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渋沢栄一(しぶさわえいいち)お札になる【大河ドラマ】吉沢亮演じる渋沢栄一はどんな人?

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2021年大河ドラマ青天を衝け予告動画①

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もくじ

2021年【大河ドラマ】5分でわかる渋沢栄一[まとめ完全版]

渋沢栄一とはどんな人物なのか?

設立に関わった会社は、

<金融・保険>

・第一銀行→みずほ銀行

・東京貯蓄銀行→りそな銀行

・東京海上保険→東京海上日動火災保険

・万歳生命保険→マニュライフ生命保険

<ガス・電気>

・東京瓦斯→東京ガス

・広島水力電気→中国電力

<ホテル・劇場>

・帝国ホテル→帝国ホテル

・帝国劇場→東宝

<陸運・海運>

・日本鉄道→JR東日本

・北海道鉄道→JR北海道

・東洋汽船→日本郵船

<造船・鉄鋼>

・東京石川島造船所→IHI

・東京製綱→東京製綱

<綿業

・大阪紡績→東洋紡

・京都織物→エコナックホールディングス

・東京帽子→オーベスク

<製紙・出版>

・中央製紙→王子製紙、日本製紙

・中外商業新報社→日本経済新聞社

<窯業>

・浅野セメント→太平洋セメント

・品川白煉瓦→品川リフラクトリーズ

<その他>

・大日本麦酒→サッポロビール、アサヒビール

・日本皮革→ニッピ

・澁澤倉庫→澁澤倉庫

 というとてつもない数の、現在では名だたる企業の設立に関わる。

それだけではなく

  • 一橋大学や日本女子大学など160以上の学校の設立にもかかわった。
  • 三菱財閥の創始者岩崎弥太郎とライバル関係
  • 新選組にも関りが・・・
  • 経済哲学とは何かを彼の視点で描いた『論語と算盤』の著者
あきちゃん
あきちゃん

まさに日本の経済と教育、明治の日本の礎を築いた人物といっても過言ではありません。

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この記事は

2021年スタートの大河ドラマ『青天を衝(つ)け』や

新一万円札になることで話題の渋沢栄一という人物を解説していきます。

幼少期から晩年期まで簡単に、

そしてこれを見れば渋沢栄一のすべてがわかる完全版

として解説していきますので是非最後までご覧ください。

2021年【大河ドラマ】その後の渋沢栄一の生き方に大きく影響を与えた論語との出会い

渋沢栄一

→ → → → → →

生家は大きな農業を営む地元では「中の家(なかんち)」と呼ばれる裕福な家庭に生まれ、麦作や養蚕のほかに、染料に使われる藍玉をつくり現在の群馬県や長野県方面に売り歩く仕事をしていました。

栄一の父は教育熱心で6歳から読書や書道を始め、読んだ読書になかには中国の古典文学

  • 『大学』
  • 『中庸』
  • 『論語』

などを声を出して読んでいたようです。

どんなことをすればそんな子供に育つのか・・・

あきちゃん
あきちゃん

その後は、10歳年上で人生をほぼ一緒に過ごすことになる、いとこの尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)より儒学を学ぶようになりました。

10歳のころには小説などにも興味を持ち読んでいたようです。

渋沢栄一の代表著書『論語と算盤』という本でも出てくるように、『論語』は彼の愛読書となり一生涯で何でも読んでいたようです。

栄一は孔子(こうし)を尊敬しており、もしかしたら、さまざまな難題や課題という壁にぶつかるたびに人生のバイブルとして読んでいたのではないでしょうか。

農民ではありましたが文武両道に育てられ剣術に関しても12歳ころから渋沢新三郎より神道無念流を学び、正義感の強い子に成長していきました。

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2021年【大河ドラマ】渋沢栄一の商才はどこで磨かれていったのか?子供のころから?

商才の才能をうかがわせる幼少期のエピソードを紹介します。

13歳ごろから家業を手伝っていた栄一は、ある日父に

「そろそろ一人で、藍の葉を買い付けに行ってみるか?」

といわれ、祖父とともに出かけました。

自分の力を試してみたかった栄一は、祖父に

「先に行くね。」

といい、一人で買い付けに行きました。

しかし、13歳の子供ですから相手にしてもらえません。

そんなとき、父と買い付けに来ていた時に身につけた、藍の葉の知識を披露しました。

渋沢栄一
渋沢栄一

「肥料の質が悪いからこの藍は良くないんだ。こっちは乾燥してないよ!見ただけでわかる・・・」

といい驚かせ、初めての商談で商才を発揮しました。

子供のころから商才があり賢かったんですね・・・

そんなころ、日本に4隻の黒船が来航したのです。

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2021年【大河ドラマ】渋沢栄一の生き方を決めた青年期の出来事

青年期に栄一の身に起こった今後の生き方を決定づけたであろうエピソードを紹介します。

ある日、領主から御用金として村に1,500両を命じられます。

渋沢の家にも、年貢のほかに500両負担するようにと命令を受けたのです。

栄一が17歳のころ、代官所からの呼び出しで父の代理として出向くことになりました。

そのとき、

「ちょうどいいな。御用金の詳細を聞こうではないか」

という話になりました。

村から行ったのは、当主の2人と代理の栄一でした。

他の二人はしぶしぶ了承しますが栄一は、

渋沢栄一
渋沢栄一

「わたしは代理なので、帰って父に相談し改めて返事をします。」

といったのです。

代官は激怒し

「若造のくせに、こういう時は従うものだ!お前くらいの年なら、もう遊蕩(ゆうとう 酒や女遊びなど)もするだろう。300や500両くらいは用意できるはずだ!とにかく、すぐに承知しろ!」

と叱りつけました。

とはいっても、江戸時代末期では一両は現在の3千円から1万円くらいです。

軽く見積もっても、500万という大金です。

その話を聞いた父は、

渋沢一郎右衛門元助(父)
渋沢一郎右衛門元助(父)

「泣く子と地頭にはかてぬなぁ。栄一。」

といい、翌日に500両をもって陣屋に行きました。

このとき栄一は

渋沢栄一
渋沢栄一

武士がなぜ威張る!
弱い者こそ救うべきではないのか。
こんな不平等変えてやる!

と覚悟を決めたようなのです。

この話は様々なシーンで栄一自身が語っており、

大河ドラマ『青天を衝(つ)け』でも名場面として描かれることでしょう。

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2021年【大河ドラマ】渋沢栄一幕府を倒し日本を救え!

身分関係なく力量があれば誰でも入れた「新選組」のことは、皆さんご存知でしょうか。

このころの若者たちは社会に不満を募らせ、悪政を正したいと燻っていたのです。

若い栄一も同じでした。

上記でも少し触れましたが、ペリー提督のアメリカ軍艦4隻がやってきて日本を脅かしていたころです。

「天皇を敬い、外敵を撃退しよう」

という、「尊王攘夷(そうのうじょうい)」の思想が渦巻いていました。

栄一も尊王攘夷の思想を、学問の師の惇忠から影響を受けています。

尾高長七郎や渋沢平九郎渋沢喜作らと、

渋沢栄一
渋沢栄一

「腐った幕府を倒すんだ!」

と徹夜で熱く語り、栄一も意気盛んな青年志士へと成長して行き、 尊王攘夷を掲げて、徳川幕府打倒のため、江戸に度々滞在するようになります。

そして、海保漁村の私塾や北辰一刀流の開祖千葉周作の道場「玄武館」に出入りし、仲間をつくり情報を共有するようになったのです。

この玄武館には、幕末の有名人坂本龍馬も出入りしていました。

でも時期が少しずれており、2人が交わることはなかったようですが…。

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2021年【大河ドラマ】渋沢栄一は過激な面もあった「焼き討ち計画 」

18歳の栄一は、惇忠の妹でいとこの尾高千代と結婚し、23歳のときに長女が誕生します。

1863年11月12日に総勢69人で高崎城(群馬県高崎市)を乗っ取り、外国人がウヨウヨいる横浜外国人居留地を焼き討ちするという無謀な計画を立てたのです。

妻帯者にも関わらず、倒幕思想が過激になるのです。

あきちゃん
あきちゃん

でも、10月下旬にいとこの尾高長七郎が、尊王攘夷派が多く集まる京から帰ってきて、

尾高長七郎
尾高長七郎

「この計画は既にばれており成功することはない」

と撤退を説得。 激論の末

渋沢栄一
渋沢栄一

「尊王攘夷が叶っても、命を落としては何もならない。」

と諦めました。

こんな計画を立てただけでも、命が危ない時代です。

お伊勢参りを装い、故郷を離れることにします。

江戸に行き来していたころに、一橋家の家臣、平岡円四郎にスカウトされており、そのツテで一橋家の家来の身分をもらい上手く京へ逃げて命拾いをしたのです。

一橋家といえば将軍家に後継ぎがいなければ後継者を出す、「徳川御三卿」のひとつですよね!

この前まで、「将軍家をぶっ潰せー!」と息巻いていたのに…。

背に腹は代えられないということでしょうか。

あきちゃん
あきちゃん

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2021年【大河ドラマ】渋沢栄一一橋家に仕え才能が開花

京都でしばらく身を潜めていた栄一は、平岡によって本当に一橋家に雇われたのです。

最初の仕事は、徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷より「禁裏御守衛総督」を賜ったことから、京都御所を守る大勢の家来が必要となり人集めの係となったのです。

農民の気持ちが分かる栄一がその役に就いたことが一橋家領内に広まり、領民も安心したのか500人もの人が集まりました。

農兵募集の際に、関東一円など領内を歩いて回ったときに、木綿や米、硝石など豊かな産物があると認識していたのです。

そして、彼らに安定した収入をと、藩札を流通させ便宜を図り、更に藩財を潤わせたのでした。

流通に強いとの烙印を押された栄一は、「勘定組頭」や「御使番格」と着実に出世をし、後に将軍になる慶喜と直接話ができる存在になったのです。

1866年に慶喜が15代将軍(最後の将軍)となり、栄一自身も幕臣になります。

しかし、慶喜の御側にいることもできずに次第に立場も悪くなるのです。

栄一が京都に陸軍奉行配下として赴任したとき、西郷隆盛と意気投合し何度も会っていました。

そのとき、西郷さんから

西郷隆盛
西郷隆盛

「慶喜公に決断力を持って、先を見通した政をしてほしいでごわす。」

と、再三要請されていたとか。

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2021年【大河ドラマ】渋沢栄一と新選組との関わりとは?

京都は治安が悪く、1864年6月には一橋家に仕える要因となった平岡円四郎も暗殺されています。

そのような状況下の1866年に、不穏な動きをしていた京都見廻り組の大沢源次郎の捕縛役を仰せつかります。

栄一は、新選組に助っ人を頼むため組長の近藤勇と直接話をしています。

「新選組とは?」

新選組はれっきとした幕府の組織で、尊王攘夷派浪士鎮圧や市中取締にあたった、現在の警察のような存在です。

あきちゃん
あきちゃん

捕縛と警護の打ち合わせで感じた、近藤勇の印象を後に語っています。

渋沢栄一
渋沢栄一

「世間では非常に無鉄砲な向こう見ずの猪武者のように見られているが、実際に会ってみると、穏やかで物事の分かる人物だった。」

この評価は、近藤勇と関わった人も認めており、常識人だったことが垣間見られます。

ちなみに近藤勇も栄一と同じく武蔵野国の出身です。

彼は、現在の東京都調布市の百姓に生まれ、実際に大沢源次郎の捕縛と栄一の警護は、栄一より5歳年上の副長土方歳三が4人の隊士を連れて行ったようです。

隊長はもちろん副長も、当時は既に現場で仕事をすることはなく、特別の計らいでした。

ここで、捕え方について、栄一と土方の間で意見の食い違いが起きたのです。

捕縛だけでなく栄一の警護も兼ねていたため、土方が

土方歳三
土方歳三

「栄一に危険が及ばないよう、捕えてから申し渡しをしたい。」

というのです。

でも、武士の作法通りに、縄を打つ前に申し渡しをしたい栄一も譲りませんでした。

最終的には、

土方歳三
土方歳三

「武士成るもの作法も大事」

と土方が折れたようです。

でも、泣く子も黙る刺客集団の「新選組」相手に、自分の意見を堂々と発し貫いた栄一の肝っ玉も凄いと思いませんか?

もしもの話ですが、以前にお話しした「横浜の焼き討ち」を成功させ生き残っていたら、新選組の誰かに斬られていたかもしれません。

西郷どんに新選組と、幕末の重要人物と幕臣の立場で結構関わっていたのですね!

幕府や新選組と運命を共にしたといいたいところですが、栄一には幸運が訪れます。

戦死したり斬首されたり不運の最期を迎えることになる「新選組」とは全く違う、幕府の終わりのときを過ごすのです。

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2021年【大河ドラマ】渋沢栄一パリへの使節団にそこで知った幕府の終わり

1866年にフランス皇帝ナポレオン3世より幕府へ、1867年のパリ万博への出品要請と召喚があったのです。

その時の使節団の一員に、栄一も選ばれました。

1年10か月の欧州旅で見るものすべて、栄一には感動を与えるものでした。

カルチャーショックという言葉のほうが正しいでしょうか。

あきちゃん
あきちゃん

帰国後は先進諸国で学んだことを武器に、新政府でもかつやくすることになります。

2021年【大河ドラマ】パリが渋沢栄一に影響を与えたものとは?

栄一の強みは経済です。

一橋家での影響が弱くなっていた栄一ですが、1867年に開催されるパリ万博の使節団20人の中に御勘定格陸軍附調役(会計係兼書記)として抜擢されます。

たったの四年前までは

「外国人を追っ払うぞー」

と息巻いていた栄一ですが一橋家で仕事をした影響でしょうか。

徳川慶喜の名大で14歳の徳川昭武の随行員として、27歳で横浜港からフランスの郵便船アルフェー号に乗りパリへ出発したのです。

横浜から出発して、幕臣の立場から欧米列国の強大な力を目の当たりにしました。

頭の切り替えが早かった渋沢栄一はすでに

渋沢栄一
渋沢栄一

「先進国の豊かさを吸収して、経済を世の中のために役立てたい」

と決意したのです。

船上での経験から帰国まで克明な記録を残し、帰国後に共著として出版された『航西日記(こうせいにっき)』に記されています。

朝7時に食べる朝食のバターを塗ったパンに心奪われたことや、砂糖とミルク入りのコヒーもお気に入りで、

渋沢栄一
渋沢栄一

「胸がすこぶるさわやかになる味」

と面白い感想も言っていたようです。

使節団が欧州に訪れた目的は、パリ万博に出席することはもちろん、その後で巡るスイス・オランダ・ベルギー・イタリア・イギリス諸島で、江戸幕府のすばらしさをアピールすることでした。

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2021年【大河ドラマ】渋沢栄一銀行や株式取引所を見学経済先進国パリ

欧州滞在中に最も栄一が影響を受けたのが、パリの経済の先進国ぶりでした。

フランスでは、銀行や株式取引所を見学し、先進国の経済や株式会社の設立の仕組みについて、実際に現場を見ながら詳細に学びました。

この見聞が、帰国後の「経済人渋沢栄一」を生んだのです。

金持ちだけが会社を起業するのではなく、お金がなくても出資をしてもらい儲かれば出資者に儲けを分ける、合同組織(株式会社)についても学びます。

先進国では、一般人でもお金を出せば、出資者となり、お金持ちになるチャンスがあり、しかも、出資者はお金を出しているのだから、庶民でも会社が儲けを出すために会社経営に意見するのは当然というのです。

一部の人が潤えばいいというのではなく、いろいろな事業が盛んになれば国も豊かに・・・

そして、みんなが豊かになり幸せに暮らせるということ。

身分制度のある日本の考え方は、間違っているとしか思えませんでした。

渋沢栄一
渋沢栄一

日本をフランスのような、自由で強い国にしたい!

世話役のフランス人銀行家フリューリ・エラール(後に在仏日本名誉総領事となる)の進言により、幕府からの滞在費用を節約してつくった2万両を、フランス公債や鉄道債に変え帰国後に増やす偉業をやってのけたのです。

これには新政府の連中も、唖然としたとか・・・

2021年【大河ドラマ】渋沢栄一が先進国学んだ最も重要な事とは?

欧州で栄一が学んだことはまだありました。

その中でも重要なものがもう一つ。

豪農だった青年期に、奉行から叱咤された屈辱を思い出したのです。

そういった身分格差は、フランスにはありません。

徳川昭武の教育係のレオナルド・ヴィレット中佐とフリューリー・エラールの間には、格差はなく対等に話をし、毎晩開かれる夜会でも、身分の分け隔てもなく誰もが自由に会話を楽しんでいるのです。

日本では、「武士」と「商人」が平等に扱われることは考えられません。

そんな時代を生きてきた栄一は、日本との違いに毎日驚きの連続でした。

更に、ベルギーでは

「我が国の鉄は良質なので、ぜひ買ってほしい」

と、レオナルド2世国王自ら売り込んできたのです。

これにビックリすると同時に。職業や身分が違っても、人として平等であるべきと強く感じたのでした。

この旅の中で、病院や福祉施設、動物園や水族館、オペラ鑑賞など、多くを見聞しています。

あきちゃん
あきちゃん

当時のフランスはとてつもない国だったのですね

更に、欧州諸国の実情に触れ、インフラの充実ぶりには目を見張るものがありました。

日本では考えられないスピードで走る機関車に乗ったときや、向こうが透けて見えるガラス、政治や文化や流行ものなど新聞を読めば今のすべてがわかる情報伝達力にも驚きを大きく感じたようです。

栄一には日本で自分がすべきことが、少しずつ見え始めていました。

1867年10月15日に「大政奉還」が行われ、慶喜が明治天皇へ政権を返上したことを栄一が知ったのは、フランスの新聞に掲載されたことから。

仲間うちでは誤報だろうとの声もあったのですが、栄一は日本の情勢を察しており、事実だと確信していたのです。

1868年には新政府から帰国命令が出て、昭武の留学は中断され帰国することになります。

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2021年【大河ドラマ】帰国後渋沢栄一を待ち受けていたものとは?

渋沢栄一がパリにいる間に、大政奉還をした徳川慶喜は、江戸城を出て静岡のお寺で謹慎生活をしていました。

明治天皇を中心とした新政府が誕生し、江戸は名前を東京と変えました。

江戸城には、京都から移り住んだ明治天皇が住みました。

260年も続いた江戸幕府が終わり、何もかもが変わっていました。

栄一もフランス滞在中に、まげを切ってシルクハットをかぶり、背広に幅広ズボンとハイカラと言える風貌になっていました。

幕臣としてフランスに渡った栄一がまず行ったこととは、慶喜への帰国報告でした。

その後妻に、敬愛する慶喜の元へ駆けつけ引っ越しをすることを伝えました。

歴史では江戸幕府を終わらせてしまった、戦いに負けた将軍との印象もあると思いますが、栄一にとっては人生の恩人の慶喜と言える存在でした。

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2021年【大河ドラマ】その後渋沢栄一新時代新日本での活躍とは?

静岡に越した栄一は、職を失った武士たちを何とかしてやられねばと、1869年に藩士の受け皿となる商業組織の「商法会所(後の常平倉:じょうへいそう)」を静岡藩に設立します。

これは、フランスで学んだ「合方法」を実践したものでした。

世の人のためになることを発信し、同意する不特定多数の人からお金や人を集めて、組織をつくるというもの。

これが、株式会社となったのです。

この商法会所こそが、栄一のいう「合法組織(株式会社)の嚆矢(こうし)」。

設立に係った500を超える株式会社の第一号だったのです。

そして栄一は商法会所の総監督的な立場で、ここで働く人々のために指揮を執りました。

あきちゃん
あきちゃん

もちろん、利益も出しており大成功だったんですよ!

商法会所の利益で会社を増やし、お金を出してくれた人に儲けを分け、さらに東京や大阪をはじめ全国に進出します。

静岡での経済人としての手腕と、パリ万博使節団で会計係として発揮した高い能力は、新政府の中で話題になったのです。

同年に、新政府からスカウトが来ました。

でも、

渋沢栄一
渋沢栄一

「自分にはお役人仕事は向かない。辞退しよう。」

と決めていたのです。

新政府側の大隈重信(おおくましげのぶ)は、

大隈重信
大隈重信

「新しい国づくりを共にしないか!」

と、昼夜問わずに説得し、栄一を今でいう大臣として働かせることに成功します。

指揮を執るだけでなく、どんな仕事でも自分が動き、上下関係を取っ払い部ksたちの意見を聞きながら仕事を進めたのです。

民部省や大蔵省などで活躍し、政府で働いたのはたったの4年でした。

度量衡(どりょうこう)や「円・銭・厘」への貨幣の統一をはじめ、郵便制度の構築や国立銀行制度を立ち上げました。

戸籍法の制度、税金制度に改正、太陽暦への暦の変更など、数えきれないほどの成果を挙げています。

栄一は持ち前の頭の良さを生かして、日本近代社会の基盤を築いたのです。

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鉄道の敷設や税金制度の改正も行いました。

忘れてはならないのが、世界遺産に登録されている「富岡製糸場」

生糸生産の模範工場として、栄一が開設に一役買っているんです。

あきちゃん
あきちゃん

豪農出身で養蚕経験もあり、はまり役だったのかもしれませんね!

初代工場長は、栄一の師であり、いとこでもある妻の兄の「尾高惇忠」です。

2021年【大河ドラマ】渋沢栄一新政府からの独立事業家としての活躍と飛躍

財政方針の考え方の違いなどから、新政府を離脱した栄一は、実業家たちのリーダーとなっていきます。

その後は、福祉や学校作りに尽力し、国際親善にまで力を注ぎました。

現代でも栄一は

「近代日本資本主義の父」

と呼ばれています。

経済を優先したい栄一たちは、軍備の拡張を第一に考える大久保利通(おおくぼとしみち)大隈重信(おおくましげのぶ)たちと、財政方針を巡り対立することになります。

栄一は使うお金と入るお金のバランスが一番大切だと理解していました。

でも、4年間の

「新しい日本作り」

に参加したことは、実業家として活躍するうえでもかけがえのない経験となっています。

1872年国立銀行条例が制定されたことにより、翌年の33歳の時に上司だった井上馨らと政府から独立します。

いよいよ民間での活躍が始りました。

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2021年【大河ドラマ】渋沢栄一流道徳と経済の両立

最初は1873年に開業した

「第一国立銀行」(現:みずほ銀行)

です。

当初は、1軒の豪商が参加予定でしたが、栄一はそれではいけないと、大蔵省時代に作ったマニュアルの通りに、豪商と一般人の資産を合わせる合本組織にすべきと主張しました。

主張が通り、公益性が高く質の良い銀行となりました。

同年には、フランスで紙幣や新聞を目にしていたことから紙が大量に必要になると思い大蔵省時代に設立を出願していた、合本組織による紙幣をつくる紙の会社設立し、運営に関わります。

あきちゃん
あきちゃん

まさにお札になるべくしてなる男だったんですね。

ちなみにこの会社は現在王子ホールディングスと日本製紙になっています。

彼の実業家としての人生は、邪魔されたり足を引っ張られたり山あり谷ありでしたが、色んなことを乗り越えて自分の信じる道を進んだのです。

合本主義で国を豊かにしたい!

渋沢栄一
渋沢栄一

と考える栄一は、この国立銀行を軸として製紙会社いすゞ自動車サッポロビールなど、現在でも活躍している株式会社を次々に立ち上げたのです。

1887年に外国から来賓をもてなすためのホテルが必要と、大倉喜八郎らと国にホテル設立の願いを出し、1890年の東京初めてのホテルが建てられました。

これが、チャップリンマリリンモンローも宿泊した

「帝国ホテル」

です。

また彼には

渋沢栄一
渋沢栄一

「道徳なくして、経済はなし」

という「道徳経済合一」の考え方をもとに私利私欲ではなく、公益を追求したうえで利益を求めるといった会社をつくり続けました。

1875年に、森 有礼(もり ありのり)が産業界の人材育成のため商法講習所(現:一橋大学)を設立します。

森が転任した1878年に栄一が組織作りと財政の両面で支援したのです。

栄一の尽力がなければ、大学へ昇格することは難しかったといわれています。

また、1886年には伊藤博文の女子教育奨励会創立委員会の参加をきっかけに、寄付活動や講演で女子教育にもかかわりました。

2年後の1888年には、東京女子学館を開校しました。

1901年に設立された、国際性・知性・気品をスローガンとした日本女子大学へは多額の寄付をし、70回に及ぶ講演も行っています。

女性の社会進出にも貢献する姿は、フランスで得た視野の広さが伺えます。

1878年は大活躍の年で商法講習所のほかに、東京商工会議所や東京株式取引所(現:東京証券取引所)の設立にもかかわりました。

日本は島国なので、自ずと海運や貿易が盛んになります。

そんなとき、リスクを軽減するための保険会社を、1879年に誕生させるのです。

これが、華族や財界人など200人以上のそうそうたるメンバーが名を連ねた

「東京海上保険会社」

です。

保険会社の設立を機に、栄一の

渋沢栄一
渋沢栄一

「日本に合本組織を普及させる」

との考えに基づいた、本格的な株式会社がつくられるようになるのです。

その後は現在のJR東日本、東京鉄鋼、大成建設など現在では名だたる企業の設立に関わりました。

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2021年【大河ドラマ】渋沢栄一ライバルで宿敵岩崎弥太郎との出会い

今でもライバル視される、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎と出会います。

弥太郎は

岩崎弥太郎
岩崎弥太郎

「会社は一家。社長独裁の元で、みんな一丸となって頑張ろう」

という考えに対して栄一は

渋沢栄一
渋沢栄一

「グループを組み、みんなで苦楽を分かち合う仕事がしたい」

という考えでした。

向島の料亭で酒宴を交わした席で、弥太郎が

岩崎弥太郎
岩崎弥太郎

「船頭多くして、船山に上がる」

といい栄一に

岩崎弥太郎
岩崎弥太郎

「手を組んで日本の実業界を支配しよう。俺らが組めば、日本一いや世界一の大金持ちになれるぞ」

と話を持ち掛けます。

しかし、栄一は、

「庶民が豊かになることが、国を強くすること。そのために、力を尽くしたいのです。あなたとは、仕事の考え方が違う。」

とはっきり断ったのです。

その後ビジネス面でも対立は激化していきます。

特に海運覇権もめぐる戦いは、値引き合戦に発展し共倒れ寸前までなるほど激化しました。

この戦いは1885年2月7日に弥太郎が胃がんでこの世を去るまで続きました。

弥太郎の死後は、両社が合併して日本郵船株式会社となっています。

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2021年【大河ドラマ】渋沢栄一はすでに紙幣の顔になっていた?

栄一は、1902~1904年にかけて、韓国紙幣の肖像になっています。

なんで韓国なのでしょうか。

大韓帝国には、日本の第一銀行に在韓支店があったためです。

当時はまだ中央銀行がなかったことで、伊藤博文より中央銀行に発券機能を持たせた銀行の設立に力を貸してほしいと頼まれます。

栄一も2つ返事で引き受けました。

1878年6月に設立された第一銀行釜山支店など、在韓支店で発行される第一銀行券の、1円、5円、10円の肖像に当時第一銀行の頭取だった栄一の顔が描かれることになったのです。

この第一銀行券が韓国の公用紙幣としての権利を得ることで、事実上の中央銀行となりました。

栄一が2024年からの紙幣の顔に選ばれたことで韓国の新聞などで批判がされていますが、上記で話した通り韓国紙幣の顔になったことで、

「韓国経済侵略の張本人だ」

と感情的にとらえられているからです。

ちなみに第一銀行在韓支店は、現在の朝鮮銀行です。

渋沢栄一大河ドラマ

2021年【大河ドラマ】渋沢栄一の生涯がわかる[まとめ完全版]まとめ

いかかだったでしょうか?

2021年は大河ドラマの主人公として渋沢栄一が描かれています。

新一万円の顔にも選ばれることになりますます注目の存在になっていくのではないでしょうか。

彼がいたから今の経済大国日本があるのかもしれませんね。

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2021年【大河ドラマ】渋沢栄一観光スポット

渋沢栄一記念館

渋沢栄一記念館
〒366-0002 埼玉県深谷市下手計1204
048-587-1100

旧渋沢邸「中の家(なかんち)」
〒366-0006 埼玉県深谷市血洗島247−1
048-587-1100

諏訪神社(血洗島)
〒366-0006 埼玉県深谷市血洗島117
048-587-2299

2021年【大河ドラマ】渋沢栄一おさらいクイズ

Q1.渋沢栄一の出身地は?
A.埼玉県深谷市
Q2.すでにお札になっていました。国はどこ?
A.韓国
Q3.渋沢栄一が設立に関わった会社は?
A.第一銀行→みずほ銀行,東京貯蓄銀行→りそな銀行,東京海上保険→東京海上日動火災保険,万歳生命保険→マニュライフ生命保険,など

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