学校では教えてくれない歴史の話 学校では教えてくれない!歴史の話(戦国時代編)

前田慶次(まえだけいじ)利益【花の慶次】実在した天下御免の傾奇者の生き方と最後とは?

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前田慶次(まえだけいじ)いたずら好きなお茶目な一面前田利家を騙して水風呂に!

前田慶次

隆慶一郎の小説と、これを原作としたコミック(花の慶次)で一躍有名になった前田慶次は、フィクションの世界に描かれるように、戦国時代きっての傾奇者であった。

花の慶次 ... 『花の慶次 -雲のかなたに-』(はなのけいじ くものかなたに)は、原哲夫による日本の漫画。隆慶一郎作の歴史小説『一夢庵風流記』を原作としている。 戦国の世 ...巻数: 全18巻全10巻(文庫)掲載誌: 週刊少年ジャンプ発表号: 1990年13号 - 1993年33号ジャンル: 少年漫画、歴史漫画

花の慶次 - Wikipedia

江戸時代に書かれた逸話集『常山紀談』によると、

黒皮胴の具足をつけ、猩々緋の陣羽織、金泥の数珠の総に金瓢箪をつけたものを襟に掛け、十二のひだがついた山伏頭巾を被って戦の場に臨んだという。

慶次の代表的なエピソードといえば、やはり前田家を出奔したときの一件が有名でかねてより慶次の素行は叔父の前田利家にとって目に余るものがあり、たびたびお叱りを受けていようです。

これをわずらわしく思った慶次は、

「これからは心を入れ替えて、真面目に生きるつもりでございます」

と神妙な顔で言うと、茶を一服もてなしたいと利家を自宅に招き入れた。

無論、心を入れ替えるなどとは口からでまかせで、慶次は利家を騙して氷のような水風呂に入れてしまう。

利家は激怒して供の者に慶次を連れてくるよう命ずるが、その頃にはもう、慶次は愛馬・松風と共に走り去ってしまったという。

痛快ではあるが、大の男がやることでもない。

とはいえ、このようにユーモアのあるな行動ばかりが目立つ慶次だが、やはりフィクションに描かれる通り、

「武芸百般に秀でる一方、茶華や詩歌に長じ、古今典籍にも通じた文武両道の将」

という評価も、実際の前田慶次を正しく反映したものだったらしい。

【漫画】前田慶次の生涯を簡単解説!【日本史マンガ動画】

前田慶次(まえだけいじ)風流人となった京都での日々

前田慶次の本名は利益と申す。

慶次郎、慶二郎、啓次郎など多数の通称を持つが、本人自筆は啓二郎、慶次、利貞のみが伝わっている。

先にも紹介したように、豊臣秀吉政権下の五大老筆頭・前田利家の甥にあたるが、義理の叔父甥である。

生涯には不明な点が多く、生年にはさまざまな説があるが、1533年説と1541年が有力である。

それでも十年近い開きがある。

『加賀藩史料』によると、織田信長(おだのぶなが)の武将・滝川一益(たきがわかずます)の子とされるが、これも諸説あって判然としない。

母が利家の長兄で、尾張国荒子城主の利久と再婚すると、子のなかった利久の養子となり、前田の一族に連なり。妻は利家の次兄・前田安勝の娘との間に嫡男・正虎のほか三女をもうけもうした。

1567年、病弱で実子のなかった利久が、信長の命により隠居させられた。

代わりに利久の実弟・利家が尾張荒子四千石を継ぐ。

これを受けて慶次は、利久と共に荒子城を去った。

以降、父子の足跡は途絶えがちになるが、慶次は養父と流浪の日々を送り、やがて身を落ち着けた京都で貴賎墨客と交わったという。

和漢古今の書に親しんだとされる。

この時期、彼の風流人としての基礎が形作られたのだろう。

当時の連歌界の第一人者であった里村紹巴に連歌を学び、武将で千利休七哲の古田織部に茶道の皆伝を受けたのもこの頃だといわれています。

あきちゃん
あきちゃん

前田慶次(まえだけいじ) 上杉景勝・直江兼続主従との出会い

1581年、慶次は能登国一国を領する大名となった利家のもとに身を寄せる。

利久に二千石、慶次には五千石が与えられた。

このとき利久が得た知行は、慶次の嫡男・正虎が利久の没後に利家に仕え、そのまま受け継ぐことになる。

1584年の小牧長久手の戦い、1590年の小田原の役と、慶次は利家が参陣した戦場につき従うが、やがて利家と仲違いして前田家を出奔する。

上記エピソードの件がこの水風呂の一件がそれである。

このとき、慶次の妻子は随行せずに前田家に残った。

出奔した慶次は再び京都に住まい、剃髪して「穀蔵院飄戸斎」と称して、浪人生活を送りながら多くの文人たちと交流した。

この頃、秀吉が伏見城に諸将を招いて宴(うたげ)を開いたことがあった。

これに紛れ込んだ慶次は、猿面に手拭いで頬被りをした姿で現れる。

そして扇を振りつつ、身振り手振りをつけて面白おかしく踊りながら一座の前へ躍り出ると、居並ぶ大名たちの膝の上に次々と腰掛け、主人の顔色をうかがったという。

ところが、

越後の上杉景勝の膝にだけは乗ることはできなかった。

景勝の威風に侵すべからざる何かを見てとったからで、このとき慶次は、天下に自らの主と頼む者があるとしたら、景勝のほかにはないと感じ入った。

景勝の知遇を得た慶次は、やがて上杉家の執政・直江兼続(なおえかねつぐ)と出会い、

一生の友というべき仲となる。

直江兼続

兼続は風流とはおよそ縁のない実直な性格であったが、先代・謙信以来の上杉の義、を誰よりも体現した彼に、慶次としても、どこか惹かれるものがあったのだろう

前田慶次(まえだけいじ) 会津時代でも相変わらずのエピソード

前田慶次の豪快なエピソード5選!人々が望む傾奇者慶次はフィクションだった!?

豊臣政権の五大老に任命された景勝は、東北諸大名の牽制のため、秀吉の命で越後から会津百二十万石に加増移封された。

1598年のことである。

このとき慶次は上杉家に仕官、兼続の与力となった。

禄高にはまったく興味ござらぬ

まことに慶次らしい。

以下は、その会津時代の逸話である。

ある日のこと。林泉寺という寺の和尚が傲慢で、殴りつけてやりたいという者があった。

それを聞いた慶次はいたずら心を起こし、林泉寺を訪ねて和尚に碁の勝負を挑む。

そこで勝者が敗者の頭を軽く叩くルールを提案した慶次は、一局目を和尚に勝たせて頭を叩かせる。

遠慮しつつ和尚が慶次の頭をそっと叩き、二局目が始まった。

勝ったのはもちろん慶次である。彼はわざととまどうふりを見せるが、和尚が気になさらずと言うので、

「それでは」

と和尚の顏に鉄拳をお見舞いした。和尚は鼻血を出して昏倒したという。

前田慶次(まえだけいじ) 長谷堂城の撤退戦と米沢での隠棲生活

2600年、徳川家康(とくがわいえやす)率いる会津上杉討伐軍が、隣接する最上義光の領内に集結。

そこに石田三成(いしだみつなり)挙兵の報が入り、家康軍はすかさず反転西上した。

さらに、奥羽諸将が自領を守るために引き上げると、上杉景勝は直江兼続に二万余の軍勢を預け、最上領内に攻め込んだ。

慶長出羽合戦である。上杉軍本隊は畑谷城を攻略、続いて最上方の要衝・長谷堂城を攻撃する。

この戦では慶次も武功を挙げるが、城方の守りは固く、なかなか落とすことができなかった。

そうこうするうち、関ヶ原の戦いで西軍が敗退したとの報がもたらされる。

関ヶ原の結果を知った兼続は、その場で自害しようとするが、これを止めたのが慶次だった。

我に返った兼続は長谷堂城の包囲を解いて、米沢城への撤退を開始するが、最上軍と、これに同盟する伊達政宗(だてまさむね)片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)軍の追撃は熾烈を極めた。

後々まで語り草となったこの撤退戦でも、慶次の活躍は際立っていたという。

負け戦こそ戦の花ではないか

と、花の慶次では言ってましたね。

関ヶ原の敗戦後、上杉氏は米沢三十万石へ減封になった。

慶次はこれにも迷わず従っている。米沢では近郊の堂森に隠棲した。

慶次が当時、庵を結んだ堂森の湧水辺りは、現在「慶次清水」と呼ばれている。

その後は兼続と共に『史記』に注釈を入れたり、和歌や連歌を詠むなど自適の生活を送ったと伝えられる。

米沢側の資料では1612年に堂森で没したとされるが、『加賀藩史料」によると、大和国で1605年に病没したとされる。

「いくさ人」前田慶次。

年齢不詳、生没年不詳、文武両道でいたずら好き。

戦国末期の武将で、熱湯風呂・鼻毛騒動など、多くの珍逸話を生み出した異端児です。

常人の倍はある身の丈と、同じく並の馬の倍はあろうかという名馬・松風を有し、手には皆朱の大槍。

目を引く奇抜な装束に身を包み、背には「大ふへんもの」の旗。

これが漫画「花の慶次」や原作の小説「一夢庵風流記」で描かれる前田慶次の姿です。

両作が世に出て以来、日本では「戦国最強の武将は前田慶次」というのがコンセンサスのようになり、ゲームやアニメでは驚異的な武勇を誇っていることが多い。

ひとえに漫画家と原作者の想像力の賜物と言えるが、それでは実際の前田慶次はどのような人物だったのだろうか・・・

歴史上の人物としての前田慶次(まえだけいじ)

本書で取り上げている他の武将たちと違い、歴史上の人物として慶次を捉えることは非常に難しい。 正確な資料にほとんど情報が載っていないのです。

武将としての慶次の生涯を確かな資料に基づいて記すと、実に簡潔・・・

織田信長の重臣・滝川一益の甥として生まれ、前田利久の養子となる。

※滝川一益(たきがわかずます) (1625~1586) 織田信長の家臣。 長島一向一揆の鎮圧などに尽力。 武田氏攻めでも活躍し、上野国厩橋城城主となる。本能寺の変後は賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いで相次いで敗れ、出家した。

前田利家が前田家を継いでからはこれに従い、幾度かの合戦に従軍する。豊臣秀吉の小田原城攻めにも参

加するが、天正十八年、突如前田家を出奔。以降は上杉家に仕え、関ヶ原の戦いの地方戦ともいえる長谷堂城の戦いに参戦した。

ここには武勇を誇る慶次の姿はない。確認された戦歴は数度ほどで、特筆されるような活躍もない。

では、漫画や小説で見られる慶次の姿は、すべて作家の空想の産物だったのだろうか?

実はそうではなく、前田慶次の人物像は彼の死後、江戸時代に軍記物や、説話集で語られ、膨らまされていったものなのだ。

海音寺潮五郎や司馬遼太郎、そして「一夢庵風流記」で知られる隆慶一郎も、こういった逸話をもとにキャラクターを形成していったのです。

では、その逸話と、それが記された書物とはどのようなものだったのか。

そして、前田慶次は実際にはどのような人物だったのだろうか、検証していきたい。

前田慶次(まえだけいじ)秀吉が認めた傾奇者

前田慶次は、天下御免の傾奇者として一般に知られている。

傾奇者とは、逸脱した行為を好み、戦国末期に奇矯で目立つ振る舞いをした伊達者のこと。

裸で帯刀する、肩をはだけて歩く、柿を盗み喰いする、火打石を携帯するなど、制度に縛られない“粋の良さ”を貫いた。

慶次はその魁の世代とされている。

『重 輯 雑談」には、慶次が前田利家のもとにいた頃、彼の傾奇ぶりに秀吉が興味を示し、聚楽第に呼びつけたときの逸話が記されている。秀吉は金で埋めつくした茶室やヴァイオリンを好むなど、派手好きであったのだ。

「趣向をこらして来い」

傾奇者の慶次に、秀吉はそう注文をつけた。これが彼の「傾奇心」に火をつけた。

いざ謁見というとき、派手な虎の皮を身に着けた慶次は、髷を横に結って現れた。周囲の動揺をよそに、秀吉の前に進み出ると、これで横に結った髷だけなんと顔を横に向けて挨拶。が正面を向く。

「これは面白い」

秀吉が喜び、褒美に馬を与えた。

「もっともっと、変わったことができるはずだ」

すると慶次は、一度奥に引き込み、今度は礼

法を忠実に守った姿で現れると、褒美の礼を述

べた。これに秀吉は感じ入り、

「今後は好きなように傾くがよい」

と許可を出した。

これより後、慶次は“天下御免の傾奇者〟と呼ばれるようになった。この話が記されている『重輯雑談』 は1653年生れの加賀藩(前田家) 家老が記したエピソード集だ。

加賀藩の四代藩主・綱紀は熱心に書物を蒐集したことで知られ、この時期に加賀に流入した軍記物が『重輯雑談』 にも影響を与えていたと考えられている。

他にも慶次の逸話がふんだんに盛り込まれている軍記物としては『武辺咄聞書』が名高い。

国枝清軒という越後流軍学者が編集したものとされているが、この人物の経歴はこれは「咄」を集大成したものであり、国枝が大津に住んでいるとき、諸国の浪人が集まり、家々の伝説を語り合ったものを筆記したという。

今で言うトークショーのようなものである。

この時代の浪人たちにとって「咄」は重要な生活の糧である。

話を膨らませることを生業とする者たちのトークショーを書き起こしたものであるから、事実と虚構が混ざっていることは想像に難くない。

慶次の武功のほとんどはこういった類の書物に記されているものばかりであり、誇張も多く見られる。

その『武辺咄聞書』には次のようなエピソードが書かれている。

前田慶次(まえだけいじ)大ふへんもの伝説

秀吉の前でしたような振る舞いを、叔父の前田利家は快く思っていなかった。

これに反発した慶次は、友人である直江兼続のもとに身を寄せる。関ヶ原の合戦では、上杉家が西軍に付い

たことで、慶次も徳川方の大物、伊達政宗の来襲に備えた。

『武辺咄聞書』によると、家中で緊張感が高まるなか、白く四角い布に「大ふへんもの」と大書された慶次の旗が、身内で話題となった。

「上杉家には武勇で知られた者が数多い。なのに、なぜ彼だけ“大武者”などと大きく主張するのだ。滑稽ではないか」

緒将はこれに同意する。合戦の直前に、無用な軋轢は避けたい。

慶次はからからと笑い飛ばすと、次のように言った。

「これは武辺者ではなく“不便者〟と読むのだ。長年の浪人暮らしで手元に金がない。だから、特に目立つように書いたのだ。ひらがなの点は必要なところを補って読む。 それが武士の教養だ。間違った読み方をして非難されても知るものか」

また、この時慶次が朱色の槍を携えていたことも問題となった。 水野藤兵衛ら、剛勇で鳴らす武将四人が上杉景勝に訴え出た。

すると景勝は、

「慶次はもともと前田家の人間。新参者に家風を押し付けるのはよくない。その方らの気が収まらないのなら、全員朱色の槍を持つがよかろう」

参陣するや騒動を巻き起こした慶次だったが、長谷堂城の戦いでは、その四人と共に「朱槍五人衆」として大活躍。 直江兼続の撤退を助けて、最上軍を散々に蹴散らしてみせた。

この大立ち回りは、漫画「花の慶次」や原作小説「一夢庵風流記』でも、作中随一の名場面として描かれている。

※長谷堂城の戦い 1600年、出羽の国で行われた最上義光・伊達政宗(東軍)と上杉景勝(西軍)の戦い。最上側の城を攻め立ててい直江兼続は関ヶ原の敗報を受けて撤退、追撃する東軍と大激戦となった。この時に最上家当主が身につけていた兜には銃弾の跡がつき、そのまま今に伝わっている。

ただ、この時の慶次は、実に七十を手前にした年齢であった。 「人間五十年」の時代に、ひとりの老人がここまでの活躍ができたかと言えば、まず不可能であろう。

この話も、先述した秀吉の逸話と同じく、事実として捉えることは難しい。

慶次の武功を記した書物では、彼の実像に迫ることはできないのだ。

前田慶次道中日記

実は慶次の人となりを知ることができる史料として、彼がつけていた日記が現存してい関ヶ原の戦いで降伏を余儀なくされた上杉家は、会津から米沢へ転封されてしまう。

慶次は友人である直江兼続に請われ、上杉家の人間として生涯を終えることを決意、伏見か米沢へ旅立つ。

この道中に書かれたのが「前田慶次道中日記』である。

これは慶次の自筆であり、彼の人物像が伺うことができる、最も質が高い文献と言える。

ここには剛勇を誇る傾奇者の顔は影を潜め、静かな教養人の姿がある。

例えば、

出立してすぐ、古今和歌集におさめられている、

風の上にありが定めぬちりの身は行衛も知らずなりぬべらなり

(風任せで、身の在り処も定められない塵のような儚いこの身の上は、どこへ行ったらよいかも分からず、このまま行方知らずになってしまうようだ)

という一句を書き付けている。

これは京から東国に下る貴人が書いたとされ、慶次もその身の上を自分に重ね合わせているのだ。

敗軍の悲哀を古人に引きつけて語るとは、この道中日記はただの日記というより文芸作品と言えるだろう。

前田慶次 高麗人従者

高麗人(こうらいじん、Корё сарам、고려인 (高麗人) / 고려사람 (高麗사람)/ コリョ・サラム)は、ソビエト連邦崩壊後の独立国家共同体(CIS)諸国の国籍を持つ朝鮮民族

意外なことだが、慶次はこの旅に高麗人を連れている。

日記を読む限り少なくとも、親一人、子二人の計三人を同行させている。

美濃に入って関ヶ原までやってきたとき、一行に加わっていた高麗人が病気になってしまった。

馬に乗れないほどの重症だったため、慶次は同行を諦め、近くの菩提山城の主(おそらく竹中重門、半兵衛の子)に書状を送り、預かってもらうことにした。

城に預け、書状まで添えるというのは、まさに破格の待遇である。

この特別扱いから、前田慶次研究家の今福匡は、この高麗人たちは秀吉の朝鮮出兵の際に捕虜になった

「何かしら特殊技術に秀でた者たち」

であったと推測している。

慶次はこの時、

慈鳥失其母 (慈鳥其の母を失い)姫唖吐哀音(姫と哀音を吐く)

と中唐の詩人・白居易の詩「慈鳥夜啼」の冒頭の2句を書き写している。

その後に

「この人はこま人(高麗人) なれば、禽(とり)のようには悲しまないのである」

と書いている。

実は白居易の詩の後半には呉起という、母親の葬儀に参列しなかった人物が出てきており

「其心不如禽(その心禽にも如かず)」

と非難されているのだ。

といっても、高麗人の子を非難しているわけではない。

「こま人」を「駒(馬)」とかけて「馬だから鳥のようには悲しまないのである」と洒落をきかせているのだ。

このように、『前田慶次道中日記』には、慶次が和漢の古典に深く通暁する、紛れもない教養人であったことを証明する箇所が多く見られる。

対して、生涯最大の激戦であったと思われる長谷堂城の戦いのことはおろか、合戦についての回想もまったく確認することができない。

この日記から読み取れるのは、外国人の従者に対する優しい心遣いを見せる、年老いた「文芸人」の姿だ。

前田慶次という文化人

『前田慶次道中日記』で和歌や句を詠んだ慶次だが、他にも彼の文芸活動の行跡がある。

1588年から数年にかけて、里村紹巴、昌化など当代一流の連歌師の興行に参加して歌を詠んだり、自分で興行をしたことが『上杉将士書上』などの書物によって明らかになっている。

慶次の興行に細川幽斎が参加したとする資料もあ関ヶ原の戦いの後、米沢に移ってからも、慶次は詩歌などの作品を残している。

1602年、直江兼続が松岡山大聖寺に和歌、漢詩合わせて百首奉納する際には、伏見から旅してきた慶次も加わっている。

米沢移住後は堂森という地に引っ込静かに生涯を終えたとされる。墓は見つかっていない。

ちなみに『前田慶次道中日記』の中に、野尻を通りかかった慶次が詠んだこんな句がある。

さむさには下痢おこす野尻かな

尻と下痢を連想させた、なんとも茶目っ気たっぷりで下品な句である。

あきちゃん
あきちゃん

たしかに現代に広まっている慶次のイメージは、江戸時代に膨らまされたものだが、この一句からは、小説や漫画で愛された、あけすけで明るい慶次の人柄が伝わってきますね。

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