- 濃姫(帰蝶)のうひめ(きちょう)
1535年~
美濃の戦国大名・斎藤道三の娘に生まれます。
信長の正室。
実名は不明で、美濃国から嫁いできたことにちなんで濃姫と称されます。
別名は帰蝶で、文献よってはこの名で語られることも多いです。
明智光秀とは、いとこ同士だという説もあります。
資料がに乏しく実体がはっきりしない女性です。
【濃姫(帰蝶)】ほとんど記録に残っていない結婚生活
濃姫×帰蝶
1548年、斎藤道三(さいとうどうさん)は尾張の織田信秀(おだのぶひで)と和議を結ぶため、信秀の嫡子・信長に愛娘の濃姫を輿入れさせました。
実質的には、敗戦回避の条約、政略結婚でした。
翌1549年に婚儀が執り行われるが、その時濃姫は14歳、信長は15歳。
濃姫といって思い出されるのは、嫁ぐときに斎藤道三から短刀を渡され、
「信長が本物のうつけなら殺せ」
といわれたのに対し、
「父上を殺すことになるかもしれない」
と応じたエピソードでしょう。
結婚後の生活や詳細な人物像がほとんど語り継がれていない彼女ですが、これによって知的で勝気なイメージが定着しました。
「うつけ者」と噂されていた信長の武将としての才覚を見抜いた人物こそ斎藤道三なのです。
愛娘と信長の政略結婚を企てた斎藤道三は「うつけ者」の姿を事前に見ておこうと、信長の姿を見張っていました。
普段の信長は、噂通りの奇抜ないでたちで、武将としての品格は微塵もなかった・・・
ひっつめ髪、はだけた胸、腰にはひょうたんを8つもぶら下げている。
しかし、
会見の席に現れた正装の信長を見た斎藤道三はその気高さに脱帽!!!
普段のうつけた姿は”周囲を油断させる為”だと読み取りました。
結婚式から1年後の事、信長が濃姫に対して奇行を見せるようになりました。
信長は毎晩、濃姫が眠るのを確認してから、こっそり外へ出かけていく。
朝方まで帰ってこない。
これが2か月も続いていました。
怪しんだ濃姫は信長を問いただします。
「毎晩どこへ行くのですか?他に好きな人でもできましたか?」
信長が答える。
「いや違うが、話せない。少し秘密があるのだ。夫婦でも話せないことはある」
すると濃姫は、
「私が愚かでした。実家に帰らせていただきます」
と言い放ち、これに困った信長は真相を妻に告白しました。
『武将感状記』によれば、毎晩信長が外に出て行っていたのは、狼煙を確認するためだったといいます。
信長は当時、斎藤家に不満を持つ家老2人と密約を交わしており、彼らが美濃でクーデターを起こせば、すかさず信長が攻め込むという手はずだったそう。
狼煙は斎藤道三暗殺の報告であったのです。
翌朝すぐに、濃姫は父・道三にこの話を知らせました。
すると道三は怒り、家老2人を謀反の罪で斬り捨てます。
愛娘・濃姫の密告は成功しました。
信長が斎藤家の戦力を減らすための画策ともいわれているが、このように他家に嫁いだ娘が実家にその危機を知らせるということは、戦国時代には度々あったといいます。
道三が濃姫にスパイ活動を命じていたわけではなく、彼女のありふれた親子愛から発せられたものだと思います。
結婚生活はこのようなスタートでしたが、信長と濃姫の夫婦関係は、信長が本能寺の変で亡くなるその時まで、生涯良好だであったといわれています。
【濃姫(帰蝶)】濃姫の後半生にまつわる異説とは
濃姫には、斎藤義龍(さいとうよしたつ)の死後、後継者となった斎藤龍興(さいとうたつおき)の代に美濃に帰されたという説もあります。
信長に好意的だった斎藤道三に比べ、斎藤龍興は尾張侵攻の意志を明らかにしており、同盟関係が解消されるにあたって、濃姫の存在が織田家にとって不要になったというのがその根拠です。
しかし、信長が斎藤氏を滅ぼした1567年以降も、濃姫が信長の正室の座にあった証となる記録が残されています。
当時の公家・山科言継(やましなときつぐ)の『時継卿記』に、斎藤龍興の後家の所有する壺を取り上げようとした信長に「信長本妻」が抗議した、という記載がありました。
斎藤家親族とされるこの本妻こそ、濃姫なのでしょう。
京都の大徳寺総見院にあたる織田家墓所の五重塔のひとつが、濃姫の墓所であるとの説もあります。
「養華院殿要津妙玄大姉」の法名を持つこの女性は1612年に78歳で死去しています。
これが濃姫であるなら、彼女は本能寺の変後、30年も生きていたことになります。