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2021年【織田信長】三段撃ちはそもそも存在しなかった?実はしょぼかった長篠の戦い

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織田信長と言えば誰もが知っている戦国武将で、カリスマ性のある革新的なイメージがあると思います。

実際にも色々新しいことをやっていましたが、実は・・・

みたいなことが結構あります。

教科書で習っていたこととはずいぶん違う歴史が今では次々と証明されています。

今回はそんな一部の信長が大きく天下に大きく近づいた戦い長篠の戦いの真実を解説します。

是非最後までご覧ください。

【織田信長】長篠の戦い「騎馬軍団」対「鉄砲軍団」?

織田信長の戦いでファンタジーが膨らみ過ぎた戦いで1575年に起こった

「長篠の戦」

があります。

「甲斐の虎」武田信玄の後を継いだ武田勝頼を、徳川家康との連合軍で打ち破ったこの合戦は、武田家滅亡の大きなきっかけとなりました

ちなみに兵力さは、

連合軍3万5000対武田軍1万5000です。
(兵力差は倍以上あって革新的な戦い方しなくても勝てたんじゃないか・・・)

結論から言えば兵力差です。

通説ではこの戦いで勢力図を大きく変えたことより有名なのが斬新と言われる信長の戦い方です。

織田軍・德川軍は、徳川家の長篠城の西方にある設楽が原に布陣し柵をたてて武田軍を待ち受けました。

対する武田勝頼は信玄の代からの戦歴の将を前面に押し立て、十八番の騎馬隊による突撃を実行します。

信長の柵の内側に3000挺にも及ぶ鉄砲を準備し、これを3隊に分けて武田軍を迎撃します。

火縄銃には弾込めに時間がかかるといった弱点がありましたが、3隊に分けることによって絶え間ない銃撃が可能となり、この「三段撃ち」によって無敵を誇った武田騎馬隊はもろうも壊滅した・・・

というのが今までのイメージだったと思います。

【織田信長】長篠の戦い三段撃ちのメリットが・・・

3000挺の鉄砲と「三段撃ち」については多くの歴史家が否定していますが、ここではなぜ有効な戦術ではない、解き明かしていこうと思います。

確かに当時の織田家は、全国でも有数の鉄砲を所持していました。

しかし原材料の調達や製造コストを考えればせいぜい1000挺が限界だっといいます。

「鉄砲は1000挺だったとしても、それを三つに分けて迎撃すれば、言われているような戦術がとれるのではないか?」

と思われる方もいらっしゃると思います。

しかし、これも数多くの専門家が検証したところ、この「三段撃ち」で攻撃の効果が上がることはなく、むしろ速射性が低下する可能性があることが指摘されています。

確かに想像すると

「三段撃ち」を完成させるためには、前後3人が並び、最前列の射ちてが発砲すると即座に最後尾に下がって弾込め作業に入り、順繰りに二番目、三番目が前進して発砲するという動作を、大勢の兵士が一糸乱れず、実行する必要がある。

兵士が頻繁に入れ替わるのだから、隊列の横には大きなスペースを空けておく必要があります。

砲煙が上がる中、密集した状態でローテーションをしようとすれば混乱を生じるからです。

せっかく敵の侵入を防ぐ馬防柵を張り巡らせているのに、「三段撃ち」のために、妙に間延びした陣形を組まなくてはなりません。

織田軍が「三段撃ち」なる戦術を採用するメリットは、どこにもありませんでした。

※個人的には入れ替えあるのではなく、討つのが上手な人に討つのは任せて、後ろの人間に弾込めを任せた方が早いかなと思います。作業分担した方が専門性も上がりますし・・・

では、どうやって信長は騎馬突撃してくる武田軍を打ち破ったのか・・・

そもそも武田軍は「騎馬軍団」なる組織はありませんでしたが、この件に関してはこの話の後説明いたします。

まず、大きなことは戦力差が歴然としている点です。

織田・徳川連合軍は4万近くの大軍だったのに対して武田軍はせいぜい1万5000人程度。

勝頼は信長・家康と一大決戦するつもりは毛頭なく、徳川軍の前線基地である長篠城を落とそうとしていました。

そこへ信長が大軍を進めて堅牢な陣地を築き、さらに別動隊を動かして城の包囲網を崩しにかかりました。

進退極まった勝頼は設楽が原で待ち受ける両軍に野戦を挑み敗れました。

画期的な戦術ではなく、両軍の兵力差がもたらした当然の結果にだったのです。

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