もくじ
徳川家康(とくがわいえやす)幼年期は人質になり忍従の日々
1603年から1868年まで続いた江戸時代。
最後の将軍は徳川慶喜(とくがわよしのぶ)です
世界的にも類を見ない260余年におよぶ長期政権=江戸幕府の基礎を作った徳川家康は、
1543年に三河国・岡崎城主の松平広忠(まつだいらひろただ)の嫡男(ちゃくなん)として生を受ました。
家康が生誕した当時、父・広忠は駿河を治める今川義元(いまがわよしもと)に従属していたため、家康は六歳のときに人質として今川家に預けられることになる。
だが、護送を担当していた今川氏の家臣が織田氏へと寝返り、家康は尾張国に送られてしまう(家康はこのときに幼少の織田信長(おだのぶなが)と出会っている)。
その後、人質交換により駿河に入った家康は、忍従の日々を送ったといわれている。
だが実は、義元から政務を習ったほか、さまざまな英才教育を受けていたという説もある。
当時の駿河は、京都を成した文化人たちが集まり住んでいた場所で、教養を磨くにはうってつけの場所だったのだ。
「父によって人質に……」
というと聞こえが悪いが、広忠は息子の将来を思って、あえて家康を送り出していたのかもしれない。
また、義元は姪を家康に嫁がせており、家康の才覚や家系を認めていたものと考えられる。
やがて将軍となる家康のルーツは、この時期に作られたのだろう。
徳川家康(とくがわいえやす)織田信長と手を組み戦国武将として一人前に
駿河で元服した家康は、1558年に14歳で初陣。
1560年に起きた桶狭間の戦いで義元が死ぬと、その混乱に乗じて生誕の地である岡崎城に戻り、今川氏からの独立を宣言する。
1562年には、信長と清洲同盟を結び、織田家に従う立場を明らかにし、一五六六年までには、情勢が不安定だった三河国を統一して支配権を確立する。
さらにその二年後には、今川領だった遠江国も手中に入れる。
また、信長が諸国の武将から首を狙われるようになったときは家康が信長を助け、1568年の姉川の戦いでは朝倉・浅井連合軍の打破に尽力した。
このとき、家康は25歳―――着々と戦国武将らしくなっていった。
1570年、家康は拠点を岡崎城から浜松城へと移すことになるが、その前年、友好関係にあった武田信玄に裏切られ、遠江国に侵攻されてしまう。
1572年には、重要拠点・二俣城を落とされた家康は完全なる劣勢に立ち、その翌年の三方ヶ原の戦いでは史上最悪の惨敗を喫する。
この
とき家康は、信玄に殺されることを覚悟したに違いない。
※この時命からがら逃げた家康は漏らしたという逸話が残されています。そんだけ激しい敗北だったのですね。
徳川家康(とくがわいえやす)武田征伐後も激動の人生は続く
しかし、三方ヶ原の戦い後、武田軍の攻撃がパタリと止まる。
なんと、信玄が病死したのである。
なんという幸運・・・
武田軍は勢いを失い、1575年の長篠の戦いでは戦国最強とうたわれた武田騎馬軍を家康と信長の連合軍が圧勝。
1582年に信長が実施した武田征伐においても、家康は著しい武功を示し、信長から駿河国を授かることになった。
だが同年、本能寺の変が起きて信長が死亡する。家康は取り乱し、信長のあとを追おうとしたという。
しかし家康は、その一方で、混乱に乗じて信長が治めていた甲斐と信濃を横領。気がつけば、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五国を治める大大名になっていたのである。
こうした抜け目のなさが、戦国武将らしい・・・
やがて家康は、信長に代わって台頭しはじめた羽柴秀吉と対立するようになる。
信長の次男・信雄と連合した家康は信長の遺児を助けるという大義名分を掲げ、1584年に秀吉と激突。
戦況を優位に進めるが、やがて信雄は秀吉の懐柔策にのまれ、家康に無断で秀吉と和解してしまう。
大義名分を失った家康はやむなく撤退。
秀吉との講和に応じることになった。
それでもなお家康と秀吉の緊張状態は続き、ついに家康の家臣たちは
「秀吉を叩くべき」
という勢力と、秀吉に臣従すべき、という勢力に分裂する様相を呈していく。
そんな中臣従、を説いていた重臣・石川数正が秀吉に寝返る事件が発生。
さらに、家康を従えたい秀吉は、家康に人質を届けるという策にまで打って出た。
家康は仕方なく、1586年に秀吉に従うことを宣言。
だが、それは、いつか自分が天下を取る瞬間を、秀吉の懐の中で待つというだけのことだったのだ。
徳川家康(とくがわいえやす)関ヶ原の合戦は家康のシナリオ通り?
秀吉の家臣となった家康は、支配していた五国と引き換えに、関東の七国を与えられる。
一見すれば大幅な加増だが、関東には家康を快く思わない武士も多く、当時は荒地ばかりだったため、家康にはおもしろくない命令だったはずだ。
だが、家康は江戸城を築いて本拠とし、秀吉に従ったのである。
そのおかげか、ほかの武将たちが秀吉の朝鮮出兵につき合う中、家康は出兵要請を免れ、幸運にも国内で軍事力を温存できたのです。
さらに1598年には、秀吉から五大老のひとりに任命され、秀吉の跡継ぎである秀頼のブレーンとなることを命じられる。
家康が五大老となった直後、秀吉は病死した。
さらに家康を止めようとした五大老のひとり・前田利家の死もあり、家康の権力はいっそう強まっていった。
そんな中、会津の上杉景勝が軍備増強をしているという噂を知った家康は
「それはけしからん」
と軍を進めはじめる。
すると、その隙を見た豊臣家の奉行・石田三成(いしだみつなり) が家康を討つべく、毛利輝元を大将に擁して挙兵。
三成の行動を知った家康は、行軍を止め、三成との対決へと向かった。
これが1600年に起きた、天下分け目の関ヶ原の戦いである。
三成率いる西軍に属していた小早川秀秋の裏切りによって、家康の東軍が勝利を収めたこの戦。
先に相手に牙をむいたのは三成のように見えるが、実は、天下取りを急いだ家康が、わざと三成に隙を見せて戦いを誘ったという説がある。
その証拠として、会津への進軍があまりにものんびりしていた(=本当に上杉を攻めるつもりはなかった)ことや、三成との対決を前に、自軍の味方を増やすべく、さまざまな工作に時間と労力を使っていることなどが挙げられる。
秀秋の裏切りは、家康のシナリオ通りだった可能性もある。
徳川家康(とくがわいえやす)徳川家の安泰を見届けたのちに……
かくして関ヶ原で勝利した家康は、征夷大将軍となり1603年に江戸幕府を開いた。
その二年後、家康は三男・秀忠に将軍職を継がせ、自身は隠居の身となった。
これには
「将軍職は徳川家が世襲していくものである」
ということを、世間にアピールする目的があったといわれている。
事実、家康は江戸城を離れ、馴染み深い駿府に居城を移したが、大御所として実権を握り続けた。
それでも不安は残る。
西方では、秀吉の跡継ぎ・秀頼を将軍に推す声が絶えなかった。
家康は、豊臣家を家臣にできずにいたのである。
そこで家康は、数々の言いがかりをつけて秀頼の居城・大坂城を攻め、1615年に豊臣家を滅ぼしている。
これと並行して、家康は法律の整備に着手。
諸大名や朝廷の権利を制限する
「禁中並公家諸法度」
「武家諸法度」
を発令し、徳川家の特権を守ったのだった。
一族の安定を確信したのだろうか、家康は一六一六年に命を落とす。
享年は73歳だった。
通説では
「死因は天ぷらによる食あたり」
といわれているが、最近では胃ガンだったのではないかと推測されている。
264年の一族の安定を得るために、激動の時代を駆け抜けた徳川家康。
その人生は、長く、誰よりも厳しく激動に流された過酷なものでした。
【漫画】徳川家康の生涯を6分で簡単解説!(後編)【日本史マンガ動画】
日光東照宮
一泊二日で観光しましたがとても満足な日光観光になりました。皆様も是非!
江戸幕府初代将軍徳川家康を神としてまつる神社
日本を代表する世界遺産「日光の社寺」。その中でももっとも有名な「日光東照宮」は徳川家康がまつられた神社で、現在の社殿群は、そのほとんどが寛永13年3代将軍家光による「寛永の大造替」で建て替えられたもの。境内には国宝8棟、重要文化財34棟を含む55棟の建造物が並び、その豪華絢爛な美しさは圧巻です。全国各地から集められた名工により、建物には漆や極彩色がほどこされ、柱などには数多くの彫刻が飾られています。
日光東照宮|観光スポット|日光旅ナビ (nikko-kankou.org)
DATA | |
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住所 | 〒321-1431 栃木県日光市山内2301 |
電話番号 | 0288-54-0560 |
営業時間 | 4月~10月 9:00~17:00 11月~3月 9:00~16:00 (各期間とも受付は閉門30分前に終了) |
定休 | なし |
料金 | 大人・高校生1300円、 小・中学生450円 |
アクセス | JR日光駅・東武日光駅より東武バス日光に乗車、「中禅寺温泉」または「湯元温泉」行きで5分「神橋」下車徒歩8分。またはバスで8分「表参道」下車徒歩約2分。 |
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備考 | 約200台(有料) |