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板垣退助(いたがきたいすけ)という人物はご存じでしょうか。
あの名言と共に教科書で登場したような気がする板垣退助という人物。
実際には何をしたのか?日本にどのような影響を与えたのか。
そして大河ドラマ『青天を衝け』ではどのように登場するのでしょうか?
解説していきます。
是非最後までご覧ください。
板垣退助(いたがきたいすけ)維新ののち、四民平等を唱え続けた自由民権運動の父
1837年高知城下で土佐藩士、乾正成の子として生まれました。
藩主・山内容堂の側用人となり、以後藩の要職を歴任しました。
戊辰戦争では東山道先鋒総督軍参謀を務め、北関東、会津まで転戦しました。
この頃乾姓から板垣に改姓しました。
1871年新政府の参議となります。
1873年征韓論に際しては、大久保利通らと対立し、西郷隆盛らとともに下野します。
1874年、五箇条の御誓文の文言
「万機公論にに決すべし」
という考えをもとに愛国公党を設立し、後藤象二郎など、下野した参議らと民選議員設立の建白書を提出するが却下されてしまいます。
高知に帰った板垣退助は、立志社を作り自由民権運動の指導的役割を果たしました。
1881年帝国議会開設を機に自由党を設立、総理(党首)に就任しました。
自由民権運動の拡大を目指して全国を遊説して回りました。
1882年後藤象二郎と共に洋行。
1887年、固辞したものの明治維新の功労を認められ伯爵となります。
1896年、第二次伊藤内閣で内務大臣、1898年大隈内閣で内相を務めました。
晩年は政界を引退し社会事業等に力を注ぎました。
1919年に死去しました。
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板垣退助あの名セリフは土佐弁だった?
1882年は板垣退助は、岐阜で暴漢に襲われました。
その際
「板垣死すとも、自由は死せず」
と叫んだという有名なエピソードが新聞などで報道され、この言葉が自由民権運動の合言葉となりました。
実際には土佐弁だったという説があるそうです。
しかしこの名言は板垣退助の言葉ではない!そして板垣退助が議会制を目指して下野したというのはウソ
土佐藩士・板垣退助は、薩長の専制を目の当たりにしたことで、日本の近代化には議会制が必要だと悟った。
維新後に政府から離れて国会の開設を目指し、「自由民権運動」を展開。
それが実を結び、明治3(1890)年に帝国議会開設を実現することができた。
暴漢に刺されたときに発した
「板垣死すとも自由は死せず」
の一言は、まさに板垣の自由への信念が凝縮された名言である。
とされています。
しかし最新研究でここまでわかった真相は実は違います
板垣は軍内で将校として出世することを望んでいたが、権力闘争に敗れてやむなく民権運動家への道を歩んだ。
「板垣死すとも自由は死せず」
の名言も、実際は板垣退助の発言ではありません。
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軍人になりたかった板垣退助
明治維新後の日本政界では、薩長の有力者が主要ポストを公然と牛耳っていました。
これに対し、前時代的な体制では西洋列強に太刀打ちできないと不安を抱き、日本でも議会を開設しようと働きかけたのが、自由民権派と呼ばれる人々です。
その代表的人物わたくし板垣退助です。
板垣たちが推進した運動は自由民権運動と呼ばれ、天下公論に基づく政治を求める出来事として、歴史教科書に登場することも多いと思います。
特に板垣は愛国公党を設立し、国会の開設を求める意見書を政府に提出するなど、明治初期の政治運動を代表する人物として、高く評価されることもあります。
そんな板垣が政治家志望でなかったと聞いても、すぐには信じられないかもしれません。
だが幕末の板垣は、政治家というよりは、軍人としての活躍が目覚ましかったのです。
薩長の武力討幕を支持していた板垣は、慶応4(1868)年に
「迅 衝隊」
を結成しました。
東山道先鋒総督府参謀として自ら部隊を指揮すると、戊辰戦争では常に最前線で活躍。
宇都宮城の奪還成功などの戦果を多数残し、日光では旧幕軍と交渉して東照宮から撤退させています。
新政府軍で最大級の戦果を挙げた生粋の軍人であり、維新後には軍事を統括する兵部省のトップ就任が確実視されていました。
板垣退助が自由民権運動の活動家へと転向
では、そんな軍人気質の板垣が自由民権運動の活動家へと転向したのはなぜなのだろう?
答えは単純で、薩長との権力争いに敗れたからです。
板垣は兵部省の実権を握る兵部大輔の地位を望んでいたが、希望はなかなか叶わず、2代続けて長州藩出身者が就任していました。
3代目でようやく板垣が候補にあがったものの、長州藩の反対工作にあって白紙化してしまいます。
また、朝鮮への軍事行動を説いたが大久保利通らの反発で潰えてしまい、軍事的なイニシアチブを発揮する機会に恵まれない状態が続いていました。
結局、板垣は希望を叶えることができないと覚り、新政府に見切りをつけました。
その後に土佐へ下野して政治結社の立志社を結成。
自由民権運動を開始している。
とはいえ、板垣らの活動で国会開設の機運が高まったのは事実です。
地主層を中心に運動は全国に広まり、板垣は自由民権運動の旗手とみなされるようになっていました。
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板垣退助刺殺岐阜事件の真実
明治5(1882)年4月6日に岐阜で演説を終えた板垣が、反対派に刺された出来事です。
この事件で板垣が発したという一言が、有名な
「板垣死すとも自由は死せず」
板垣の信念を表す名言として知られているが、上記でもふれたとおり実は板垣本人の言葉ではありません。
事件現場は非常に混乱していたので、誰が何を発言したかはわかっていないのが現状です。
それでも、自由民権派の運動家や新聞は、この事件を大々的に宣伝しました。
ですが、結果として国会開設は実現し、板垣らの活動が実を結んでいます。
板垣が希望通り将校となっていれば、戦争史に残る名将となっていただろう。
しかしそうなっていた場合、自由民権運動の展開が遅れ、薩長の藩閥体制はより強固になっていたかもしれませんが・・・