もくじ
織田信長 天下統一の礎を築いた戦国時代の重要人物
尾張の守護代・織田信秀の三男として一五三四年に誕生した信長は、嫡男として育てられ、二歳のときに那古野城主となった。
1549年、15歳の信長は、斎藤道三(さいとうどうざん)の娘・濃姫(のうひめ)と政略結婚。
その後、1551年に信秀が急死し、17歳にして家督を受け継いだものの、弟の信行と対立する。
信行を鎮圧したことをきっかけに、信長は尾張国内における対立勢力をすべて退けていった。
1559年2月には将軍・足利義輝を訪ね上洛。
この頃には、すでに尾張国を完全に支配していた。やがて、信長の勢力が他国に及び始めると、尾張国は駿河・遠江・三河を支配していた今川義元(いまがわよしもと)による脅威にさらされるようになり、1560年5月にはついに侵攻を受けることに。
しかし信長は屈せず、二万人とも四万人ともいわれる今川軍が桶狭間(おけはざま)で休息をとっている折りを見計らって、五千人程度の兵力で奇襲。
信長軍は今川義元の首を獲ることに成功するのだった。
日本三大奇襲、のひとつとして知られる、この桶狭間の戦いにおいて、信長が重視したのは、今川軍の動向を偵察することだった。
その証拠に、この戦いでもっとも多くの恩賞を得たのは、敵の本陣に切り込んだ服部小平太でも、義元の首をとった毛利良勝でもなく、今川軍の休息を察知した簗田政綱だったといわれているのだ。
「情報を制するものが戦いを制する」
という鉄則は、今でこそ当たり前だが、信長はほかの武将よりも情報を重視していた。
桶狭間の戦いを前に、今川義元に向けて嘘の情報を流布し、今川勢の撹乱を目論んだとの説もある。
とかく粗野なイメージがつきまとう信長だが、実は緻密にことを運ぶ、情報戦の達人だったのだ。
※ちなみに最新の研究では奇襲ではなかったという事がわかっており、織田家が普通につよかった(金持ち)という見方が有力になっています。
織田信長 長篠の戦い難敵・武田軍圧倒の裏に先見の明あり
そんな信長が、宣教師によってもたらされる海外の情報に興味を抱いたとしても、なんら不思議ではない。
信長は時計や世界地図に興味を示しただけでなく、家臣たちが首をひねった地球儀についても
「この世界が球だというのは理にかなっている」
と即座に理解を示したのだとか。
さらに、イエズス会の司教が連れていた黒人をもの珍しさから側近として迎え、ヤスケと名づけていたという逸話もある。
1543年に種子島に伝来した火縄銃への強い関心も、信長が新しもの好きだったことを示す一例だろう。
1575年に徳川家康と連合して武田軍と戦った長篠(ながしの)の戦いにおいて、信長は火縄銃三千挺を導入。
火縄銃部隊を三分割し、「撃つ・待つ・弾を装填する」というローテーションを組んで矢継ぎ早に銃撃する。
を考案し、当時最強といわれていた武田騎馬軍団に圧勝した。
この勝利が、信長の天下統一への道を決定づけたともいわれている。
織田信長包囲網を破り、天下統一へ…
長篠の戦いをさかのぼること7年、信長は将軍家の家督相続から外されていた足利義昭を十五代将軍へと押し上げた。
しかし、幕府再興を画策する義昭と、天下統一を狙う信長は次第に対立。
義昭は諸国の武将の力を得て信長包囲網、を形成していだが、信長はいずれも打破。
最終的に将軍家を京都から追放し、幕府を滅ぼしてしまった。
信長を討伐するはずの包囲網は、結果的に信長の勢力拡大を加速させる結果になってしまったのである。
1576年、信長は新拠点として琵琶湖の湖岸に安土城の築城を開始。
信長は、いよいよ天下統一に本腰を入れ始めるのです。
1582年、十万の軍勢を率いて武田一族の討伐に向かった信長は「武田に属していた者は一族もろとも根絶やしにせよ」と、冷酷ともいえる「武田狩り」の命令を下したといわれている。
このほかにも、信長は残虐非道な方法で、たびたび世間を恐怖に陥れてきた。
僧侶はおろか、女、子供までを追いたて、四千人あまりが殺害された比叡山(ひえいざん)の焼き討ちはその代表だろう。
織田信長
織田信長正気?狂気?: 神仏を恐れぬ第六天魔王
当時、岐阜と京都に拠点を持っていた信長にとって、比叡山は軍事的にも重要なポイントだった。
だが、比叡山延暦寺の僧侶たちは、信長と敵対する浅井長政・朝倉義景の連合軍をかくまい信長に反抗。
これに腹を立てた信長は、敵勢力を討ち、拠点を奪取すべく、 比叡山(ひえいざん)の焼き討ち を決意する。
寺院を焼き落とすという行為は、今考えれば乱心とも取れなくはないが、当時の僧侶たちは武家との癒着で、政治的にも軍事的にも影響力があり、天下統一を目論む信長にとってはいずれ打倒しなければならない存在だったのだ。
宗教嫌いの信長は、一向宗の宗徒たちによる一揆にも徹底抗戦し、二万人の信徒を葬ったこともある。
記録だけ見れば、信長は残虐、という主張はもっともだが、そこには信長なりの、決して譲れない正義があったのである。
※金貸しの総本山ともなっていたという説もあり詳しくはこちら↓
あるとき、神仏の加護、を謳う武田信玄(たけだしんげん)から「天台座主沙門信玄」という署名入りの書状を受け取った信長は、仏教を破壊する
邪神「第六天魔王」
の署名で書状を送り返したという。
信長は仏教を目の敵にしていたのだ。
信長と親交の深い宣教師ルイス・フロイスの記述によると、信長は
「創造主、不滅の霊魂、そして死後世界の存在を否定していた」
とのこと。
仏像を軽視した信長は、各地で仏像を破壊し、城の石垣の礎石などにしてしまったという。
織田信長稀代のうつけ者、その言動に理由あり
神仏をも恐れぬ信長の行動は、当時、誰の目にも型破りに映ったことだろう。
だが、常識を外れた信長の様子は、幼少の頃から知られていた。
織田家の嫡男でありながら、庶民に混じって遊び暮らすのは序の口。
背中に極彩色の男根を模した柄の入った浴衣を好み、だらしなく街を歩く姿は、周囲から「うつけ者」と噂されていた。
父・信秀の葬儀の際、お香を祭壇に投げつけたというエピソードも伝わっている。
だが、そんな信長の武将としての才覚を見抜いた人物がいた。
濃姫の父で、信長の義父にあたる斎藤道三(さいとうどうざん)である。
愛娘と信長の政略結婚を企てた道三は「うつけ者」の姿を事前に見ておこうと、信長の姿を見張っていた。
普段の信長は、噂どおりの奇抜ないでたちで、武将としての品格は微塵もなかった。
だが、会見の席に現れた正装の信長を見た道三は、その気高さに脱帽。
普段のうつけた格好はは周囲を油断させるためだと読み取った。
「やがて我ら一族は、あの男の門前に馬をつなぐだろう」
と語り、将来、斎藤家が織田家に下ることを予見したといわれている。
また、信長は、道三との初会見の際に弓・鉄砲五百挺、長槍五百本という軍備で臨んだようだ。道三はその様子に驚いたとする説がある。
というのも、信長の兵が携えていた長槍はなんと長さ約六メートル。
当時の槍は二~四メートルが一般的だったことを考えると、信長がいかに型破りだったかがわかる。
この長槍は、もちろん飾りではない。
相手を叩き落し、ひるんだところを刺すという戦法が確立され、技の指南には信長本人が直々にあたっていたらしい。
極めつけに、討ち取った浅井久政・浅井長政(あさいながまさ)・朝倉義景の頭蓋骨に金箔を貼り、それを肴に酒を飲んだという逸話も知られている。
しかし、これは、研究により死者に敬意を評した行為だということがわかってきた。
「うつけ」と思しき行為の数々にも、信長なりの理由や根拠、正義が存在しているのだ。
そんな信長が、家臣・明智光秀(あけちみつひで)の謀反により、本能寺で命を落としたのは1585年のこと。
武田氏を滅ぼした四ヵ月後の虚しき自刃だった。
もしも、信長が本能寺で死ななければ……歴史は確実に違うものになっていたはずですね。
戦国一のカリスマ織田信長と織田家
うつけから英雄へ華麗なる大変身
長篠の戦いでは、戦国最強のといわれた武田の騎馬隊を撃破し、天下人の最有力候補に。鉄砲や鉄甲船等の最先端技術をすべて取り入れた革命児。大うつけと馬鹿にされていた信長だが、桶狭間で今川義元に勝利すると、一躍脚光を浴びる。彼の躍動は起こるべくして起こったといえるだろう。本能寺で果て、天下布武の夢は幻と消えるが、戦国の英雄であることは変わりません。戦国武将といえば、織田信長そういっても過言ではないぐらいいファンやアンチファンもいるのは皆さんもご存じなはずです。
織田家の歴史
信長の父・信秀が尾張守護の斯波氏を制し、戦国大名へとのし上がった。
信秀の後を継いだ信長が桶狭間の戦いで今川に、長篠の戦いで武田に勝利し、天下獲りにまであと一歩と迫る!だが快進撃を続けた信長も、本能寺で無念の死を遂げてしまう。この戦乱の世にさん然と織田家の名を輝かせた信長の功績は非常にに大きいです。
冷酷などといわれる織田信長だが弟信行と跡目争いで信行についた織田家随一の家臣となった柴田勝家も許しているし、松永久秀に何度も裏切られたがそのたびに許していたということもあり、心の広い面もあったのかもしれませんね。
織田家家臣
- ・明智光秀(あけちみつひで) :光秀のスキルの高さを瞬時に見抜いた信長によって登用され、外交を担う重要なポストに就きました。光秀も信長の期待を裏切らずに、働いたが、反旗を翻し本能寺で、主君信長を自害に追い込みました。(私は本能寺は秀吉説だとおもっています。)
- ・九鬼嘉隆(くきよしたか)
- ・佐久間信盛(かくまのぶもり)
- ・佐々成政(さっさなりまさ)
- ・柴田勝家(しばたかついえ):「鬼柴田」といったニックネームを持つ忠義勇敢な織田家譜代の家臣。信長が指揮を執った主要な戦いには、ほぼすべて参戦している。
- 信長の死後は、織田家を守るために秀吉と戦いました。
- ・滝川 一益(たきがわ かずます / いちます)
- ・丹羽長秀(にわながひで)
- ・羽柴秀吉(はしばっひでよし)
- ・前田利家(まえだとしいえ)
- ・池田恒興(いけだつねおき)
- ・森蘭丸(もりらんまる)