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2020年キングダム嬴政(えいせい)の実際はどのよう王なの?漫画と比較徹底解説

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キングダムの中では第31代秦王・キングダム嬴政(えいせい)は、中華統一に向け自ら先陣に立つ、こともあるような情熱的で言葉にも美しさがありとても魅力的な登場人物です

王賁(おうほん)と蒙恬(もうてん)など若い武将や古参の武将たちと協力しながら大きな秦という国をこれから作っていく物語が描かれていくとは思いますが。

アニメや漫画とは違う実際の第31代秦王・キングダムの嬴政(えいせい)とはどのような人物で何を成し遂げた人物なの解説していきたいと思います

ますます、キングダムが面白くなること間違いなしです。

是非最後までご覧ください。

キングダムに登場する第31代秦王・キングダムの嬴政(えいせい)とは?

人徳あふれる人物として描かれている政。しかし史実では中華統一後、暴政をひく?

紀元前259年、趙のことである邯鄲(かんたん)で、後に第30代秦王・荘襄王(そうじょうおう)となる子楚と、彼の妻である趙姫の間に生まれた趙政。

紀元前246年、荘襄王(そうじょうおう)の死に伴って、第31代秦王に即位した彼は、秦王室の姓、嬴(えい)に改姓して嬴政(えいせい)となります。

政が秦王に即位するまでの経緯は、史実もキングダムないでも大差ありません。

キングダムという漫画の中では常に、臣下をいたわる仁君として描かれており、まさにカリスマ的な王です。

しかし、史実の政に関してはそれだけではない、もう少し違う一面が書かれています。

史実のキングダムの政の人物像とは?

政が秦王に即位する前年、紀元前245年から始まるキングダムの物語は、時折過去のエピソードを交えながらも、様々な戦争を乗り越え、政が立てた「中華一」という志は全く揺れ動いておりません。

政が中華統一を目指しているのは、中華全土を自らの支配下置きたいという我欲のためではなく

「中華を統一し、国家間の争いをなくし全土の民はかつてない国の広がりをみる」

マンガ キングダム3巻

と発言していることにもわかるように、彼は中華全土の民衆のため、それを実現しようとしています。

だからこそ山界の王楊端和(ようたんわ)は、王座奪還を目指す政と同盟を結びました。

また、第28代秦王である昭王と同様、中華統一を目指す政を真の王と認めたからこそ、王騎(おうき)は再び戦場に戻ってくる決意をしました。

キングダムの政は、人の心をつかむ力も長けている仁徳にあふれた王なのです。

政の史記に書かれている性格とは?

キングダムは司馬遷が書いた歴史書「史記」を主な資料として描かれています。

それでは「史記」の中で、政はどのような人物として描かれているのでしょうか。

「史記」には、政と同時代に生きた人物、兵法書『尉繚子』(うつりょうし)の著書とされる尉繚(うつりょう)が、政のもとを去ろうとする様子が書かれています。

彼がさろうとする理由は、政の人格に問題があるため、尉繚(うつりょう)は政に関して

「あまり恩をかんじることがなく、鬼畜の心をもっている」

兵法書『尉繚子』(うつりょうし)

「目的を達成すると、人を粗末にする」

兵法書『尉繚子』(うつりょうし)

「秦王が中華統一を達成したらすべてのものは彼の奴隷となる」

兵法書『尉繚子』(うつりょうし)

「付き合ってははいけない」

兵法書『尉繚子』(うつりょうし)

などとまるで、仁君とは思えない発言をしていました。

史記におけるこの尉繚(うつりょう)の言葉を信用するなら、キングダムの中で仁君として描かれている政は、完全に作りものになってしまいます。

中華統一を果たした政は暴君になってしまうのか?

史記もよれば、秦は紀元前230年に韓(かん)、紀元前228年に趙(ちょう)、紀元前225年に魏(ぎ)、223年に楚(そ)、紀元前222年に燕(えん)、紀元前221年に斉(せい)と合併し中華統一を達成しています。

不可能と言われたこの大偉業を成し遂げた政は、称号を王から皇帝の改め、始皇帝を名乗ることで威厳を示しました。

しかし、その後に彼が行った政治は、政の悪印象をさらに強めるものでした。

始皇帝になった政は、中華全土に郡県制をを実施し、文字や通貨も統一しました。

それは中央による支配体制を、より強固にするためのためでした。(個人的には流通や商業、それぞれ場所の指標(統一された基準)の仕方が中華全土になるためにナイスな政策だとおもいますが・・・)

紀元前213年になると、思想弾圧のため医薬、占術、農業以外の民間書物を焼き捨てました。(焚書)

さらにその翌年、始皇帝に対して批判的な態度をとる儒学者たち数百人を、咸陽で生き埋めにして殺害(抗儒)。

これらの制度改革は旧勢力の反感を買うことになります。

個人的には政が目指した法治国家(法が最上)とする近代国家には、礼や義や仁などの抽象的なものではなく、「何が悪くて何を一番大切に何を指針として国民に生きていってほしいか」

という事などを明確にしたい国家の意思表示ともうけとれるかなと思います。(殺さなくてもいいかなとはおもいますが・・・)

反感を持たれてしまった事業と農民反乱

体外面では、北方の匈奴に対する備えのため、長城を大幅に増築。

また南方にも攻め入り、ベトナムの北部までを秦の支配下に入れています。

国力の増強は果たしたものの、これらの土木事業や外征は民衆に大きな負担をかけるため、彼らに不満を持たせる原因にもなりました。

それはやがて、史上初の農民反乱である陳勝・呉広の乱を招き、秦の滅亡へと繋がります。

民衆のため、中華統一を目指すという政のメインストーリーのキングダム。

しかし、「史記」における政は、臣下や民衆を苦しめる暴君、絶対的な権力者として君臨するのです。

その姿はまさしく、独裁者とも言えるでしょう。

これまで「キングダム」は、ほぼ「史記」に基づき描かれているので、今後も「史記」から大きく外れることはないかと考えられます。

秦が中華を統一する紀元前221年以降の世界が「キングダム」で描かれるとすれば、暴君と化した政の姿を描くことも、避けては通れないかもしれません。

暴君としての政!?その姿は真実か?それとも…

紀元前210年、始皇帝が死亡すると各地で反乱が勃発。

それにより秦は中華統一からわずか15年、紀元前206年に滅亡してしまいます。

その後に中華統一を果たしたのは、劉邦により建国された漢(前漢)であり、司馬遷の著書「史記」はこの前漢時代、紀元前91年頃に完成した歴史書です。

「史記」に描かれている政の姿は、とても仁君と呼ぶことはできないものでした。

しかしそこに異論がないわけではありません。

中華民族にとって精神文化の支柱になっている儒教には、易姓革命という基本的観念があります。

それは

「天命により天下を治めている天子(君主)が徳が備わっていなければ、天命は徳を備えた別の者に移る」

というもの。

この考え方は、王朝の交代を正当化する根拠とも言えるものです。

つまりその全ての君主は、以前の君主の暴政を終わらせた、徳を備えた素晴らしい人物とも解釈できるでしょう。

この易姓革命に即して考えると、秦の君主・始皇帝に悪評があればあるほど、前漢が成立する意義も高まるわけです。

「史記」は、前漢時代に書かれた歴史書です。

前王朝である秦の始皇帝の暴政を、必要以上に誇張して書いても不思議ではありません。

周が東遷した紀元前770年から、晋が三分して韓・魏・趙が独立した紀元前403年までの春秋時代、その後に、秦が中華統一を果たした紀元前221年までの戦国時代は、動乱の時代ともいえるものでした。

500年以上にもわたって各地で戦乱が続いていたのです。

それを平定したのは中華統一を成し遂げた政の功績といっても過言ではなく、暴君という政の姿を描く史記においても、その成果はちゃんと評価されています。

政が史記に書かれている通りの暴君であったならば、このような功績をあげることはできなかったのではないでしょうか。

また、李信に対する政の行動も、暴君とは程遠いものでした。

紀元前224年、強国である楚を打倒するために、李信は副将の蒙恬(もうてん)とともに20万の兵を率いて出兵しましたが、惨敗を喫してしまいます。

それを受けた政は王翦(おうせん)に60万の兵を預け出兵させ、紀元前223年、その打倒に成功します。

政が

「始皇帝は楽しむように処刑をするため、すべての者はそれを恐れて、彼に忠誠を尽くすしかない」

という史記の記述どおりの人物であれば、惨敗してしまった李信を簡単に粛清してしまっているでしょう。

しかし李信が粛清されることはありませんでした。

その後も李信は政の重臣であり続け、紀元前222年には王賁(おうほん)とともに燕(えん)、紀元前221年には王賁(おうほん)蒙恬(もうてん)とともに斉(せい)を打倒しました。

秦が中華を統一する過程で、李信は大きな役割を果たしているのです。

つまり史記においては政も臣下を大切にする面をもっていたことになります。

史記に書かれている政の姿をその後の人々、とくに儒教を弾圧されて、政を悪のカリスマとしてでっち上げたい人は少なからずいたと思われます。

そんな次の時代の漢や儒教寄りの人々が捏造したと考えれば、政はキングダムで描かれている政のように、仁君のままであり続けることができるでしょう。

少なくともキングダムの政ファンの私としては、そうであってほしいと思います。

キングダム政の出生の謎…彼は呂不韋の子供なのか…?

政に関する史記の記述には、易姓革命(えきせいかくめい)にある大幅な作為的に悪者にしようしている箇所だけでなく、矛盾を思わせる箇所があります。

政は、第30代秦王・荘襄王(そうじょうおう)となる子楚と、政の王位継承に伴って太后となる子楚の妻・趙姫の間に生まれました。

それに関しては史記にも

「秦の始皇帝は荘襄王の子である」

と書かれています。

しかし、史記の「呂不韋列伝」には、政の出生について、

「呂不韋は邯鄲で趙姫を妾(めかけ)としており、彼女が妊娠していることもし知っていた」

呂不韋列伝

「呂不韋は趙姫を子楚に献上した」

呂不韋列伝

「趙姫は妊娠していることを隠して、後に政を生んだ」と書かれています。

呂不韋列伝

つまり政は、史記の「秦始皇本紀」では子楚と趙姫の間に生まれた子供と書いていながら、同じ史記の「呂不韋列伝」では呂不韋と趙姫の間に生まれた子供と書かれています。

明らかに違う史記の中で矛盾が生じています。

さらに、政の実父を呂不韋としているものは、「呂不韋列伝」以外にも存在しています。

後漢時代に書かれた歴史書「漢書」も、政の実父に関して「呂不韋列伝」と同様に書いてありました。

また、「秦始皇帝本紀」においても、政の政を呂としている部分があるなど、政の生まれに関する疑惑を疑わせる史料は複数存在しています。

キングダムでも呂不韋は自身の出世のため、趙姫を子楚に献上され、趙姫は呂不韋の出世の道具にされてしまったのです。

政が秦王になってからも、丞相となった呂不韋と太后となった趙姫は、男子禁制の後宮(こうきゅう)で密会を重ねていました。

呂不韋と趙姫の間に生まれた子供だったとしても不思議ではありません。

しかし、政を呂不韋の子供とする「呂不韋列伝」などに書かれていることは易姓革命即して、あえて政の名誉を傷つけることが目的とも考えられます。

また、歴史書「戦国策」には、子楚と呂不韋について記述されていながら、政を呂不韋の子供とする記述はありませんでした。

そのため、政の実の父親を呂不韋とすることに、否定的な意見が多いのも事実です。

政の生まれについては決定的な資料が残されていないことから、今後も判明することはないでしょう。

ただし、政に実の父親が子楚ではなく呂不韋であり、政を不義な子として描くのは、漫画においてはとてもドラマチックで面白い展開でもあるので、あえて疑いという扱いで残しておくのも一つの楽しみ方ではないでしょうか。

政の法治国家と対立した儒教とは何?

わたくしの個人的な意見として政が弾圧し、漢の時代の初期に暴君として捏造されたと書きましたが、それの大きな原因となる儒教との対立。

※上記『中華統一を果たした政は暴君になってしまうのか?』で前述した

紀元前213年になると、思想弾圧のため医薬、占術、農業以外の民間書物を焼き捨てました。(焚書)

さらにその翌年、始皇帝に対して批判的な態度をとる儒学者たち数百人を、咸陽で生き埋めにして殺害(抗儒)。

これらの儒教とはどんな考えか、どんな思想家を少し触れておきたいと思います。

儒教とはご存じかもしれませんが、孔子によって説かれた思想です。

孔子

儒学の祖
春秋時代末期に、魯国(ろこく)にうまれる。
魯国の大官となったが、56歳で失脚し、以降諸国を遊説するが、受け入れられず、晩年は弟子の教育に専念するその思想は、弟子が彼の言葉を『論語』としてまとめた。

古代中国において、戦乱の世である春秋戦国時代末期に儒学の祖孔子が現れ、仁や礼を説いた

仁に至る道としての義や忠

孔子はブッタと同じで、超自然の力や死後の世界などについての議論は好みませんでした。

彼が行ったのは、当時、形骸化(けいがいか)していた礼法などに新たな合理的解釈を与えて生き返らせることでした。

例えば、古くから行われていた「三年の喪」について、三年間は親が庇護(ひご)しなければ乳児は育たないので、その恩に報いるため三年間、喪に服すべきということです。

その彼の考えの中心は、形式的な行動としての『礼』、道徳の人の中身としての『仁』でありました。

仁については孔子は、私欲という欲望に克って礼に戻り、広く民を愛するといった規範をあたえ、それ以上に重要視したのは、いかにして仁までにたどり着くかという問題でした。

私利や私欲、自負や頑固さを捨てること、親子、兄弟、友人、師弟、君臣など、人間お互いのあいだに自然に存在する親愛の情をもつこと、自分の立場に応じた責任と義務を実行すること(義)、自分が嫌なことは相手に行わないという気持ち「恕」、自分で自分を欺かない心「忠」などが仁の行い方であり、仁にたどりつくまでの道だといいます。

礼による国家統治を説く

礼は宗教儀礼や社会的儀礼だが、単なる形式的な手続きではないといいます。

挨拶のやり取りや、礼の実践は、各自の自発性と相手との信頼関係のやり取りによってはじめて可能になります。

その結果、直接ぶつかり合うことなく互いに関わり合う共同性に場が開かれます。

孔子は国家や天下の統治においても「徳治」すなわち為政者徳による統治を説きました。

国家を治めるにも、恫喝や刑罰による強制ではなく、礼による支配こそ有効なのだと説きました。

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