戦国を沸かせていたのは、信長や秀吉、家康だけではない!
1.関東の強豪を作り上げた開祖北条早雲
北条家の祖。デビューは56歳という遅咲きだが興国寺城の城主を足掛かりに、隣国・伊豆の韮山を一夜にして奪うという離れ業で、世を驚かせた。
続いて狙うは小田原城。
入念な下準備と一発必勝が早雲のやり方です。
まず敵の領主・大森藤頼とじっくり近所付き合いをして、親しくなる。今日の珍品や手紙を送って油断させたところで、「伊豆で鹿狩りをしたら獲物が小田原城の裏山に逃げてしまったので、りょうないにはいってもいいかね」と連絡
大森が快諾すると早雲は鹿追に扮した兵を出して小田原城を一気に攻略した。
秀吉や家康が生まれるずっと前に生き、戦い、北条家の礎を築いた男は、剣技ではなく知略という武器で戦国大名でした。
2.将軍だけど実は免許皆伝!足利義輝
足利幕府13代将軍。信長よりも2年早く生まれ、実権のない将軍となる。今日に戻るまでの隠遁生活のなかで義輝が目指したものが、史上初の剣豪将軍だ。
塚原卜伝から鹿島新当流を学ぶだけでなく、上泉信綱より新陰流の免許皆伝を得るなど、プロ顔負けに成長します。
その腕前が発揮されたのは宿敵松永久秀と三好三人衆の兵に襲撃されたときのことです。
御所にいた義輝は逃げることはなく、「さやから抜いてる暇はない」と、愛する名刀の数々を惜しげもなくたために押し立て、自ら応戦。飛んでくる矢を切り落としては倒し、切れ味が落ちると新しい刀に変えて、また切り結ぶ。
万策尽きた敵勢に、畳で抑え込まれる最後の瞬間までそれは続いた。
3.傾奇者でも戦闘力は一級品!前田慶次
血はつながっていないが、前田利家の甥としてこの世に生を受ける。
剣豪だが、俳句や和歌をたしなむ風流な一面があり、さらには秀吉から、《傾奇御免》を受けたほどの奇抜・・・ではなく、最先端のセンスの持ち主だった。
※現代で言えばどっかの大企業のカリスマ社長というよりは、自由に自らの生き方を貫くフリーランスのような生き方の方だったんでしょうね。
前田家を出奔後、直江兼続と知り合って上杉に参加。関ケ原の戦いで西軍だった上杉は、撤退するなかで、最上軍の追撃を受けてしまう。
慶次と兼続はしんがりを任され、わずか一里半(約6km)退くのに28回も戦うという激戦を展開した。
兼続は自害を決意するが、慶次は「少し待て!俺に任せろ」と名馬松風を走らせ、山間柄の槍を振りながら、暴れに暴れた。
そして、見事期間を成功させこの時、彼の豪華絢爛な装束にはキズ一つなかったという。
4.傭兵軍団を束ねる鉄砲の名手!雑賀孫市
戦国最強の鉄砲軍団、雑賀鉄砲衆を束ねる頭領。とはいえ、孫市の名は史書には登場しない。「紀州雑賀庄に住む鈴木さんの誰か」らしい。戦国に咲く幻の鉄砲職人なのである。
射撃の精妙さで日本随一の雑賀衆は、普段は大名に雇われて、金額に見合う仕事をこなす傭兵軍団です。
しかし一向宗門徒であるため、宗教嫌いの信長によって、石山本願寺が攻撃されたときには、採算度外視で戦った。
知略にたけた彼は、当時はまだ貴重だった鉄砲を大量に使用。2列に並べて前列の射撃中に後列が球込めをするという戦法をあみだす。
ここで手痛い敗北を喫した信長は、のちの長篠の戦いで、この戦法をパクったとか?孫市は、鉄砲の腕前はもちろん、頭も切れる男でした。
5.人気NO.1遅すぎた天才真田幸村(信繁)
関ケ原の戦い後は、引きこもり生活を送っていたが、大坂冬の陣が勃発するやいなや、戦場に舞い戻る。初めから籠城作戦をとる秀頼の側近に業を煮やして大阪城を飛び出し、真田丸という城を築いて、徳川に戦いを挑んだ。
まずは、前田軍を鉄砲でさ追い出す。動いた前田軍を見た藤堂、井伊軍も功名を焦り、我先に真田丸へ殺到。敵勢を狭い場所に追い詰めた幸村は、作戦通りに一斉射撃を命じて、敵の主力大打撃を与えた。
戦国時代最後の合戦で、一矢を報いた豪傑でありました。
※彼の大河ドラマをきっかけで戦国時代の面白さを知りました。
6.柳生新陰流の使い手 柳生宗矩
剣豪史上もっとも、出世した男です。
徳川家康に仕え、秀忠・家光の兵法指南役を経て、最後には幕府惣目付となって、幕政に深くかかわった。大坂夏の陣に従軍した際、木村主計らの敵の敵の精鋭が陣内に奇襲し、本陣が危機におちいった。その時宗矩は刀を抜くと7人を瞬く間に切って捨て、見事に秀忠を守り抜く。
だが宗矩が人を切ったのは、この時が愛書で最後だったという。宗矩の目指す柳生新陰流は、戦いではなく、精神修行に重きをおいたもの。
剣豪宗矩は刀を持たないことで、乱世を鎮めました。