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2021大河ドラマ『青天を衝け』では小池徹平さんさんが演じております。
風間俊介さんは「西郷どん」で。
2021大河ドラマ『青天を衝け』ではたびたび名前が出てきており、これからどうなっていくのか気になっている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
今後の2021大河ドラマ『青天を衝け』を楽しむうえでも知っておくと面白くなること間違いなしです。
是非、最後までご覧ください。
橋本左内(はしもとさない)はどんな人物で何をした人?
川路聖謨からは?
「扨又た橋本左内へは初めて対面仕候が、未だ壮年に見え候に、議論の正確、驚入り候事共にて、餘に辨晰、刀もて切られぬ迄の事に候ひて、かばかり押つめられ、迷惑に侍りし事は覚え候はず」
「備中殿(堀田)笑い給ひて、左衛門(川路)が申せしは、左内は二十四五ばかり、六七にはなる間敷き若者なるに、辨論、才知、天晴なる事共にて殆ど辟易せる由、越公にはよき家来を持たれたりと、殊の外賞嘆しおれり」
武田耕雲斎からは?
「東湖の後又東湖あり」
西郷吉之助(西郷隆盛)からは?
「先輩としては藤田東湖に服し、同輩としては橋本左内を推す」
名だたる大物から絶賛されている天才藩士となった人物です。
越前福井藩医・橋本長綱の長男として生まれます。
幼いころから学問に秀で、1848年、15歳にして自分への啓発のため
「啓発録」
執筆するほどでした。
1849年、蘭学や医学をまなぶため、大阪に出て、緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾に入門。
緒方洪庵(おがたこうあん)と言えばTBSのドラマ【仁】で武田鉄矢さんが演じて感動したのを覚えております。
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緒方洪庵も左内の天才ぶりを認め「池中の蛟竜(みずちりゅう)」
※「池中の蛟竜(みずちりゅう)」は三國志の呉の武将周瑜の周瑜伝からの引用です。
と呼んで、評価したと伝えられています。
1852年、父が病に伏したため帰藩し、父の後を継いで藩医となりました。
1854年、さらに学問を深めるため、江戸に出て杉田玄白の孫である杉田成卿らに蘭方医学を学ぶとともに、英語、ドイツ語も独学で習得。
また、この時期、政治に目覚め、医学から離れる決意を固めます。
1855年、藩医職を解かれ御所院番に登用されます。
1857年藩校、明道館の学監心得に任じられると、教育改革に取り組み、館内に洋書習学所を設けるなど、西洋文化の導入に手腕を発揮します。
同年江戸詰めを命じられ、藩主・松平慶永(春獄)の侍読兼御内用係となり、藩政改革に取り組むとともに、国政にもかかわるようになります。
13代将軍徳川家定の後継問題では慶永(春獄)の右腕として、西郷隆盛らとともに一橋慶喜を推すことに奔走し、西洋の先進技術の労働や積極的な対外貿易、イギリスなどの西洋列強に対抗するためにロシアとの同盟を提唱するなど、
「富国強兵」「開国通商」
を強く訴え、幕政の改革を目指しました。
しかし、南紀派として対立していた井伊直弼が大老に就任したことから、1858年、安政の大獄によってとらえられ、謹慎となりました。
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その後奉行所や評定所で執拗な取り調べを受けても、堂々と論を通し考え思いを貫き通しました。
翌年伝馬町牢屋敷で斬首刑に処されてしまいます。
一説には、取り調べでの発言が井伊直弼の反感を招き、当初の処罰案の遠島から死罪になったと言われています。
死の直前に詠んだのは、
「二十六年夢の如く過ぐ」
から始まる句でした。
享年26歳で亡くなってしまいました。
もし、このとき死罪になっていなければ、その才覚と知識で日本の中枢を担っていたことでしょう。
橋本左内(はしもとさない)今も受け継がれる左内の啓発本
左内が15歳の時、自己の規範として自分にあてて書いた、
『啓発録』
学問に秀で、幼いころから神童と言われた左内でしたが、自身は自分の弱さや愚かさに悩み苦しみ、そんな自分を啓発するために、この書を書き上げたといわれています。
『稚心を去る』
『気を振るう』
『志を立てる』
『学に努める』
『交友を択ぶ』
も五つの項目からなっており、現在においても通じる教えとして現代語訳が出版され、多くの学生やビジネスマンに支持されています。
福井県福井市の生家跡につくられた左内公園には、左内の立像と共に、この五訓が刻まれていた、
『啓発録』
の碑が立てられ、多くの人が訪れています。
住所 | 福井県福井市左内町7 |
---|---|
TEL | 0776-20-5346(福井市おもてなし観光推進課) |
営業時間 | 入園自由 |
定休日 | 入園自由 |
アクセス | 公共交通:福井鉄道商工会議所前電停→徒歩5分 車:北陸道福井ICから国道158号経由5.2km15分 |
駐車場 | なし |
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橋本左内(はしもとさない)の人間性に一目置き盟友となった西郷隆盛
将軍後継ぎ問題に際し、ともに一橋派として活動していた西郷隆盛は、博識な左内に一目を置き、
「私は到底かなわない」
と語り、その才能をほめ、同志として、友人として、交流を深めていました。
それだけに、左内が安政の大獄により捕らえられ、処刑されたことを知ったときの悲しみは深く、大久保利通らに送った手紙の中に、その悲しみを綴りました。
1877年、西郷は郷里の私学校生に促されて挙兵(西南戦争)し、敗れて故郷の鹿児島で自害するが、携帯していた手文庫の中には、将軍嗣問題で奔走していたころ、左内から西郷にあてた手紙が収められていました。
それほど橋本左内は西郷隆盛に大きく影響を、友情を、与えていました。
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