2021年大河ドラマでは、渋沢栄一の従兄として登場する渋沢喜作という人物。
高良健吾さん演じる栄一の親友ともライバルともいえる存在で描かれています。
今後青天を衝けでどうなっていくのでしょうか?
今回はそんな渋沢喜作がどんな人物で、どんなことをしてきたのか解説します。
是非最後までご覧ください。
【大河ドラマ】青天を衝け渋沢喜作(しぶさわきさく)尊攘の志士から彰義隊に転じた栄一の従兄
成一郎と名乗りましたが、明治維新後に幼名の喜作に名を戻しました。
榛沢軍血洗島(現在の埼玉県深谷市)に蚕の養殖と・藍の製造を生業とする経済的に豊かな農家に生まれます。
渋沢栄一、尾高惇忠・長七郎・平九郎の従兄弟です。
栄一より2歳年上で、幼少期より行動を共にしていたと言われています。
一族の従兄弟たち同様、神道無念流の剣術を学び、水戸学に熱中する尾高惇忠を師にとして漢学を学んだ影響から、栄一同様、尊王攘夷の志を持つようになります。
1863年、淳忠、栄一らと高崎城乗っ取りと横浜外国人居留地の焼き討ちを計画するが、長七郎の反対にあって断念します。
ひぃぃぃ!!!コワっ!荒れてますねぇ。。。
幕史の追及を逃れるために、栄一と京都に向かいます。
江戸で知遇を得ていた一橋家の用人、平岡四郎の勧めで一橋家に仕官します。
1866年、徳川慶喜が15代将軍となり幕臣になりました。
奥右筆格内務係(おくゆうひつないむがかり)に取り立てるなど出世していきます。
現在でいうところ政策秘書に近い存在です!
1868年、鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩軍と交戦して、右脚に負傷を負います。
江戸にもどり、彰義隊の結成に参加し、頭取となるが、ほどなく副頭取の天野八郎との仲が悪くなり、上の戦争が勃発する前に彰義隊を脱退します。
淳忠を参謀格に同氏と共に田無村(現在の東京都西東京市)で振武軍を結成して隊長となります。
彰義隊の上野での敗戦の報告を受け、飯能村(現在の埼玉県飯能市)に転陣して新政府軍を迎え討つが敗戦・・・
秩父や上州に潜伏後、榎本武揚の旧幕府軍に合流します。
振武軍、彰義隊の残党らと新たな彰義隊を結成して隊長となり、蝦夷地(えぞち)に上陸し、箱館戦争では、福山城(松前城)攻略などで勇戦する一方、彰義隊が喜作派と反喜作派に分裂し、喜作は小彰義隊となります。
1869年の降伏後はは投獄されていたが、1872年にゆるされ出獄。
その後は大蔵省の大蔵大丞だった渋沢栄一の推挙で同省勧業課に出仕、蚕糸の勉強調査のため渡欧します。
1873年帰朝後に大蔵省を退官し、小野組を経て横浜で生糸貿易業、東京で廻米問屋(かいまいどんや)を開業します。
東京商品取引所理事長に就くなど実業界で活躍するが、米相場などへの投資で巨額に損失を出して渋沢栄一が代わりに返済したこともありました。
晩年は事業を長男に譲りました。
【大河ドラマ】青天を衝け渋沢喜作(しぶさわきさく)幼少期から何をするにも一緒だった幼馴染的従兄
栄一が後年、
「何事にも私と喜作は幼年の頃より二人そろって行ってきた」
と回想するように、年の近い従兄弟の2人は、青年期までほぼ行動をともにしてきました。
一橋家に仕官するようになって、将軍跡取り問題が起きた際には、慶喜の将軍就任に2人で
「涙をはばかって止めた」
といいいます。
道が分かれるのは、栄一が徳川昭武のパリ万博幕府使節の随員として渡欧したことによります。
栄一が帰国するまでに、幕府は崩壊し、喜作は戊辰戦争で旧幕府側として新政府軍との戦いに突き進むことになります。
維新後、朝敵となった喜作を栄一は、大蔵省の士官へ推挙、民間への就職斡旋、企業の相談など面倒をみていきます。
2人の親密な関係は晩年まで続きました。
【大河ドラマ】青天を衝け渋沢喜作(しぶさわきさく)鳥羽・伏見の戦いでは慶喜の大阪脱出が・・・!
郷里で攘夷の志士だった喜作は、日唐橋家へ士官することで、本人の意に反して幕臣へ転じて出世を遂げます。
鳥羽・伏見の戦いでは軍目付として転戦後、大阪に帰ると慶喜がすでに大阪から脱して江戸の戻ったことを知って驚愕!!!!
「ただ、血涙のみ」
だったといいます。
彰義隊への参加は、学問の師である淳忠の後押しがあったからでした。
頭取となった彰義隊をすぐに脱退したことは、江戸開城後、慶喜が水戸へ退去したことで、日光に退いて体制を整えたい喜作と上野での戦いにこだわった天野八郎の仲の悪さが根底にあったといいます。
維新後は、渡欧、実業家への転身と、栄一以上ともいえる波乱に満ちた生涯を送った喜作。
栄一は二人の性質の違いを
「私は何事にも一歩一歩着々と進んで行こうとする方であるに反し、喜作は一歩飛びに志を達しようとする投機的気分があった」
と評しています。
天野八郎(あまのはちろう)渋沢喜作(しぶさわきさく)のもと彰義隊の副頭取として活躍
上野国磐戸村の名主・大井田吉五郎の次男。
1861年武士を志して江戸へ上ります。
鳥羽伏見の戦いで敗れた旧幕府軍の会合に出席したことを機に、渋沢栄一の従兄、渋沢成一郎(喜作)頭取の下で彰義隊の副頭取として活躍します。
総勢2,000人がいた彰義隊でしたが、内部対立により渋沢成一郎(脱退)が脱退、八郎が実権を握って新政府軍と向かい合ったが、1868年5月15日に大村益次郎が指揮する新政府軍の一斉射撃に合い、敗走してしまいます。
その後、逮捕されて獄中で死亡してしまいます。
【大河ドラマ】青天を衝け渋沢喜作(しぶさわきさく)企画展 渋沢栄一を育んだ郷土の人々
概要 | 血洗島村(現在の深谷市)で23歳まで過ごした渋沢栄一は、郷土でどのように育まれたのでしょうか。 本展示では栄一の成長に影響を与えた郷土の人々(父 市郎右衛門、伯父 文左衛門、渋沢喜作)を、関連資料をとおして紹介いたします。 |
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カテゴリ | 催し・イベント |
日時 | 企画展のご紹介令和2年11月24日(火曜日)から令和3年2月7日(日曜日) 午前9時から午後5時 |
場所 | 渋沢栄一記念館地図情報大きな地図で見る(GoogleMapページへ) |
費用 | 無料 |
申込 | 不要 |
関連ファイル | 企画展「渋沢栄一を育んだ郷土の人々2」(PDF:234.2KB) |
問い合わせ先 | 渋沢栄一記念館 〒366-0002 埼玉県深谷市下手計1204 電話:048-587-1100 |
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