もくじ
豊臣秀吉織田信長のもとで出世街道をひた走る
日本の歴史を代表するサクセスストーリーの主人公・秀吉は、1535年、尾張国愛知郡中村の百姓・木下弥右衛門の子として生まれた。
日吉丸の幼名で知られるが、
これは後世の創作。
木下藤吉郎と名乗って今川氏の陪臣となった後、1554年頃から織田信長(おだのぶなが)に小者として仕官しました。
雪の日の朝に信長の草履を温め、足軽に取り立てられたエピソードが有名だが、これも真実かどうかは定かではない。
出自の怪しい秀吉は、天下人まで登りつめる過程で、自らの歴史に過剰な装飾を施した。
このため、特に初期の逸話に関してはその多くが虚構と考えて間違いないとされる。
ただし、信長のもとで多くの功を挙げ、立身していったのは事実である。
清洲城の普請奉行、台所奉行を引き受けて成果を挙げたという記録も残っている。
そうして1560年頃、秀吉を名乗るようになります。
秀吉初期の活躍で有名なのは、1573年の金ヶ崎(かねがさき)の戦いの撤退戦だろう。
朝倉義景(あさくらよしかげ)と交戦中、浅井長政(あさいながまさ)の裏切りで後背を突かれた織田軍は窮地に陥る。
このときしんがりを務めた秀吉は、明智光秀らと共に見事に重責をまっとうした。
同年、秀吉は羽柴姓に改めたといわれる。
1575年には筑前守に任ぜられ、羽柴筑前と呼称されるようになった。
豊臣秀吉光秀と勝家を倒して信長の後継者に
冷徹で、古くからの家臣に対しても容赦のなかった信長だが、秀吉とは不思議と相性が良かった。
「猿」と呼ばれ、何かと目をかけられた秀吉は、信長のもとで才能をいかんなく発揮し、着実に出世を重ねていった。
ところが1582年、本能寺の変が起きて、信長が覇道の途中で命を落としてしまう。
1578年から、信長の命を受けて中国地方の攻略に従事していた秀吉は、このとき、備中高松城に水攻めを行なっている最中だった。
そこに「明智光秀謀反」の報が飛び込んできたため、秀吉はただちに高松城城主・清水宗治の切腹を条件に毛利輝元と講和、急いで京に軍を返した。
二百キロの距離を六日で走破したといわれる、この「中国大返し」に、光秀も体勢を整える余裕がなかった。
本能寺の変のわずか十日後に着陣し、翌日には山崎の戦いで光秀を打ち破ります。
弔い合戦に勝利した秀吉の存在感は、家中でひと際目立つところとなった。
そんな中、清洲城で信長後継と遺領の分割を決める会議が開かれた。
この席上、筆頭家老の柴田勝家は信長の三男・織田信孝を推したが、秀吉は信長の嫡男・織田信忠の長男で、まだ三歳の三法師を推した。
会議中、秀吉は三法師を抱いていたといわれるが、実は事前におもちゃを与えて三法師を手なずけてあったというから、用意周到である。
まさに武辺一辺倒の勝家とは役者が違った。
会議の結果、三法師が信長の後継者となり、信孝が後見人ということになった。
遺領分割でも秀吉が勝家を上回ったのだ。
こうなると決裂は時間の問題で、ついに翌1583年、両者の間で賤ヶ岳の戦いが起きる。
この戦は、勝家の与力・前田利家の裏切りなどもあって秀吉方の勝利に終わり、実上、秀吉が信長の後継者となった。
豊臣秀吉家康との直接対決と全国統一の完成
秀吉の天下統一の最大の障害は、徳川家康(とくがわいえやす)であった。
両者は1584年、小牧長久手で直接対決の日を迎える。
この戦は、秀吉への不満を募らせていた信長の次男・信雄に家康が加担して起きたものだが、その本質は、新たな天下争奪戦だった。
東海一の弓取りと称され、野戦レベルでは、戦上手として知られる家康の勝利が続いた。
兵力では勝りながらも局地戦での敗北が続いたことで、秀吉は作戦変更を余儀なくされる。
彼が狙ったのは信雄だった。
秀吉は信雄を領内に押し込め、経済的に追いつめて単独講和に持ち込んだ。
すると、
秀吉と戦う大義名分がなくなった家康は、三河に引き上げざるを得なくなった。
戦後、家康を臣従させた秀吉は、1585年に紀州と四国を、1586年には九州を討伐。
そして1590年の小田原の役で関東を平定すると、奥州仕置も行なって、ついに信長も成し得なかった全国統一を完成させた。
豊臣秀吉
豊臣秀吉天下人の名を自ら汚す晩年の暴挙
1592年あたりから、秀吉には、お世辞にも天下人とは思えない異常行動が目立ち始める。
今なお批判されるように、二度にわたる朝鮮出兵も問題だが、関白秀次事件の取り扱いも常軌を逸している。
1593年に側室の淀殿に嫡男・秀頼が生まれると、養子としていた実姉の息子(甥)・秀次との関係が悪化。
すると秀吉は1595年、乱行を理由に秀次を廃嫡して高野山に追放、のちに謀反の疑いで切腹を命じた。
これに伴い、三条河原において、秀次の妻子、側室、侍女らも含めた三十九名が処刑された。
五時間かけて全員の処刑が済むと、遺体の首や死骸は、秀次の首もろとも、河原に掘った大穴に投げ込まれたという。
処刑の行なわれた場所には塚ができて「豊臣秀次悪逆塚」の碑が建てられた。
しかし人々はこの塚を「畜生塚」と呼んだという。
畜生とは無論、秀次ではなく、情け容赦ない秀吉を指したものです。
長く子に恵まれなかった秀吉だけに、実子ができて養子が邪魔に思われるようになった気持ちは理解できなくもないが、どうにもやり過ぎであった。
だが、秀吉は死後にその代償を払うことになる。
享年28の秀次は、秀吉に何かあればその後継ぎとなれる一族唯一の成人男子であった。
また、このとき処刑された秀次の子らが生き長らえたならば、同じ豊臣一族として二代・秀頼を補佐していたかもしれないのだ。
我が子かわいさとはいえ、秀吉の行為の代償は実に高くついたものである。
※ちなみに茶人千利休(せんのりきゅう)にも自害を命じておりこのころは無茶苦茶だったんですね。
豊臣秀吉成り上がりの終わり
1598年8月18日、百姓の身から天下人にまで登りつめた豊臣秀吉が、その波乱に満ちた生涯を終えた。
死の一カ月前、秀吉は居城・伏見城に諸大名を集めて遺言を残し、特に徳川家康に対しては、
「秀頼のことをくれぐれも頼む」
と言った。
辞世の句は
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」
秀吉の死後、政権内での勢力争いが顕在化し、1600年の関ヶ原の戦いへと時代は突き進んでいく。
秀頼に秀吉ほどの器量はなく、1614年~1615年の大坂の役で豊臣家は滅亡する。
秀頼の子のうち、男子の国松は殺され、女子の天秀尼は仏門に入って子は残さなかったので、まさしく一族滅亡であった。
後継者に恵まれなかった秀吉だが、人一倍、好色だった。
宣教師ルイス・フロイスは『日本史』の中で、
「秀吉は三百名の側室を抱えていた」
と記録している。また、当時は一般的な風習だった衆道(男色)にも興味がなく、訝しんだ家臣が、家中で一番の美少年と対面させたときには、秀吉は手を出すどころか
「お前に妹か姉はいるか?」
と尋ねたという。
女好きの面目躍如だが、こうまでして、ほとんど子に恵まれなかったというのも皮肉な話である。
豊国神社 豊臣秀吉ゆかりの地
「豊国神社」は、豊臣秀吉をまつる神社で、日本各地の秀吉に縁のある地に鎮座しています。
博多の「豊国神社」は、戦火で焼け野原となった博多を復興に導いた太閤の遺徳を偲び、1887年に創建されました。秀吉に「筑紫ノ坊主」と呼ばれ寵愛された博多の豪商、神屋宗湛の屋敷跡に建てられています。
豊国神社 豊臣秀吉ゆかりの地 | 博多の魅力
名称 | 豊国神社 |
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住所 | 福岡市博多区奈良屋町1-17 |
アクセス | 地下鉄 中州川端駅より徒歩7分 |
豊国神社 豊臣秀吉ゆかりの地 | 博多の魅力
豊臣 秀吉、または羽柴 秀吉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、武家関白、太閤。三英傑の一人。
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