織田信長と言えば誰もが知っている戦国武将で、カリスマ性のある革新的なイメージがあると思います。
実際にも色々新しいことをやっていましたが、実は・・・
みたいなことが結構あります。
教科書で習っていたこととはずいぶん違う歴史が今では次々と証明されています。
今回はそんな一部の信長が大きく天下に大きく近づいた戦い長篠の戦いの真実を解説します。
前回は長篠の戦いの織田・徳川連合軍の鉄砲隊について紹介しましたが、相手の武田騎馬軍団の真実について紹介します。
是非最後までご覧ください。
【織田信長】長篠の戦い武田軍の最強騎馬隊は存在しない?
騎馬隊がいるのは日本人の心だけ?
ドラマや映画などで武田家の軍団登場するシーンには、お約束となっている演出があります。
それはたくましい馬にまたがった騎馬武者が群れを成して槍を持ち、敵軍に突撃する勇猛果敢か姿です。
「武田家は巨大な騎馬軍団で戦国時代を席巻した」
という通説に基づくこの場面は、黒澤明監督作品「影武者」でも大迫力で再現されました。
北海道の撮影現場では百数十頭の馬と10人以上の獣医師が集められ、騎馬軍団が壊滅するシーンでは馬に麻酔を投与して戦場での惨劇を表現したといいます。
この大掛かりな演出が決定打となり、日本人にとって武田家と言えば
「最強の騎馬軍団」
というイメージが定着しました。
戦国時代のファンなら誰もがお世話になる戦国シュミレーション
「信長の野望」
シリーズでは、武田信玄はじめ家中ほとんどの武将が騎馬戦において無類の強さを発揮します。
ところが武田家に限らずこうした騎馬隊は存在できなかったことがわかっています。
【織田信長】「長篠の戦い」いるとすればポニー
私たちが「馬」という言葉から連想する姿はしなやかで細く長い力強い脚、引き締まった胴、スラリと上に伸びる首です。
ところがこうした姿の馬は、競馬とともに厳密に管理された交配から生み出されたものでしかなく、自然に生息する姿とはかけ離れています。
当然、ドラマや映画などで武士が騎乗しているのもサラブレッドやアラブ種の馬だが、こんな筋骨隆々の馬は、当時だとヨーロッパにすら存在しませんでした。
では戦国時代の騎馬武者が何に乗っていたかですが、日本原産の馬で、これが私たちのイメージを大きく覆すものなのです。
例えるとするならば、シルエットはポニーに近いです。
サラブレッドなどと比べると仔馬のように背は低く、ずんぐりむっくりの胴体に足は太くてがっちりしています。
彼らの戦場での役割は、武将を乗せての突撃ではなく「使役馬」として働くことです。
背中に積み荷を乗せて、行動を共にするのが一般的な使われ方でした。
農閑期であれば、農耕馬を徴用して使っていたかもしれません。
しかし、この場合は取り扱いに注意を要します。
戦場で馬が命を落とすようなことがあれば、国力の低下に直結するからです。
もちろん武士が乗ることもあったようですが、乗馬が許されるのは侍大将など、幹部クラスのみ。
一軍を騎馬武者で固めるようなことは、えさの問題など経済効率の問題からして割に合わないし、大量の馬を飼っておける場所の確保がむずかしいのです。
また、武将が乗るからと言っても戦場に赴く道中だけの話で、戦場に着陣すればただちに下馬するのが普通
でした。
【織田信長】「長篠の戦い」歩くよりましな程度だった?
武将が出陣する際は、必ず鎧兜を身に着けます。
当時の甲冑には軽量素材が使われているはずもなく、全重量が30キログラムに達する場合もあったといいます。
仮に、武将の体重が、50キロだろしても、それだけで80キロを超える計算となります。
いくら下半身に安定感があるとはいえ、こんな重量をポニーに乗せたらどうなるでしょうか。
弱い個体であれば、へたり込むか、立っていることがやっとで厳しい行軍すら耐えられなかったでしょう。
事実、完全武装した武将を当時の日本原産馬に乗せると、せいぜい人間の徒歩ぐらいのスピードしか出せなかったといいます。
走るなどもってのほかで、ましてや突撃するなどとんでもないはなしです。
だから、完全武装した武将が戦場の最前線で馬に乗るというのは、イメージにあるような自由を得るのではなく、逆に動きを制限されることに等しかったのであります。
それは単純に、甲冑を着用した状態で歩くことでの疲労を避けるためです。
武将たちを前線まで送り届けた馬たちは、後方の安全地帯に集められます。
きっと人間たちの熾烈な戦いには目もくれず、周囲の草を食べていたことでしょう・・・
合戦が終わると、いくぶん軽くなった駄馬を引き受ける馬もいれば、傷ついた足軽を運搬することになる馬もいます。
想像の世界とは違い、なんとも閉まらない光景なのであります。
【織田信長】「長篠の戦い」馬の最前線での役割は?
このように幹部武将は移動手段として馬を使用し、最前線で使うことはなかったわけですが、では、合戦図絵巻などに描かれる騎馬武者は何をしていたのでしょうか?
彼らは主に軽武装で部隊間の連絡係を務めるものであったり、機動力を活かして逃げる敵軍を追撃するといった任につく武将たちです。
追うのが馬なら逃げるのも馬であります。
敗北した武将たちが戦場から離脱するときは装備を軽装にして馬にムチ打ち、なるべく早く戦場から去るのです。
騎乗を許された武士がそもそも少なかったということがわかったが、ではなぜ冒頭で述べたような勇壮な「騎馬軍団の突撃」シーンが創作されたのでしょうか。
歴史家たちが推測するのは、近代での戦争で伝令・偵察任務や大砲の牽引、物資の輸送で活躍した「騎兵」と、戦国時代の「騎馬隊」が混同されたのでは?という可能性です。
こちらの「騎兵」は、「歩兵」や「砲兵」といった兵種と同じく、れっきとした兵科の1つとして存在しており、全員が騎乗して任務にあたる組織です。
日本では導入が遅れましたが、1905年の「日露戦争」で秋山好古支隊がロシアのコサック騎兵を破ったことで、一躍名を挙げました。
あくまでも戦国時代の騎馬というのは、見てきたように単独で運用されることがほとんどであり、集団で運用されることは皆無に等しかったのではないかと思います。
このふたつが混同されたことで「影武者」のようなイメージが出来上がりました。