大久保利通について皆様はどのくらいご存じですか?
大河ドラマ西郷どんでは西郷隆盛の親友として幕末を駆け抜け明治維新の三英傑とも呼ばれるキーパーソンです。
しかし、あまりいい描かれ方をしないことが多いのです。
今回はそんな大久保利通について実は大河ドラマの瑛大のように中身もカッコよかったんですよってことを事実をもとに証明していきます。
是非最後までご覧ください。
2021年【大河ドラマ】大久保利通盟友西郷とたもとを分かち近代日本の礎を築く
1830年、薩摩藩の下級武士・大久保次右衛門利世の長男として生まれました。
同じ町内に住む西郷隆盛とは、幼馴染として育ちました。
1850年、藩主・島津斉興(しまずなりおき)の後継問題で、喜界島に流された父とともに処分を受けますが、斉彬が藩主になると彼の信任を受けて、1857年には徒目付になりました。
斉彬の死後は、若手藩士の組織精忠組のリーダー格となり、同氏の過激派を抑制した功を認められ、1861年から国父・久光の元で政務に係ることになります。
久光の信をうけ公武合体政策のために京都で働いていたが、次第に西郷と共に倒幕に向けて動くようになります。
1866年には長州藩の桂小五郎と薩長同盟を締結し、同時に岩倉具視と倒幕のための朝廷工作に暗躍します。
翌年の10月に倒幕の密勅を実現させ、12月に王政復古の大号令を発布しました。
1868年の戊辰戦争時には京都に残って天皇中心の政府樹立のために奔走し、新政府の参議に就任し、版籍奉還(はんせきほうかん)や廃藩置県(はいはんちけん)を実施しました。
1871年には大蔵卿(おおくらきょう)に就任し、全権大使岩倉具視の下で木戸孝允と共に副使を務め、欧米を視察しました。
この際、プロイセンの宰相・ビスマルクに感銘を受け
殖産興業(しょくさんこうぎょう)と富国強兵が日本の近代化に欠かせない
と考えるようになります。
帰国後、征韓論を主張する西郷らと対立し、征韓論派は下野します。
その後は警察から内政全般を扱うために新設された内務省の長官・内務卿を務め、大久保独裁と評されるほど強制的に政治を進めました。
1874年に江藤新平佐賀の乱を起こすと、自ら佐賀に赴き乱を鎮圧します。
台湾出兵では清国との交渉にあたりその後台湾出兵に反対していた木戸孝允や下野していた板垣退助らとともに、立憲制度の導入に成功しました。
明治天皇が私邸に行くなど彼の地位は不動のものになりますが、氏族の反乱は続き神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、そして盟友西郷隆盛が率いる西南戦争の鎮圧にあたります。
乱の制圧後は内政の整備に邁進しましたが1878年、暴漢に襲われ命を落としてしまいました。
今日のままにして瓦解せんよりは、
むしろ大英断に出て、瓦解いたしらんにしかず
(※何もしないで物事がご破算になるくらいなら、
思い切って実行してみて、ダメになるならそれは仕方ない。)
2021年【大河ドラマ】大久保利通は「器ならず」だが人としては苦手だった栄一
積極財政論を推し進める大久保に対して均衡財政を主張し、陸海軍費の支出を巡って対立したのを機に、大蔵省を辞めることになった渋沢栄一は、後に
「自分は大久保に嫌われていたし、自分も大嫌いだった」
と回顧している。
栄一が大久保を苦手とした理由は、大久保の字がの強さと、底知れなさがあったそうだが、一方で、「君子は器にならず」という論語を引き合いに、大久保を
「器ならず」
とも評している。
渋沢によると、「器」とは「一芸一能の人」を指し、「器ならず」とはつまり「底知れないほど多彩な能力を持つ人」という意味。
ある面では大久保を評価していたことがわかります。
2021年【大河ドラマ】大久保利通鉄のような意志の強さで近代化政策を推し進める
岩倉使節団として欧米の先進国を訪れた際、日本との国力の違いに衝撃を受け、引退を考えるほどだったという大久保。
”鉄血宰相”と評されるプロイセンのオットー・フォン・ビスマルクには多大な影響を受けたそうで、”独裁”と言われるほど影響力を持っていた内務卿時代は、大久保が登庁し、廊下を歩く靴音がなっただけで、省内が静まり返ったといわれています。
座右の銘、
「為政清明(政治家は公正無私であれ)」
「堅忍不抜(意志が強く、心を動かさない)」
を地で行く彼の政治姿勢は、敵も多く作ったが、
勝海舟は
「西郷は江戸を救い、大久保は東京をつくった」
と彼を評価している。
冷徹な人物というイメージが強い大久保だが、家庭的な優しい父親で碁を趣味としていました。
また、大のタバコ好きで岩倉使節団においても、大久保が乗った汽車には常にたばこの煙が立ち込めていました。
【明治維新】大久保利通の通説
討幕運動に奔走し、明治新政府では内務卿として腕を振るった大久保利通。
その功績は大きかったが、権力を掌握した大久保は私利私欲のために政治を行ったため、共に活動した志士たちは反発し、次々に政界から離れていきました。
最終的には盟友である西郷隆盛を見殺しにしてしまうなど、血も涙もない政治家だった。
【明治維新】大久保利通の真実
厳格でとっつきにくい人間ではあったが、大久保は私利私欲で動くタイプではありませんでした。
もちろん仕事では厳しい顔を見せていましたが、情に厚く部下を気遣う人だったという証言も、数多く残されています。
2021年【大河ドラマ】維新の三傑のひとり大久保利通なぜ人気がないのか?
薩摩藩出身の大久保は、初期の新政府において、最も権力のある男でした。
強力な政治力で殖産興業を推し進最終的には現在の内閣総理大臣に相当する内務卿にまで上り詰めました。
にもかかわらず、大久保とともに「維新の三傑」に挙げられる西郷、木戸と比べると人気はかなり低く、「幕末の功臣にして明治の賊団」というありがたくない評価まで下されています。
この人気のなさの一因として、西南戦争で西郷に賊徒の汚名を着せ、亡き者にしたことが挙げられるだろう。
帯刀と禄の支給という士族の特権を奪ったことも、人間味のないような印象を与えているのかもしれない。
大久保がとっつきにくいという証言は、多くの政府高官が残している。
官庁内で大久保の靴音が聞こえると、それまで雑談していた維新の功労者たちが私語をやめたというから、近づきにくい人物だったことは確かです。
2021年【大河ドラマ】大久保利通意外と子煩悩なイクメンだった?
一方、家庭における大久保は、子煩悩なよき父親であった。
大久保の三男利武によれば、5人の子どもを叱ることはなく、暇があれば子どもを書斎に入れて遊んでいたというのです。
また、職場では厳しい人物だと思われていたが、単に勤務態度が厳格なだけで、他人に対して攻撃的だったわけではありませんでした。
むしろ、部下であっても「さん付け」で呼び、礼儀を忘れずに接していたといいいます。
大久保が士族の不満を招いてでも士族の特権を奪ったのは、
早期に近代化を実現したい
と考えていたからです。
欧米視察によって西洋文明の先進性に衝撃を受けた大久保は、このままでは日本
が欧米の植民地になるという危機感を抱いました。
そうした危機感が、強引な改革へとつながったといえるのではないだろうか。
2021年【大河ドラマ】大久保利通日本のために私財どころか借金1億
それに大久保が自身に権力を集中させたのは、私利私欲のためではありませんでした。
明治1(1878)年5月1日、大久保は不平士族によって襲撃され、命を落としました。
その日の朝に福島県権令・山吉盛典へ語ったとされるのが、
近代化に向けた「30年計画というものを考えておる」
と語りました。
大久保は、明治元年から30年までを
「創業期」
「内治整理・殖産興業期」
「後継者による守成期」
の3期に分けて考えていました。
これまでの10年間は創業期、現在進行中の10年間は内治整理・殖産興業期、そして次の10年間が後継者による守成期です。
このうち第2期までは力を注ぎたいという抱負を持っていました。
この計画の実現のため、大久保はまさしく公に尽くしました。
大久保の暗殺者が持参していた「斬奸状」には大久保に対する5つの罪が記されており、そのひとつに、
「不要な土木事業、建築により、国費を無駄遣いしている」
というものがあった。
しかし実際には、大久保は予算のつきにくい公共工事に私財を投じ、そのために借金を抱えていた。
その額は現在の価値で約1億円もあったという。
やりかたは褒められない面もあったが、日本の将来を考える姿勢は、西郷や木戸に負けていなかったに違いない。
2021年【大河ドラマ】大久保利通ゆかりの地
住所 | 鹿児島県鹿児島市加治屋町 |
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アクセス | JR鹿児島中央駅から徒歩約10分 |
駐車場 | なし |
関連リンク | 特集記事:明治維新、西郷と大久保の足跡をたどる(かごしま市観光ナビ) |