【キングダム】楽毅(がくき)キングダムでは死亡しているが春秋戦国一の武将
燕の将軍楽毅(がくき)はキングダムの中で最強と呼ばれる武将です。
秦の
「六大将軍」
や
趙の
「三大天」
など、中国全土に名をのこした強力な武将と並び、前漢の初代皇帝高祖劉邦(りゅうほう)や三国志で最も有名と言っても過言ではない諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)などの大物たちが、軍神として崇めるほどの偉大な武将です。
しかし、キングダムの中では残念ながらすでに死亡しているため劇辛(げきしん)の回想の中でのみ登場します。
楽毅(がくき)はもともと、趙の武将でしたが、燕の昭王により劇辛(げきしん)と共に引き抜かれ、破格の待遇で登用されました。
彼は燕を脅かす斉を滅ぼすため、韓・魏・趙・秦によびかけ、五国による合従軍をつくりました。
その総大将を務めたの楽毅(がくき)は
「済西の戦い」
で斉を滅ぼしました。
中でも楽毅(がくき)の活躍はすさまじく、70を超える斉の都市を滅ぼしたといわれています。
傾きかけていた燕を救ったことから、彼は
「軍神」
と呼ばれ後世に語り継がれる名将となりました。
楽毅(がくき)は武力はもちろん、戦術にもすぐれており、作中でも、劣勢を反転させて考えることで、相手の策の裏を読むことを意味する
「劣勢の時こそ敵の姿を知る好機ととらえよ。策士であればあるほど戦局を操る」
キングダム252話
など、数多くの戦訓を残し、劇辛(げきしん)に大きな影響を与えました。
ちなみに、物事は手短なものから始めようといことわざで
「まず槐(かい)より始めよ」
という言葉があります。
これは燕の昭王と軍師の郭槐(かくかい)のやり取りをもとにしたといわれています。
どうしたらこの国に優れた人材を呼ぶことができるかと、昭王が郭槐(かくかい)に尋ねたところ
「まず私のような、なんの取り柄もない人間を大切にすることから始めてください。そうすれば優れた人は集まります。」
と答えました。
昭王がそれを実行すると、楽毅(がくき)や劇辛(げきしん)など、優秀な人材が集まったことから、現在まで語り継がれる格言となりました。
【キングダム】楽毅(がくき)燕の宰相となる
郭槐(かくかい)を厚遇することで人材が集まってきた燕ですが、その中でも最大の掘り出し物が楽毅(がくき)でした。
「戦国中期-東中華の大将軍といえば万民が声をそろえて『楽毅(がくき)』と言った」
キングダム24巻
と言われるように無類の戦上手です。
そもそも、楽毅(がくき)は魏の文侯の元で将軍になった楽羊の子孫です。
魏の死者として燕に行ったときに、昭王は客人として楽毅(がくき)を丁重にもてなしました。
楽毅(がくき)は家臣としての忠義を誓い、そのまま燕の国に仕えました。
楽毅は、公卿(くぎょう)に準ずる身分を与えられました。
祖国を斉に蹂躙され、混乱の中で父親も殺されてしまった昭王は深く斉とその王を憎んでいました。
そこで昭王は楽毅(がくき)に相談します。
「我が国は弱小であるが、横暴な斉をこのままにしておくことはできない。どうすればいいと思うか?」
楽毅(がくき)は答えました。
「斉はかつて覇者たりし強国の名残です。国土は広く人口は多く、単独で攻めるのは容易ではありません。王様が是非攻撃したいとおっしゃるなら、趙と楚と魏を味方につけるのが一番です」
楽毅(がくき)は、単なる武力の武将ではなく政治的な一面をもった人物というエピソードです。
【キングダム】楽毅(がくき)の趙への亡命と燕の国力低下
燕の昭王が亡くなると、恵王がその後を継ぎます。
恵王は、太子であったころから優秀な楽毅(がくき)を快く思っていませんでした。
そこで斉の謀将・田単は楽毅(がくき)謀反を企てているというデマを流します。
これを信じた恵王は、楽毅(がくき)を解任し他の将軍を前線に送りました。
楽毅(がくき)は、恵王が自分を憎んでいることをしり、燕には戻らずそのまま西の趙に亡命します。
結局代理の将軍は役に立たず、敵であった斉の謀将・田単に城はことごとく奪われ取り換えされてしまいました。
その後、恵王は楽毅(がくき)と和解し、楽毅(がくき)の息子楽間に昌国君の位を与えますが、ときすでに遅し。
強国の座は秦に奪われてしまっています。
ただ、秦と遠く離れていた燕はむしろ趙に脅威を感じていましたが、その趙も、紀元前228年に秦に滅ぼされてしまいます。
燕は、秦の脅威を直接受ける立場になってしまい自らの首を絞める形で滅亡への道に向かってしましました。