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【毛利元就(もうりもとなり)】三本の矢は嘘?天才策略武将の生涯と死因活躍のすべてを徹底解説

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毛利元就(もうりもとなり)

1497~1571年
元就は1497年安芸国(現・広島市)に毛利弘元の次男として生まれました。

毛利元就(もうりもとなり)策略家弱小豪族の毛利家を大大名押し上げる

毛利元就

毛利元就といえば、策謀の人。弱小豪族だった毛利家を中国地方一の大大名に押し上げた人として名高い。

元就は暗殺、買収、偽情報など、ありとあらゆる計略を用いて、敵国を弱体化させることを得意とした。そのためか「冷酷な知将」とも言うべきイメージが一般に広まっている。

しかし、その実像はどのような人物だったのだろうか。

さらに外せないのが「三本の矢」。

黒澤明監督の大作映画『乱』でも引用されたこの逸話は、あまりにも有名だ。一本では容易に折れる矢も、三本束ねれば決して折れない。元就は三人の子を相手に、それぞれを矢に見立てて団結の必要性を説いたとされる。

このエピソードの真相にも迫ってみたい。

毛利元就(もうりもとなり)ヤケ酒の家系

元就は1497年、安芸国(現・広島県)に毛利弘元の次男として生まれた。

毛利家の史書『陰徳太平記』には、ある日弘元の妻・福原氏の下半身を強烈な日光が照らし、 元就を懐胎したという伝説の記述がある。

この前年には、応仁の乱の原因をつくった日野富子が死去し、4年前には「ここから戦国時代がはじまった」と言われる明応の政変で細川政元が足利将軍・義材の留守を狙いクーデターを起こしている。

当時の毛利家は大名ではなく、地元の農地を管理した小豪族に過ぎず、細川家と大内家との板ばさみに苦しんでいた。

弘元は元就の兄・興元に家督を譲り、 多治比猿掛城に隠居することで毛利家の混乱を避けようとするが、1506年に心労と酒毒で死去する。 元就は父の隠居に付き添っていたが、父の死後、家臣の井上正盛に城を乗っ取られ、養母のもとに身を寄せた。

一方、家督を継いだ興元は、父と同じ苦しみを味わっていた。 後々元就とも戦うことになる尼子家が台頭、大内家と中国地方の覇権を巡って安芸国で争い始めたのだ。

二大勢力の間で揺れる興元も酒に走り、1516年、25歳の若さで急死する。

ちなみに元就の祖父・豊元も酒がもとで若くして没しており、元就はこの「ヤケ酒の家系」の轍を踏むまいと酒を遠ざけていたとされる。

興元の跡目は嫡男・幸松丸が継いだが、彼も7年後に病死してしまい、ついに元就にお鉢が回ってくることとなった。

毛利元就(もうりもとなり)虚仮脅しで敵を撃退

はじめ元就は勢いのあった大内家に従ったが、ライバルの尼子家が勢力を増すと寝返った。

ところが、尼子経久が元就の家督継承を邪魔すると、疑心を抱いた元就は大内家に出戻った。

その3年後、何の未練かまた尼子と通じあっては、不穏な動きをみせる元就。

果たして最後に選んだ主家は、大内家であったから、二転三転、ぐるりと一周した元就の主家決めだった。

1540年、元就の離反に怒った尼子晴久が、大挙して吉田郡山城に攻めてきた。元就は大内家に援軍を頼んだが、きわどい展開となった。

そこで元就は一計を案じる。深夜、こっそりと山の中に入り込み、かがり火を一斉に燃やす。 すると、尼子軍はこれに目を奪われ、朝方になると勝手に退却していた。

実は、かがり火の後ろに数千のワラ人形を配置し、あたかもおびただしい数の軍勢がいるように偽装したのだ。

1563年、逆に元就が大軍を率いて尼子を追い詰めた。白鹿城での水攻めである。

白鹿城は尼子の支城のなかでも屈指の堅城。元就もうかつに手が出せず、代わりに城の水や兵糧の供給源を絶ち尼子の出方をうかがった。

尼子方も物資の不足を見破られまいと虚勢を張る。

連日、やぐらに名馬を出しては、飢えた家臣が大量の米で馬を洗って見せた。

遠くから見る毛利方にはそれが米ではなく水に見えたので、家中には水攻めの効果を疑い退却を主張する者も出た。

だが、敵の行動を不審に思った元就は使者を派遣し様子を探らせた。すると、わざわざ使者の通り道にたくさんの米俵を積み上げるなど、必要以上に尼子が水や物資を露出させていることが分かった。

元就はこれを虚仮脅しと喝破し、落城が近いことを悟ったといわれる。

その間、白鹿城を包囲していた元就の家臣・出羽中務少輔は、暇を持て余し和歌を読んで矢文を放った。

「お前の城はもう終わり。毛利の元で滅びる運命」

これを見た尼子の家臣・神田弥左衛門は腹立ちまぎれに射返した。

「お前らは、世継ぎが死んで、もう終わり」

(『安芸の森枝葉も落ちて木枯の中に松田ぞ色

を増しける』)

「元就は能無し武将。 逃げもできずに、攻めもできない」(『元就は白鹿の糸に繋がれて引きも引かれず射るも射られず』)

出羽もこれに対抗する。

「なにをいう。お前ら全員、毛利次第ですぐにも滅亡」

これで両者矢文の応酬とまらず、ついには合戦にまで発展してしまった(『雲陽軍実記』)。

元就が大変な和歌好きだったことは知られているが、意外なところで家臣も才能を発揮し、尼子側をうまく揺さぶることに成功している。

この後、毛利軍は白鹿を落とし、尼子は滅亡への道をひた走ることになる。

毛利元就(もうりもとなり)重大なうっかりミス

1566年、尼子家は牙城である富田月山城で、元就による最後の総攻撃に耐えていた。

落城すれば尼子家3代にわたって築いた栄華が台無しとなる。ときの主君・尼子義久は覚悟を決めるが、その前に勇敢な申し出を行った者がいる。大男で知られた剛の者たち、熊谷新右衛門と原宗兵衛である。

「我らが元就の陣に投降すれば、必ずや元就と対面します。そのとき隙をついて我ら二人が同時に飛びかかれば、元就といえども刺殺は容易。ただ、我らは生きては帰れぬゆえ、褒美は子供たちに与えてください」

義久にとっても思いがけない申し出だった。

喜んで二人を見送ると、熊谷らは、

「元就が猛者といえども、我ら二人が左右から捕まえれば、逃げられるはずがない!」

と大言を吐いて現場に向かった。

さて、元就の陣は洗合にあったが、熊谷・原の両人は、そこへ近づくと降参の意思を伝えた。

元就とはすぐに対面となった。身元の確認がはじまっていた。ただし、その日に限って投降した者が30人以上出ており、混雑して動けない。

さらに予想に反し、元就は息子たちに囲まれて上段に座っており、下段には20人以上の家臣が並んでいた。

「お辞儀だけして帰ろう」

二人は警備の隙をみて、富田月山城へ一目散と逃げ帰った。元就はこの動きを不審に思い追っ手を出したが、二人の逃げ足は速かった。

命からがら逃げ帰った熊谷、原の両名は計画が失敗したことを告げた。

「元就は人間ではありません。あれは、どうも神の化身かなにかでしょう」

義久の深いため息が聞こえてくるようだ。

敗戦間近に半端な義将を信じてしまった尼子義久のうっかりだった。

一方、半世紀もの間戦い続けた相手から、“神の化身”とまで呼ばれた元就だったが、彼も尼子家相手にうっかりしたミスをおかしたことがあった。

尼子家が晴久の代のとき、元就の重臣たちが、密使からある重大な情報を仕入れた。

「尼子晴久は病気で長くない」

これは出雲を攻め取ろうと企てる毛利家にとって朗報だ。重臣たちは、主君が聞いたらさぞ喜ぶだろうと急いで伝えた。

すると、元就は激怒した。

「お前たちは遠慮もせずに何を言うか。 これから攻めようとするときに、都合よく大将が病気になどなるものか。これは罠である。お前たちも、今後このようなことで二度と喜んではいけない」

以来、この噂はぴたりと止んだ。しかし、晴久は本当に病気だったため、まもなく死んだ。

このとき元就が動いていれば、5年は早く尼子家との戦いが終わっていた可能性があった。

毛利元就(もうりもとなり)深夜に駄洒落を叫ぶ

事件は1551年の夏に起こった。主家の大内義隆が重臣・陶晴賢に反乱を起こされ、殺害されたのである。

まさに下克上だ。当初、元就は事態を静観、仇討ちには興味がなかったが、瀬戸内海の制海権を晴賢が握ると、一転して討伐を決めた。

しかし、兵力の差は陶軍3万に対し、毛利軍3000。 野戦では到底勝ち目がない。

そこで、元就は四方を海に囲まれた狭い厳島に陶軍をおびきよせ、一網打尽にする奇襲案を立てる。

嘘の情報で晴賢を混乱させた元就は、陶軍を先に厳島へ上陸させると、夜密かに、自軍も上陸した。

元就は身も心も張り詰めていた。強い雨が降っていたので家臣が元就に傘を差し出すと、彼は右の拳で傘を殴り飛ばしてしまった。

襲撃を前に気合に満ちた元就が、全軍を揃えて深夜に叫ぶ。

「よく聞け皆の者! 先ほど船頭に聞けば、ここは包ヶ浦、あの山は博奕尾というらしい。喜べ! 両方とも敵を打つ"ことに縁起があるぞ」

「鼓」と「博打」をかけた元就渾身の檄であった。おかげで毛利軍の士気は大いに上がる。

翌日の昼、その博奕尾を目指し毛利軍は森の中を行軍していた。そこに突然、鹿が飛び出してきた。元就は驚いて大声で叫んだ。

「鹿は神の使い! それが現れた以上、神に導かれたも同然だ。それ皆の者、鹿の後を追え!」

全軍が一匹の鹿の後に続いた。果たして、その先には陶家の大軍が野営していた。

毛利軍は闇にまぎれて奇襲をかけた。

たまらず陶軍は大混乱に陥り壊滅。晴賢は自害した。

だが、 元就の高ぶりはなかなか冷めやらない。

『武家万代記』によれば、

「後日、元就は差し出された晴賢の首を確認した。 元就は首を睨みつけては、ムチを手に取り三度も振った」

と記されている。

こういった様子からは、一世一代の奇襲作戦で「熱く」なる元就像が浮かび上がる。

彼は単純な策謀家ではなく、根は闘志に燃える熱い武将だったのかもしれない。

陶が奪った大内家の領地は、すべて元就のものになった。 元就は先代から悩まされていた実力者を次々に滅ぼし、中国地方の覇権を握りつつあった。

毛利元就(もうりもとなり)家臣の傷口にかぶりつく

1570年、山中幸盛ら尼子家の残党が、九州で戦っていた毛利軍の隙をついて挙兵した。このとき元就は24歳、敵は残党とはいえ2万をそろえ、緒戦は尼子再興軍が優勢、元就の家臣・岩木道忠は重傷を負っていた。

左膝を矢で射抜かれ、抜いても矢尻が肉の間に喰い込んでいる。

元就が至急、医者に見せると、

「膝から切断しなければ治らない」

という。

道忠が青ざめ、元就を見た。切断するのは容易でも、片足になることは彼の武士生命の終わりを意味する。すると、元就は、震える道忠を横目に、医者を叱りつけると、突如として道忠の傷口にかぶりついた。

膿を吸い出し、舌で肉を掻きわける。

ついに元就の口に矢尻が入った。

道忠は感動し「あなたの為なら命をも惜しみません」と決意を口にした。元就は言った。

「このようなことに感激して、厚義と思うようなら大勇ではないぞ。部下の一命をとりとめるために、これしきのことをするのは当たり前のことだ」

この後、士気を取り戻した毛利軍は、尼子再興軍に逆転勝利、山中幸盛も自害した。

74歳とは思えぬ覇気である。 小手先の謀略だけはなく、元就が熱い人間的魅力に満ちた人物であったことがうかがえる。

毛利元就(もうりもとなり)「三本の矢」の真相

さて、元就といえば、身内の結束を説いた「三本の矢」の逸話が最もよく知られている。

三本の矢の話とは、次のようなものだ。晩年、元就が長男・隆元、次男・元春、三男・隆景の三人の息子を枕元に呼び寄せると、矢を一本ずつ渡して「折れ」という。

息子たちは当然、いとも簡単に折ってみせる。が三本ならどうだ」と束ねて手渡すと、豪勇で鳴らした元春ですら折ることができない。

「なかなか折れないだろう。このようにお前たちも三人力を合わせて、毛利の家を守っていくのだぞ」

と元就が説いた••••••とされている。

が、実はこれ、徳川家が、争いごとを未然に防ぐため中国の古典 『西秦録』を参照しながら、人々の教育に利用しようと創作した話であることがわかっている。

そもそも、元就の晩年には隆元が既に死亡しているため、メンバーが揃わないのだ。

とはいえ、矢の教え自体が創作であっても、

元就が常日頃から息子たちの強い結束を説いていたことに違いはない。

それは手紙(遺言状)にも託されており、何度も繰り返し結束を語ったため、作家の吉本健二は元就のことを説教魔と呼んだほどだ。

例えば息子たちに残した手紙でこういっている。

「助け合わなければ、お前たちは滅亡するだろう。 母親が生きていれば、私が直接いうことではないのだ。母親が生きていれば、私がいちいちここまでいう必要はないのだが」

では、実際に息子たちの仲はどうだったのだろうか。

これが意外に知られていない。果たして「三本の矢」の逸話に象徴されるように、実情も美談に彩られていたのか。

河合正治編『毛利元就のすべて』によると、こうある。

「長男・隆元は、毛利本家の当主として責任を負い、弟たちに自分の繁栄だけを考えるのではなく、お互い足らない所は埋め、皆で協力しあおうと強く望んでいた。三人の話し合いは、本拠地・吉田で行われ、そこで毛利家全体の運営が決められた。ところが、弟たちは吉田へ来てもすぐ帰ろうとし、それでもいやいやながら居残ると、今度は長男の隆元をのけ者にして、弟たちだけで話し合いをはじめた。

隆元はなかなか話しかけることもできず、『弟たちは私のことを馬鹿にしている」などと訴え出たこともあった」

「三男・隆景は年齢が若いうえに、力のついた小早川家の当主であったため、身勝手な要求を出してコトを面倒にした。隆元は隆景のために吉田内に屋敷を与えたが、隆景は不満をあらわにし、「私の宿というからには、家屋も立派に設備を整え、より贅沢にしたい』と無理な要求を出して隆元を困らせた」

「次男・元春は、武力に長けてはいたが、すぐに「ええい、叶わずば討ち死にするまでよ』とか『ここは退けない』などと、良い歳をして若武者のようなことばかりいった」

このように個性溢れる弟たちに長男・隆元は頭を悩ませていたようだ。

しかし彼と元就の亡きあと、隆景と元春は隆元の子・輝元を「両川体制」と呼ばれるように、よく補佐し支えた。

だからこそ「三本の矢」のような創作話が生まれたのだろう。

ちなみに三人兄弟がクローズアップされがちだが、元就には「四本目の矢」と呼ばれる穂井田元清をはじめとして優秀な子供が数多くいた。

元就の亡きあと、彼らが輝元を一致結束して盛り立てたのである。

毛利元就(もうりもとなり)座敷で雪合戦を開始

最晩年のある冬、雪が本降りになると元就は喜びを露わにした。

「心地よい雪だ。外で雪合戦をしたいが、高齢で叶わない。だから座敷のなかでやろう。さあ、急いで雪を部屋にたくさん持ってこい」

家臣たちは、

「殿もいよいよ耄碌されたか」

と、それぞれ思い思いに器に雪を盛って部屋に入った。はじめは申し訳程度に家臣同士軽く雪をかけあう程度だったが、

「雪合戦をせよ」

と、元就が雪を片手に振りかぶり家臣にぶつける。

その家臣は元就にぶつけるわけにはいかず別の家臣にやり返し、それが次々に連鎖して、座敷内はいつしか大合戦の様相を呈した。

元就は若い家臣を鍛えるつもりで屋内雪合戦を敢行したと伝えられる。老人の自分が雪合戦をしていれば、自然に家臣もコタツから外へ出て雪合戦をはじめる、そう考えたのだ。

1571年6月、元就は15歳でこの世を去った。去り行く前に催した花見の会では、見舞いに訪れた遠近の客をもてなしながら、

友をえて猶ぞうれしき桜花昨日にかはる けふの色香は

と一句詠んだ。

生前の元就は、

「私には友達が一人もいない」

そう強く嘆いたことが知られているだけに、感動的な情景が浮かぶ。

策略だけじゃなく、時に激しい情熱をもって、毛利家を西国を代表する大大名にした元就。

最後は子供たちの結束と版図の維持を何よりも願った。

「3本の矢」ではなかったものの、残る二本と、それを支えた何本もの「矢」たちが毛利家を明治時代まで続く長州藩主とした。

その努力は長州藩が薩摩藩と並ぶ明治維新の中心勢力となって幕府を倒し、開花することになる。

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