞が与えられますし、失敗をすれば処罰されます。

みんな処罰されるよりは褒賞が欲しいはずなので頑張るはずだ

という考え方でした。

これに対して儒教の考え方は徳をもって治めようというものです。法と徳では、法は目に見えて

分かりやすいですが、徳は中々目には見えません。

法家は儒家のこうした分かりにくい部分を攻撃し、始皇帝もそうした考え方に賛成していました。

ただ、儒家は孔子の時代から続いている学問ですので、完全に排除するつもりはなかったようです。

それが儒家に対して一気に否定的になったのは、まず先ほど見た封禅の儀式のことがあります。

始皇帝は儒家の学者を呼んで封禅について尋ねたのですが、答えは全員違っていました。

聖人の学問と言われる儒教を修めていたのに儀式のことも分からないのか、と儒家に対してがっかりしたようです。

そして、始皇帝に対して不老不死を勧めた質の良くない儒家の学者が途中で逃げてしまい、しかも逃げた先で始皇帝の悪口を言ったりしたため、更に始皇帝を怒らせることになってしまいました。

始皇帝は儒家を数百人に渡って殺害し(坑儒)、民間人が所持していた書経や詩経、諸子百家の書物は破棄されてしまいました(焚書)。

以上動機もあるのですが、仁王を心がけようとしていた始皇帝(政)を知る者としては、この焚書坑儒はさすがにやりすぎだとも言えます。

はどうしてここまでしたのでしょう?

分かりやすい動機を考えるならば、やはり政治的な対立でしょうか。

既に見てきたように始皇帝は法家を中心とした国家体制を考えていましたから、儒教側にとっては転覆すべき相手ということになります。

こうしたグループが秦と敵対する勢力…例えば呂不韋あたりと組んでいたとしたらどうでしょうか。

呂不韋は後に政との対立に敗れて自殺してしまいますが、残党が反秦の運動を繰り広げていたという可能性もありそうです。

儒教は聖人の学問ですから、ひょっとしたら誰か聖人を担ぎ上げてと対立させようとしたのかも・・・。

【キングダム】嬴政(えいせい)そして・・・始皇帝の死

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このように中国改造を目指していた始皇帝でしたが、広い中国を変えていくには莫大なエネルギーと膨大な年月を必要としました。

始皇帝もひとりの人間ですから永遠に活躍できるわけではありません。

このため、始皇帝は晩年不老不死に関心をもつようになりました。

この中には先ほどの焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)でも見たように質の悪い者が多く、始皇帝を騙して財を築こうというものがほとんどでした。

そうした中でも一番スケールが大きかったのは徐福(じょふく)という人物です。

彼は始皇帝に対して東方に不老不死の薬を求めることができるが、そこに行くには大勢の童子童女が必要であり、また多くの職人が必要だと説明しました。

話がうまかったのか、始皇帝はこれを信用し、言われた通りのものを徐福に与えました。

徐福は大勢の童子童女と職人を連れて東へと旅立ち、そのまま戻ってこなかったのです。

どこか未開の地にたどりつき、新しい国を作るつもりだったのかもしれません。

その新しい国というのが他ならぬ日本なのだという徐福伝説も日本の一部地域に残されています。

始皇帝は帰ってくるはずもない徐福や他の不老不死探究者を待っていましたが、絶対に自分が不老不死になれるという確信はなかったようで、早くから自分の墓を作らせていました。

更に巡遊中に体調を崩すと死期を悟るようになり、長男の扶蘇(ふそ)を後継者とするよう文書を作り、これを超高に預けました。

その間も始皇帝は巡遊を続けていましたが、最終的には沙丘というところで

病没しました。49歳でした。

しかしながら、始皇帝の死後、事態は彼が期待したようには推移しませんでした。

超高は自らが権力を掌握したいと考えており、そのためには有能な扶蘇(ふそ)が二世皇帝になってはまずいと考えました。

そこで趙高は李斯と組んで遺言を作り替えてしまいました。

また、始皇帝の死が早くに伝わると各所にな混乱が予想されるため、しばらく死んだことを隠していました。

ただ、死んだことを隠すといっても時期が夏であったため、始皇帝の死体は次第に腐っていきました。

このため、彼らは大量の魚を取りよせて魚の臭いで死体の臭いを誤魔化したそうです。

偉大な皇帝であった始皇帝ですが、その死は非常に寂しい悲しいものでした。

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