2021年【大河ドラマ】井伊直弼(いいなおすけ)は開国論者ではなかった!
これまでの通説は
「日米和親条約」に基づいて来日したアメリカ総領事ハリスとの通商交渉に、いち早く反応した幕閣する。
それが大老の彦根藩主・井伊直弼です。
開国論者の井伊は幕府の反対を押し切って「日米修好通商条約」に調印し、朝廷を無視した強行は尊王攘夷派の反発を招き、反対派を弾圧したことによる反感の高まりもあり、井伊は桜田門で暗殺されることになった。
しかしこれまでの研究では少し事実とは異なるようなのです。
2021年【大河ドラマ】井伊直弼(いいなおすけ)は開国論者ではなかったという事実
開国論者と思われがちな井伊直弼だが、実際にはアメリカとの条約調印に否定的でした。
開国に同意したのは大老就任前、すでに幕府が条約調印を決めていたからであり、井伊本人は天皇の勅許を得てからにすべきだと、他の幕臣にくぎを刺していたほどでした。
2021年【大河ドラマ】井伊直弼(いいなおすけ)就任前に決まった開国路線
開国を拒む天皇を無視して、勝手に条約調印をした不忠の輩。
井伊直弼はそんな悪しきイメージで語られがちです。
しかし実際には、井伊はアメリカとの条約締結に否定的な考えを持っていました。
なぜなら、わたしは「国学」の価値観を重んじる保守的な人物だったからです。
国学とは、『古事記」や「日本書紀」といった日本古来の書物を重んじ、日本本来の精神に立ち返ることを説いた学問です。
幕府の権威が低下した江戸時代後期から、武士階層の間で浸透し始めました。
広めたのは尊皇思想の強い水戸藩の国学者たちで、幕末には武士の教養として普及し、井伊もその影響を受け、
天皇を尊び、神聖なる国土を諸外国から守るべきだ
と考えていた。
国学を支持していた井伊が開国路線に転換したのはなぜか?
それは、幕府の方針が開国路線で固まっていたからです。
通説では、幕府がアメリカの圧力に負けて開国に踏み切ったといわれるが、実情は少々違います。
清国を侵略していたイギリスへの警戒感から、幕府は対米交渉に前向きだったし、交渉の際に幕府の担当者はアメリカ側の示威行為に押されず、逆に論破することもありました。
そもそも、通商条約の交渉に先立ち、幕府は全国の大名から意見を募り、大半の大名から賛同を得ていました。
これを背景として幕府はアメリカと交渉を進め、1857年末には貿易港や関税率に関して協議し、翌年3月を目処に条約を調印することを決めています。
注意すべきなのは、この交渉に私が参加していないということなのです。
井伊が大老に就任したのは、調印予定から1カ月が過ぎた安政5(1858)年4月。
井伊は幕府の路線を踏襲したに過ぎません。
それに井伊は幕府の決定に従いつつも、条約の締結は天皇の勅許を待ってからでも遅くはないと慎重な立場を取りました。
それでも、若年寄の本多忠徳を除いた全員が井伊の意見に反対したことや、締結反対派の孝明天皇が一向に動かなかったことで、慎重論が受け入れられることはありませんでした。
その後の展開はよく知られているとはおもいますが、アメリカが痺れを切らす前に調印するのが得策と判断し、天皇の勅許を得ずに「日米修好通商条約」を調印。
この調印強行に激怒した孝明天皇が幕府の責任追及と攘夷遂行を求める密勅を諸藩に発布すると、井伊は関係した人物の処罰を開始しました。
この「安政の大獄」と呼ばれる弾圧によって、多くの攘夷論者が処罰されました。
のちに紹介するとおり、現在では通説のような大弾圧ではなかったという意見もありますが、多くの志士が井伊憎しの思いを共有していたことに変わりありません。
西郷隆盛ですら、井伊の一周忌には
「嬉しすぎて朝から晩まで飲みすぎた」
と大久保利通に手紙で語ったほどです。
維新後はこうした薩長目線の悪評が独り歩きし、「高圧的な開国推進者」というイメージが定着していったのである。
2021年【大河ドラマ】井伊直弼(いいなおすけ)は刀による致命傷で命を落としたわけではない
井伊が乗った籠を発見すると抜刀突撃という通説
日米修好通商条約の締結を押し切り、安政の大獄によって敵対勢力を粛清した大老・井伊直弼(いいなおすけ)。
その政策は尊王攘夷派の反感を買うことになり、あの教科書にも出てくる有名な、
「桜田門外の変」
へとつながりました。
安政7(1860)年3月3日、江戸城の桜田門外付近において、水戸脱藩の志士ら8人は、井伊が乗った籠を発見すると抜刀突撃を決行し、突然の奇襲に護衛はなす術もなく切り倒され、井伊も首をはねられたでした。
最新研究では事実とは異なるようなのです。
襲撃はピストルによる銃撃という真相
桜田門外で待機していた尊王攘夷派の志士は、刀ではなくピストルによる銃撃で、井伊を襲いました。
大名行列を目にすると、一斉射撃を仕掛けました。
確かに刀も使ったようですが、それは致命傷を負った井伊にとどめを刺すときであり、大規模な白兵戦にまではなっていなかったのです。
2021年【大河ドラマ】井伊直弼(いいなおすけ)暗殺の実情とは?
旧暦3月3日、雪の降りしきる江戸市中において、桜田門外の変は起きました。
井伊の死は公式には伏せられたものの、事件現場に積もった雪は鮮血に染まり、多くの人間の目に留まっていました。
事件がたちどころに知られたのは、言うまでもありません。
時代劇では、暗殺シーンは
「襲撃者が刀を振るい、井伊を籠ごと刺し殺す」
というのがおなじみです。籠から逃げ出す間もないまま襲われる井伊。
緊迫感があって劇的だが、逃げたくても逃げられなかったという方が正しいのです。
浪士が斬りかかる前から、井伊は銃撃によって致命傷を負っていたからです。
一般的には、浪士と護衛の武士が斬り合うシーンを想起すると思うが、暗殺に用いられたのはピストルでした。
欧米式の回転式拳銃が伝わる前から、日本には短筒という小型の火縄銃があり、井伊はこの短筒によって狙撃され、致命傷を負ったのです。
その証拠に、事件現場からは血濡れの短筒が2艇見つかっているし、のちに自首した2人の襲撃者が1艇ずつ持っていたことも細川家に確認されています。
襲撃者のリーダー関鉄之助も短筒を持っていました。
実際、江戸の彦根藩邸にて井伊の遺体を検分した岡島玄達は、太腿から腰にかけて銃弾が貫通した痕が見つかったと記録しているため、銃撃によって井伊が致命傷を負っていた可能性は高いのです。
そしてこれらの証拠から、事件の流れを推測できる。まず、8人の浪士は桜田門付近に身を隠して井伊を待ち構え、井伊の行列が江戸城に入ろうとしたところで、5人が籠に向けて短筒を発砲。
突然の銃撃に護衛が混乱した隙に突撃して、籠から瀕死の井伊を引きずり出して首をはねたのです。
現場が混乱していたからか、井伊の護衛は襲撃者を1人しか討ち取れなかったが、襲撃者の末路はいずれも悲惨で、ある者は現場で負傷し、ある者は追っ手に斬りつけられ、半数近くが逃亡中に命を落としました。
自首した者は残らず処刑され、逃亡できたのはたったの2人で、その2人も、明治維新が成るまでは潜伏生活を余儀なくされました。
一方、襲撃された井伊の実家・彦根藩は、より複雑な行く末をたどりました。
彦根藩を束ねる井伊家は家康時代から続く譜代の名門でしたが、政敵も多かったのです。
特に、将軍の後継ぎ問題で対立した一橋派からすれば、桜田門外の変は井伊家の勢力を減退させるチャンス。
責任追及を名目に長野主膳ら元側近の処分を要求すると、井伊家がこれに応じたにもかかわらず、井伊家を京都守護職から罷免することも決定。
さらには10万石もの大減封を言い渡しました。
もしかしたら一橋派の策略だったのでしょうか・・・
しかし皮肉なことに、こうした露骨なまでの報復は、彦根藩に将軍家への不信感を植えつけました。
結果として、第二次長州征伐で幕府が不利になるとこれを見限り、王政復古の大号令が発布されると、彦根藩は新政府側につきました。
そして戊辰戦争では新政府軍の一員として旧幕軍と戦ったのです。
2021年【大河ドラマ】井伊直弼(いいなおすけ)彦根城跡
営業期間 | 休業:無休 公開:8:30~17:00 |
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