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『渋沢栄一(しぶさわえいいち)』日本近代資本主義の父と呼ばれた90年の生涯を紐解く!

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【渋沢栄一①】新1万円札の顔!近代日本経済の父の数奇な人生【偉人伝】

幕末から昭和初期にかけての激動の時代を、数々の挫折を繰り返しながらも志高く生きた大河ドラマ『青天を衝け』の主人公:渋沢栄一(しぶさわえいいち)。

約500社の企業創立、600の公共事業に関わり、”日本近代資本主義の父”と呼ばれた男は、いかにして出来上がったのか…

90年の生涯を紐解いていきます。

是非最後までご覧ください。

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渋沢栄一(しぶさわえいいち)血洗島時代

旧渋沢邸「中の家(なかんち)」アンドロイド
旧渋沢邸「中の家(なかんち)」アンドロイド

富農の家に生まれ早くから商才を発揮

渋沢栄一の原点 ~幕末・パリ・血洗島~
渋沢栄一
渋沢栄一

1840年、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)の富農、市郎右衛門、栄の長男として生まれました。

幼少期は市三郎、栄二郎、栄一郎、後に篤太夫、篤太郎などの名や通称があったそうです。

あきちゃん
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血洗島という地名には、”赤城山の山霊が他の山霊と戦って腕をもがれ、その傷口をこの地で洗った”という言い伝えもあったそうです。

村は岡部藩の領地で、渋沢一族はこの地の開拓者のひとつとされるが、分家として数々の家を起こし、栄一が生まれた頃は渋沢姓が十数件あり、『中の家』・『東の家』・『西の家』などと家の位置関係で区別していました。

『中の家(なかんち)』は、代々農業を営んでいたが「名字帯刀」(みょうじたいとう)を許され、市郎右衛門のときには、畑作、養蚕や藍玉づくりなどとその販売のほか、雑貨屋・質屋業も兼ねてたいへん裕福でありました。
この家に、後に”日本近代資本主義の父”と呼ばれる栄一が生まれます。

名字帯刀(みょうじたいとう)とは?
江戸時代は武士の特権であったが、特に家柄や功労によって庶民に対しても名字を称え、帯刀(大小2本の刀を差す事)すること許された。

あきちゃん
あきちゃん

父・市郎右衛門は、親戚の『東の家』から男子のいなった『中の家』に婿入りした。学問に長け、持ち前の勤勉律義さで、養蚕や藍玉づくりとその販売により財を成し、一時期家運が傾いていた『中の家』を再興した。
母・栄も慈悲深い逸話が多く残され、困っている人を見過ごすことができない愛情にあふれた人柄で知られいます。

栄一は父から『論語』などを学び始め、7歳になると10歳年上の従兄弟で、秀才と名高い尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)のもとで学び始めます。

一緒に学ぶなかには、惇忠の弟で4歳年上の尾高長七郎、”新座敷”の従兄弟で2歳年上の渋沢喜作がいました。

4人は、その後の人生で同志的存在となっていきます。

14歳になると栄一は本格的に家業を手伝い、早くも商才の片りんを示し始めます。

栄一が17歳の、1856年、岡部藩から富農に御用金が課せられ『中の家(なかんち)』は500両の割当でした。

あくまで参考となる例として、日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料では
「当時と今の米の値段を比較すると、1両=約4万円、大工の手間賃では1両=30~40万円、お蕎麦(そば)の代金では1両=12~13万円」という試算を紹介しています。

500両となると......恐ろしい金額です(-_-;)
大河ドラマで栄一が怒るのも分かりますね。
お金を用意したのにあの態度は...ムカつきます!!

あきちゃん
あきちゃん

父の代理で代官所に出向いた栄一は、役人からの難癖をつけられ、ひどく侮辱されました。

結局『中の家(なかんち)』は御用金を払うが、栄一の心に、武士というだけで社会の上位を占め、農民というだけで侮辱される封建社会(領主対農民の関係)に対する強い反感が生まれます。

大河ドラマでもこのシーンはありましたね。
この出来事をきっかけに、渋沢栄一の経済やお金に関する考え方が生まれたのですね。

あきちゃん
あきちゃん

1853年の黒船来航以来、世情は騒然としていたが、尊王と攘夷の重要性を説く水戸学に熱中していた惇忠の影響もあり、栄一にも尊王攘夷の念が生じていました。

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横浜居留地襲撃を計画するも挫折

1862年、栄一らは攘夷鎖港の勅命が出ても何もしない幕府に憤慨し、横浜の外国人居留地焼き討ちを計画する。

父・市郎右衛門は

「道理を踏み、誠意を貫いて、仁人義士(思いやりがあり人の道を守る人)となるなら、たとえお前が死んでも私は満足」

と言います。

しかし決起は挫折。

京都を見聞した長七郎に犬死するだけと反対されたからです。

栄一は後に

「自分たちの決心はとんでもなく無謀だった」

と回想しています。

栄一は取り締まりの目を逃れて京都に向かいます。

渋沢栄一(しぶさわえいいち)一橋家仕官時代

実業家への基礎を学んだ一橋家仕官時代

1863年、決起に挫折した栄一は京都に向かうが、徳川御三卿のひとつ、一橋家用人・平岡円四郎の家来という通行手形を所持していました。

平岡は一橋慶喜の側近で、”一橋に平岡あり”と評さるほどの人物だったが、当時は将軍後見職の慶喜に従って京都にいました。

平岡は以前より、栄一が幕府に批判的なことを知りながら交流してくれていたが、そのつてを頼ったのです。

京都滞在中、栄一が書いた幕府批判の手紙が取締方の手に渡ってしまう事件がおきます。

栄一に捜査の手が伸びることを案じた平岡は、節を曲げてでも一橋家に仕官しないかと勧めてきました。

倒幕の考えを捨てていない栄一だったが、悩んだ末に仕官を決めます。

1864年、栄一は慶喜の家臣となり、一橋家の財政改革などで功績を上げ、2年もしないうちに勘定組頭(かんじょうくみがしら)に昇進しました。

勘定組頭(かんじょうくみがしら)とは?
江戸幕府の役職の1つ。 勘定所に属して勘定奉行の支配を受けて勘定所所属の諸役人を指揮・監督を行い、幕府財政及び農政を担当した。

あきちゃん
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この間には、西郷隆盛を訪ねて人物の大きさに感銘を受け、新選組の土方歳三と行動を共にすることもあった。

その一方で、平岡円四郎が暗殺される悲劇もありました。

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財務改革の実践と近代的な欧州の見聞

1866年、慶喜が将軍となります。

栄一は心ならずも幕臣に転じたことに落胆したが、そんな折、パリ万博に派遣される幕府使節団への随行が決まります。

1867年、使節団はパリに到着。

万博視察後はスイス、ベルギー、イギリスなどを歴訪しました。

しかしこの間に幕府は崩壊、使節団は1868年秋に帰国。

随行中、栄一の見聞はあらゆる産業におよんだが、特にパリで銀行、株式取引所、株式会社に仕組みを学んだことは、後に「合本主義」を実践する栄一に大きな影響を与えました。

そしてフランスの銀行家(商人)と軍人(武士)との関係にも衝撃を受けました。

渋沢栄一
渋沢栄一

「二人は全く対等で、官尊民卑(かんそんみんぴ)の日本人から見て驚くばかりに親密で、感銘と教訓を得た。
私は実業を振興し官尊民卑の旧習を打破しようと考えました。」

帰国した栄一は静岡藩の慶喜を訪れ、藩の殖産振興のため、「商法会所」を設立しました。

栄一が慶喜に仕えたのは5年ほどだが、

「私が今日あるのは一に一橋家仕官時代に始まった」

と回想しています。

官尊民卑(かんそんみんぴ)とは?
官僚・政府を尊び、民間の企業・商人を卑下すること

さまざまな国を見て、やっぱり”日本の社会はおかしい!!”と思ったのです。

今の時代も政治家偉そうですけどね...

あきちゃん
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渋沢栄一(しぶさわえいいち)新政府時代

大蔵省で日本の近代化政策を立案

1869年、静岡の栄一に新政府から呼び出しがあり、上京すると大蔵省への出仕を求められました。

静岡での生活が軌道に乗りつつあった栄一は、大蔵大輔(おおくらたいふ)の大隈重信(おおくましげのぶ)(旧佐賀藩士)に面会し、辞退しようとします。

しかし、論客大隈から

「新しい日本をつくる八百万の神の一柱となってほしい」

と説得されじいを撤回、官吏となりました。

大蔵省ではほかに大蔵卿(大臣)に幕末四賢侯のひとり伊達宗城(だてむねなり)(旧宇和島藩士)、少輔に伊藤博文(いとうひろふみ)(旧長州藩士)、権大丞(ごんのたいじょう)に井上馨(いのうえかおる)(旧長州藩士)など、そうそうたる人物が要職を占めていました。

栄一は江戸時代の旧制度に代わる新しい制度作りのため、諸事案を企画提言する新部局「改正掛」を設置し、掛長となって静岡藩の杉浦譲(すぎうらゆずる)、越後国出身の前島密(まえじまひそか)など気鋭の人々を集めました。

杉浦譲(すぎうらじょう)は万博使節団に随行したメンバーの一人でした。

改正掛は度量衡の統一、物納から金納への祖税制度改正、太陰暦から太陽暦への転換、貨幣制度、郵便制度など次々に提案する。

そのひとつには製糸場建設もありました。

幕末以来、生糸は日本の最大の輸出品だったが、品質悪化が問題となり官営製糸場が計画されたのでした。

栄一は製糸場設置主任となり、1872年、富岡製糸場が完成します。

初代場長には栄一の緑で官吏となっていた尾高惇忠が就きました。

1871年、大久保利通(おおくぼとしみち)が大蔵卿、井上馨(いのうえかる)が大蔵大輔となり、栄一は大蔵権太丞になった。

新政府の財政基盤はまだ弱く、税収総額さえ把握できないなか、陸海軍を始め各省はそれぞれ勝手に予算を要求していました。

井上と栄一は収支のバランスを精査すべきと主張したが、大久保は二人の意見に耳を傾けず激しく対立します。

同年、大久保が岩倉使節団の一員として日本を離れると、栄一は井上に協力して、歳入総額を調査するとともに、節約に努めて得た余剰金をもとに、1872年、国立銀行条例を公布した。

岩倉使節団
《不平等条約改正の交渉
日米修好通商条約に規定されている不平等の是正(治外法権の廃止、関税自主権の回復など)に向けた事前の外交交渉が主な目的です。
岩倉具視(いわくらともみ)を全権大使とする遣欧米使節団が横浜港からアメリカに向けて出発した。

あきちゃん
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しかし、各省からの経費増額要求は止むことがなく、政権幹部の支持も得られなかった井上は、1873年、辞職してしまいます。

実質ナンバー2だった栄一も井上と行動をともにし、大蔵省を去りました。

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渋沢栄一(しぶさわえいいち)実業家時代

「官尊民卑」「合本主義」を掲げ500社あまりの企業に関わり日本近代化に!!

大蔵省を辞した栄一は、まず銀行を設立します。

井上馨(いのうえかおる)とともに国立銀行条例を作った栄一に、独自に銀行設立を計画していた豪商・三井組が協力を求めてきます。

栄一は設立すべき銀行はあくまで民間企業で、1社資本の独占ではなく、複数資本による合本主義を主張しました。

そして1873年、三井組と小野組を中心に数十人の株主を募り、日本初の銀行

「第一国立銀行」(”国立”と冠しているが株式による民間銀行)

を創立しました。

頭取は三井・小野からひとりずつで、栄一は二人の頭取を調整する総監役となった。

銀行そのものがまだ世間に知られておらず紆余曲折もあったが、栄一は第一国立銀行を皮切りに数多くの会社設立、運営に関わっていきます。

栄一が実業を行うにあたっては

「官尊民卑の打破」

「合本方式による経営(合本主義)」

という明確な考えがあった。

「官尊民卑の打破」

は、血洗島時代に身分の違いによって代官所で受けた屈辱と、パリで官と民が同じ立場で接するのを見た感動によって、栄一の生涯の目標となりました。

そして合本主義による社会が発展すれば日本は近代化し、商工業者の地位も上がって、官と民の差が縮まるという考えでした。

栄一自身、合本主義について明確な説明をしていないが、

「交易を追求するという使命・目的のために人材と資本を集めた合本組織で事業を推進する考え方」

とされます。

今では当たり前の株式会社方式だが、明治初期においては個人経営の方が優れているという考えの実業家も多かったのです。

そして栄一の考える合本主義は、公益性や参加者の合意に力点が置かれ、株による会社の独占や、同業者を蹴落としての利益独占には反対しました。

栄一は、企業の利潤追求は肯定したが、根底には(『論語』に基づく)道徳が必要だという

「道徳経済合一」

も唱えています。

「日本資本主義の父」

と言われる栄一だが、自身は資本主義という言葉をほとんど使わず、財閥も作りませんでした。

”渋沢”の名前を冠する会社さえも、一部の例外を除けば存在しなかったのです。

明治を代表する実業家で栄一と対照的なのが、ライバル関係でもあった三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎(いわさきやたろう)です。

ある時、岩崎が渋沢を屋台船に誘い、

岩崎弥太郎
岩崎弥太郎

「合本主義は船頭多くして船山に上るようなもの。
それよりも二人で手を組めば利益は思うまま」

と提案したが、渋沢は、

渋沢栄一
渋沢栄一

「独占は健全な経済の発展につながらず、合本主義を貫くつもりである」

と答えたといいます。

銀行、製紙、製糸、ガス、電気、印刷、造船、海運、新聞、繊維、麦酒、ホテル、保険、製薬、通信など、生涯に約500もの会社や証券取引所、経済団体などの設立・運営・支援に関わった栄一は、数えで古希(70歳)となった1909年、第一銀行(国立第一銀行の後身)など一部を除いて役職を辞し、喜寿(77歳)を迎えた1916年、経済界から引退しました。

明治・対象を経て、栄一の唱えた「官尊民卑の打破」や「合本主義」による日本の経済の発展は進んだが、果たして道徳経済はどうなのでしょうか?

帝国ホテルで開かれた引退披露会のあいさつで、栄一は

渋沢栄一
渋沢栄一

「今日の実業界は物質は大いに進んだが、精神が同じく随伴したかと申すと疑問がなきを得ざると感じる」

と指摘しました。

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渋沢栄一(しぶさわえいいち)社会・公共事業時代

養育院、教育、文化、民間外交...約600の会社・公共事業に携わる

実業界引退以降、栄一は「養育院」の設立、女子教育の支援、文化、民間外交など、約600もの会社・公共事業に傾注しました。

教育院は困窮者、孤児、老人など保護施設で、幕府の貧民救済資金をもとに設立され、栄一は1890年に養育院が市営と

なってから晩年まで院長を務めました。

栄一は、教育院の財源を確保するために、鹿鳴館でのバザー開催なども行っていた。

慈悲深かった母・栄の影響もあったのかもしれないですね。

あきちゃん
あきちゃん

教育にも強い関心を持ち、特に「女子教育」と「商業教育」に力を入れていました。

女子教育では東京女学館、日本女子大学校(日本女子大の前身)などの設立に関わり、女子教育の必要性を説きました。

江戸時代以前の女性は、家庭での妻や母としての役割が求められ、学問は不要と考えられていました。
明治時代になると、男尊女卑の影響はまだまだ強く残っていましたが、文明開化によって徐々に女子に対する教育が広まっていきます。
現在のような男女平等が実現したのは、明治期に男女平等に向けて努力した女性たちの存在があるからです。

あきちゃん
あきちゃん

商業教育では、現場で事業を動かすことのできる人材を増やしたいと考え、簿記など実学を学べる商業高校の設立に注力します。


大恩ある徳川慶喜が、幕府崩壊時代に”命を惜しんだ”などの悪評があることに心を痛め、


大恩ある徳川慶喜が、幕府崩壊時代に”命を惜しんだ”などの悪評があることに心を痛め、徳川慶喜の伝記も編纂(へんさん)した。

また、民間外交の功績によってノーベル平和賞候補にも推進された栄一は、1931年11月永眠。

死の直前まで養育院の運営を気にしていたといいます。

激動の時代を歩んできた渋沢栄一。
100年以上たった今も現代の人たちに影響を与え続けるその多大なる日本経済への功績の数々
まさに現代の日本の礎を作った人物ですね。
2024年からの一万円札が楽しみですね!

あきちゃん
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