幕末、明治時代という日本の歴史的大改革という時代のなかで色々なものが変わっていきました。
渋沢栄一を主人公とする大河ドラマ「青天を衝け」では描かれることはないであろう明治の大きな歴史的出来事になった
「改暦」
についてお話させていただきます。
是非最後までご覧ください。
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太陰太陽暦から太陽暦へ
明治維新ののち、政府主導による「文明開化」政策のもと、急激に西洋化が行われました。
「ちょんまげ」を禁止した断髪令など、公式行事の洋装化などがよく例に挙げられるが、私たちの生活をさらに根底から変える改革がなされていたことも、忘れてはなりません。
それは「改暦」です。
これもまた、ほかの政策と同様に、欧米に追い付き追い越すための富国強兵の一環だったというのが通説であります。
事実、これまで使っていた日本暦と西洋暦には、大きなズレがありました。
福澤諭吉など改暦を後押しする知識人もいたくらいです。
だが、実は、明治政府によって改暦が推し進められたのには、ほかの深刻な事情がありました。
ただ単に、富国強兵の一環として改暦が行われたというのは、大きな誤解なのです。
1872(明治5)年1月、明治政府は太陽暦への改暦を発表しました。
その翌年から、これまで用いてきた太陰太陽暦に替わって、現在使われていろ太陽暦が採用されることとなります。
太陰太陽暦とは、
その名のとおり「太陰暦 + 太陽暦」の暦のことです。
※太陰暦 太陰は「月」を意味します。つまり、太陰太陽暦は月と太陽をベースにした暦ということになります。
それでは太陰暦とは何かといえば、
「月が新月になる日」
※新月 月が太陽と重なって暗く見える状態。月は光の当たらない面を地球に向けているため、光は見えない。
を月の始まりと考える暦のことです。
いわゆる「旧暦」と呼ばれているもので、新月から次の新月までを1月とすると、その間隔は平均して29.5日となり、1年で考えると約354日となります。
一方の太陽暦は、季節 の流れに忠実な暦で、1年は約365日となります。
つまり、太陰暦を使っていると、年々11日ずつ季節がズレることになるわけです。
そこで太陰太陽暦では、ずれが1カ月分になると「閏月」をいれて修正していたのです。
しかしそうすると、実に2~3年に1回、月が入ってくることになり、これには江戸時代の知識人もややこしいと思っていたようです。
江戸時代中期の経世家である本多利明は、著作の『西域物語』で、
「来月の閏月あるやらないやら、月々の大小大晦日は大か小か、只真闇になりて新頒暦の出るを待て、来年のことを計るとは余りに無分別なるに非ずや」
と書いています。
来年の暦が発表されるまで、来月に閏月があるかどうかもわからないので、それはあまりに分別がないことだ、と批判しているのだ。
西洋の太陽暦を知っている知識人ならば、太陽太陰暦を不便に思うのも無理はないかもしれません。
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暦が変えられた真相
だが、明治政府が太陽暦に思い切って切り替えたのは、そんな不便さを解消しようとしたわけでもなければ、欧米を見習ったわけでもありませんでした。
もちろん、そうした事情も加味しただろうが、改暦した一番の理由は別にありました。
当時、参議だった大隈重信はこう書いています。
「明治維新の後は、『月棒』もしくは『月給』と称して、月ごとに官吏の給与を計算して支出することになった。しかし、太陰太陽暦では太陽のてん度に合わせるために、2~3年ごとに必ず1回、閏月を置かざるを得ない」
明治維新後、それまで年棒制だった官僚の給与が月給制になりました。
そして、太陰太陽暦では2~3年ごとに必ず1回、閏月を置かなければならない。
だからどうした、と思う人もいるかもしれませんが、このことが明治政府にとっては大問題だった。
理由はこうです。
「閏月の年は3カ月となるため、その1年だけは、棒給やそのほかの支出がほかの年より2分の1増加せざるを得ない」
閏月のある年は、ほかの年より1カ月多いため、官僚への給与などがその分増えるいうわけです。
閏年にそなえて、あらかじめ準備しようにも、財政状態を考えると難しかった。
そのため、大隈はこう言い切っています。
「この閏月を除いて財政の困難を救うには、断然、暦の制度を変えるしかない」
なんとも情けない理由だが、当時、財政の最終責任を担っていた大隈にとっては重要なことで、それだけ明治政府は困窮していました。
暦の変更という、生活を揺るがす大改革も、その真相は財政対策の一環に過ぎなかったのです。
改暦もまた、学制や徴兵制と同じく、庶民の大きな反発を生みました。
鳥取県や福岡県で起きた暴動では、明治政府へのさまざまな要求が声高に叫ばれたが、そのうちの一つが、
「新暦を廃すること」
です。
不便な面があったにせよ、太陰太陽暦は人々の生活に根づいていたのだから、早急な改暦に戸惑うのは当然だろう。
また、国が作った官製の暦には、方角の吉兆など送信的な要素が取り除かれたために、人気がなかった。
その一方で、従来の迷信的な記述も含めた民間による「偽暦」のほうが飛ぶように売れ、官憲は慌てて取り締まりを行っています。
このように、やることなすことで支持を得られなかったのが、明治政府の改革でした。
定着しなかった「皇紀」
明治政府による改暦は、これだけではありません。
太陽暦への転換が発表された6日後、「神武天皇即位紀元」、つまり「皇紀」が制定されたのです。
これは、西暦がキリスト教の誕生の年を元年としているように、日本では、神武天皇の即位をもって紀元としよう、というものでありました。
しかし、その制定よりも前の慶応4年、翌年から「明治」と改元するという、一世一元の制が定められています。
ペリー来航以降、幕末までの15年の間に
「嘉永」「安政」「万延」「文久」「元治」「慶応」
と6回も改元されたことを踏まえての改革です。
また、天皇の治世を国民に強く意識させるにも、一世一元は望ましかったことから、慶応4年の9月8日に、「明治」と改元されています。
にもかかわらず、今度は「神武天皇の即位した年を紀元にしよう」と言い出したのだから、あまりにも場当たり的であります。
政府としても、明治の年号の代わりに「神武天皇即位紀元」を制定するのか、それとも両方を使うのかは曖昧で、ルールを決めた政府の方針が、そもそも不明確だったのです。
政府でさえこれなのだから、民間でも皇紀はずっと使われなかった。
太平洋戦争中の日本のイメージから、戦前の日本人にとって皇紀は馴染み深いもののように思われることが多いが、実はそれほど浸透しておらず、明治10年以降は、皇紀の記述もほとんど見られなくなったのです。
だが、実は今でも「神武天皇即位紀元」は廃止されておらず、これだけ定着している西暦のほうは、公式の紀年法として認めていません。
法令によって、「神武天皇即位紀元」は閏 年の決定に使われることになっているからです。
具体的には、神武天皇即位紀元の年数が四で割り切れる年が、閏年となっています。
ただ、これは西暦で閏年を算定するのと同じ方法であるため、変更したところでとくに問題は起こらないのではあるが・・・
ともあれ、成功例ばかりが語られる明治維新だが、その陰では、皇紀のように明らかに失敗に終わったものもあったのです。
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