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徳川慶喜(とくがわよしのぶ)【大河ドラマ】草薙剛演じる慶喜は何をした?渋沢栄一との関係!

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【漫画】徳川慶喜の生涯を簡単解説~名君か暗君か~【日本史マンガ動画】

徳川慶喜や幕府側が主人公になることは少なく、新政府側の人物だけが英雄として描かれることが多いですね。

しかし、徳川幕府の終焉においてイメージとは違う事実が最新の研究では分かっております。

2021大河ドラマでも主人公渋沢栄一に大きくかかわることになる慶喜。

今回はそんな大きく日本を変えた幕末の徳川について解説します。

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2021年【大河ドラマ】徳川慶喜どんな人物?

1837年、9代水戸藩主で徳川斉昭の7男として江戸藩邸で生まれました。

生後7か月に水戸に送られ、厳しい教育を受けて成長します。

1847年、一橋家を継いで名を慶喜と改め、1855年には一条忠香の養女・延君(美賀君)と結婚しました。

同じ時期に13代将軍家定のの後継者問題がおき徳川慶福を推す大老井伊直弼と慶喜を推す斉昭が対立します。

慶福が将軍を継ぐと、安政の大獄により登城停止。

隠居を命じられます。

1860年、斉昭の死去に伴って謹慎を解かれ、2年後に一橋家を再相続、将軍後見職を務めることになります。

その後、公武合体を目指して朝廷と幕府の連携の為に京都と江戸の間を奔走します。

禁裏御守衛総督などを任じられ、186年の金門の変では御所守備軍を指揮し、長州藩を撃退しました。

水戸藩天狗党の征伐を経て、第二次長州征伐の勅許(ちょっきょ)を得るが、同年、将軍・家茂の死去に伴い、15代将軍の座に就きました。

将軍就任後は、フランス公使レオン・ロッシュの意見を参考に軍備を拡充。

老中職を合議制ではなく職務分担制にするなど幕府の改革を進めようとするが、1867年、

徳川慶喜
徳川慶喜

土佐藩の建言を受け入れる形で大政奉還を決意。

大政奉還後も新政権で徳川家が主導権を握るつもりだったが、朝廷から王政復古の大号令が発布され、領地が没収されることが決まると、薩摩征討を掲げて新政府軍と戦闘を開始することになった。(鳥羽・伏見の戦い)

しかし、戦いは劣勢を極め、慶喜は大阪城から海路、江戸へ。

反撃の道を模索するが、朝廷から慶喜追討令が出たことを知ると、後を勝海舟に託して、自ら上野寛永寺大慈院に入り謹慎していた。

その後、一度は水戸に戻るが、駿府で謹慎生活を続け、謹慎が解かれた後も30年近くを同地にて過ごしました。

余生は政治から距離を置き、カメラや馬術など趣味を楽しんだと言われています。

1898年には皇居に初参内。

明治天皇は

「罪滅ぼしが出来た」

と語ったといい、その4年後に貴族院議員となります。

1913年11月22日、病没。

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徳川 慶喜
徳川 慶喜

この世をば しばしの夢と 聞きたれど
おもへば長き 月日なりけり
(※人生は短い夢のようなものだと聞いていたが、
振り返ってみれば長い月日であった。)

2021年【大河ドラマ】渋沢栄一を高く評価した慶喜と慶喜を尊敬し続けた渋沢

慶喜の右腕的存在だった平岡円四郎に見初められて、一橋家に仕官することになった渋沢栄一

栄一の能力を高く評価していた慶喜は、弟・昭武がパリ万国博覧会に派遣され、その後、留学する際に、栄一を庶務・会計役として同行させます。

パリから帰国した栄一は、慶喜のいる駿府藩の財政建て直しの為に商法会所を立ち上げて、旧幕臣たちと各方面に働きかけて、慶喜と明治天皇との対面に尽力しました。

また栄一は、慶喜の口述記録の会「昔夢会」を実施。

慶喜の存命中は内容を世間に公表しないことを条件に、福地源一郎と共に

「徳川慶喜公伝」

を編纂し、彼の維新前後の行動を後の世に知らしめたのです。

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2021年【大河ドラマ】木戸孝允に英仏の外交官…多くの人を魅了した才人

幼いころから

「名将の器」

だと評判だった慶喜。

長州の木戸孝允

木戸孝允
木戸孝允

「慶喜の胆略はけっして侮ることはできない。徳川家康の再来を見るようである」

と評し警戒したといいます。

フランス公使として幕府を支援したレオン・ロッシュは

「真に君主の風格を備えている」

といい、イギリス領事官通訳のアーネスト・サトウも

「これまで見た日本人の中で最も貴族的な容貌を備えた一人」

と絶賛した。

時代の先を読む力を持ち、大政奉還によって幕府の力を維持しようとした慶喜は新政権樹立の後には、二院制議会を開き、自身が上院議長を務めることなども想定していたと伝えられています。

そんな慶喜には趣味人としての一面もる。

静岡時代には油絵を描き、写真も趣味にしていた。

また、少年時代からの武士のたしなみとして修業した弓は晩年まで嗜んだ。

旧幕臣などが訪ねても、栄一らごく少数の人以外とはほとんど会わなかったといいます。

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2021年【大河ドラマ】徳川慶喜大政奉還で徳川政権が消滅したというのはウソ?

大政奉還の通説

幼少期から文武両道で聡明といわれていた慶喜は御三家の一橋家から将軍になりました。

幕府の立て直しを期待されて第15代将軍に就いた徳川慶喜でしたが、態勢を整えることは困難を極めていました。

物価高騰によって庶民感情は悪化し、全国で一揆や打ちこわしが頻発し、第二次長州征伐は失敗して武力討幕を目指す薩長に対抗できなくなり、経済的・政治的に幕府は追い詰められることになります。

結局、慶喜は土佐藩の提案を受け入れ、政権を朝廷に返還することを決断。

徳川慶喜
徳川慶喜

大政奉還するしかないのか・・・

この「大政奉還」によって、江戸幕府は薩長に敗北する形で幕を閉じたのである。

しかしこの通説は事実とは異なります。

大政奉還の事実

大政奉還の目的は朝廷への降伏ではなく、政権を自ら返上することで薩長の武力討幕を未然に防ぐことにあり、慶喜は

政権運営力がない朝廷が幕府を再び頼ると見越し、返上後も徳川家が政実権を掌握できる

徳川慶喜
徳川慶喜

と考えていました。

そして実際、慶喜は公武合体派の有力大名らに支持され、新政権の指導的地位に就くことさえ、望まれていたのです。

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最後の将軍・徳川慶喜が生き延びた理由!臆病者のレッテルは大嘘だった!?

2021年【大河ドラマ】徳川慶喜攻めの手段だった大政奉還

一般的に、大政奉還は慶喜の悪あがきのように思われ、政治のノウハウのない朝廷には政権運営込ができないと踏んで大政奉還を決断したものの、西郷隆盛大久保利通らに先を読まれて慶喜の目論見は外れ・・・

そんなイメージを抱く人もいるだろう。

確かに、結果だけをみれば慶喜の目論見は大きく外れるが、大政奉還直後の状況は複雑で、むしろ慶喜有利に動いてました。

有力大名は慶喜の決断を高く評価して新政権の中枢に戻ることを歓迎し、西郷らは政策運営の蚊帳の外に置かれて困惑していたのです。

慶応3(1867)年2月9日の夕方、明治天皇臨席の上、のちの新政府首脳や公家、雄藩の実力者が出席する「小御所会議」が開かれました。

この会議において、徳川家の所領と慶喜の官位の没収が決定したが、これに不満を抱いたのが、前土佐藩主の山内容堂です。

容堂は大政奉還の功労者である慶喜を蔑ろにすることを不服とし、慶喜の会議出席を求めました。

このときは大久保利通西郷隆盛岩倉具視によって却下されるものの、この問題を前越前藩主・松平春嶽に委ねることを求めて建白書を提出し、さらに、小御所会議のメンバーで皇族の仁和寺宮が、西郷ら身分の低い者をけん制する意見書を提出しました。

これには岩倉も弱気になり、西郷らに姿協案を提案して、慶喜への要求を後退させています。

一方で、慶喜は強気の姿勢を崩しませんでした。

王政復古の翌日には、自らの呼称を

徳川慶喜
徳川慶喜

「上様」とする

と宣言。

江戸察府の機構を生かし、全国支配を継続する意向をほのめかした。

16日には、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・イタリア・プロイセンの6カ国公使と大坂城で会談し、幕府による外交様の保持を承認させ、19日には朝廷に対し、王政復古の大号令の撤回まで求めている。

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さすがに朝廷は王政復古の大号令を取り消しはしなかったものの、なんと大政委任の継続は承認し、

23、24日には再び首層による会議が召集され、れによって小御所会議の決定は大きく覆ることになり、慶喜に対する処分は緩和され、土地の提供は有力大名らの議論を経て決定することになったのです。

このとき、西郷や大久保ら藩士クラスは締め出され、公武合体を唱える大名や皇族が中心となっていた。

では、この状況に討幕派はどう反応したのだろうか?

西郷隆盛
西郷隆盛

納得できないでごわす

当然ながら、彼らはこの状況に強く不満を抱きました。

強硬派は関東で挙兵したり、江戸市中で犯罪行為を働いたりして、幕府を挑発し、耐えかねた佐幕派が江戸の薩摩藩邸に火をかけたことで、慶喜も京への出兵を決断しました。


その後の歴史は、

旧幕軍は鳥羽伏見の戦いで敗北し、新政府軍が主導権を獲得。

慶応4(1868)年4月には江戸城が明け渡されました。

そして、その後に続いた戊辰戦争をもって、幕府と新政府軍の争いは終わりを迎えたのである。

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2021年【大河ドラマ】徳川慶喜江戸城は無傷で開城された?

通説

幕府を追い詰めた新政府軍は、江戸城への総攻撃を計画しました。

計画が実現すれば、江戸の街は戦場となり、幕府軍の総大将である徳川慶喜は、切腹に追い込まれていたに違いありません。

だが、関係者の尽力によって、江戸城は無傷のままに開城。

幕臣はもちろん、周辺の江戸庶民も戦いに巻き込まれずに済んだ。

衝突必至の両軍が血を流さずに妥協策を見出したことから、この出来事は

「江戸無血開城」

と呼ばれて評価されている。

ですが事実とは少し異なります。

事実最新研究で真相

新政府軍と幕府軍の全面衝突は免れたものの、江戸城は討幕派の攻撃によって被害を受けていました。

城下では相良総三に指揮された浪士が商家を相次いで焼き討ちにし、江戸城内では薩摩藩士のゲリラ攻撃によって二の丸が全焼していたのです。

2021年【大河ドラマ】徳川慶喜炎上していた江戸城

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幕末モノの大河ドラマにおいて、江戸無血開城は山場の一つです。

徳川家康が大坂夏の陣で大坂城を全焼させたように、敗者はその本拠地を消されるのが歴史の常。


しかし幕末の江戸城は違いました。

徳川慶喜の意を受けた幕臣たちが新政府軍の西郷隆盛と交渉し、江戸城を明け渡
すことを条件に、江戸の街は火の海にならずに済んだのだ――。

こんな風に描かれることが多い。

しかし実際には、

「江戸無血開城」

といわれているものの、江戸城と城下町は、決して無傷では済みませんでした。

江戸の町は薩摩藩によるゲリラ攻撃に悩まされていたのです。

徳川慶喜
徳川慶喜

どうしたらいいものか・・・

薩摩藩の西郷隆盛は、大政奉還直後の慶応3(1867)年1月ごろより、配下に命じて江戸市中で強盗行為を働かせていました。

目的は、幕府側の攻撃を誘い、武力討幕の正当性を得ることです。

大政奉還によって慶喜が政権を朝廷に返上したことで、薩長は討幕の大義名分を失ったが、それでも武力討幕を諦めきれなかった薩摩藩が講じた策が、江戸市中への攻撃でした。


この江戸略奪を指揮した一人が、赤報隊の相楽総三です。

相楽は江戸薩摩藩邸に無法者を雇い入れると、江戸での民間人襲撃を指揮。

幕府関係者以外は襲わないと決めていたようだが、実際には無関係の商家も略奪や放火を受けたとされています。

実際、日本橋付近では略奪行為が多発し、11月1日には両替商の播磨屋が1万5000両を強奪されていましたが、幕府は薩摩藩が裏で手引きしていると気づいていたが、効果的な取り締まりができず、江戸の治安は悪化の一途をたどっていました。

そんななか、ついに決定的な事件が起きます。

2月3日、江戸城の二の丸御殿付近から早朝に火の手が起こり、消火のかいなく二の丸全体が全焼したのです。


二の丸御殿といえば、徳川家定に嫁いだ島津斉彬の娘・天璋 院篤姫の住居でもあります。

事件前には薩摩藩士による篤姫奪還の噂が流れたことから、失火は薩摩藩の攻撃として流布し、同日には庄内藩屯所が銃撃されたこともあり、幕府首脳部は庄内藩に薩摩藩邸を包囲させてます。

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なお、犯行は西郷の命を受けた伊部印尚平一派らによるというのが通説だが、現在では異論もあるようです。


薩摩藩が江戸で略奪行為を働いたのは、事件のおよそ2カ月前、朝廷から薩長に討幕の密勅が授けられたからで、これを実現するために西郷は幕府を挑発したわけですが、大政奉還によって密勅が有名無実化すると、西郷は破壊工作の中止を命じています。

それでも、過激派は略奪行為をやめず、江戸の治安は改善されませんでした。

また、庄内藩による薩摩藩邸焼き討ちの一報を受けても、西郷は喜ぶどころか

西郷隆盛
西郷隆盛

「残念千万」

と藩士・蓑田伝兵衛への書簡で嘆いています。

これらを根拠に、江戸における暴虐は相楽らの独断専行であり、西郷のコントロールを離れていたという説が唱えられているのです。


確かなことは、江戸の街は通説のように無傷では済まなかったということです。

総攻撃がなかったといっても、その裏では江戸庶民の血は流れていたのです。

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2021年【大河ドラマ】徳川慶喜江戸無血開城が新政府への降伏宣言

通説

討幕派の攻撃を回避し、江戸の街が火の海にならなかった理由。

それは、幕府が江戸城明け渡しを決めたからです。

抗戦を訴える幕臣はいたものの、新政府軍への敵対は、天皇への反逆、つまりは朝敵になることを意味します。

天皇に弓引くことを嫌った慶喜は、重臣との協議の末、江戸城の明け渡しを決断。

徳川慶喜
徳川慶喜

江戸城を明け渡し降伏する・・・

江戸の地から離れることを決め、新政府軍に降伏の意を示したのです。

ですが、これも事実とは少し異なります。

真相

幕府側からすれば、江戸城の明け渡しは一時的なもので、いずれは新政府側から返却されるという考えのもと、降伏を決断したのでした。

新政府側の現場担当者にとっても、江戸の治安維持に苦慮していたため、江戸城を幕府へ返却しようと考える者は少なからずいました。

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2021年【大河ドラマ】徳川慶喜江戸城は返却される予定だった?


徳川慶喜が決断した、江戸城の明け渡し。

約260年も徳川家の本拠だった城を敵に差し出すとは、おもい切った決断をする、と感心するかもしれない。

ところが近年の研究によると、幕府は江戸城開城を、さほど重く考えていなかったことがわかっています。

江戸城の明け渡しは一時的なもので、いずれは幕府に返却されて、慶喜の地位も保証されると踏んでいたのです。

江戸城は慶応4(1868)年4月1日に新政府へと引き渡され、慶喜は故郷の水戸藩に移されました。

代わって東征大総督府が江戸の治安維持を担うことになったが、このころの江戸の街は、急激な治安悪化に悩まされていました。


前述した通り、江戸開城前に薩摩藩の工作活動によって江戸の治安は悪化していたが、開城後には幕府の警備力が低下したことで、城下の治安は急激に悪化。

しかも、新政府に反発する旧幕臣が関東や東北へ逃亡すると、東征大総督府は鎮圧のために兵を派遣せざるを得なくなり、江戸を取り締まる人員が慢性的に不足していました。

勝海舟
勝海舟

おいらにまかえてくれい!

そこで新政府軍はやむを得ず、勝海舟ら旧幕臣に江戸の警備を委任しました。

すると勝海舟はこれを好機と捉え、江戸の治安回復を名目に、慶喜と江戸城の返還を大総督府に意見したのです。

さすが勝海舟・・・

あきちゃん
あきちゃん

慶喜が江戸に帰還すれば、人心が安定して幕臣も落ち着く、というわけです。


勝海舟がこうした主張をしたのは、江戸城が一時的に開城されたと信じていたからです。

江戸城が幕府寄りの尾張藩預かりになったことから、城が返還されるという噂も幕府內では流れていました。

一方で、大総督府内でも勝の提案への反応は悪くなかったのです。

佐幕派に襲撃される恐怖もあって、徳川に江戸城を返却して100万石程度の領地を安堵するという意見が多数派となっていたのです。


だが、4月9日に東征大総督の有栖 川宮熾仁親王が江戸城に入ると全く音沙汰がなくなってしまい、そのまま江戸城返還は白紙化し、徳川家は駿河8万石に大減封されていました。

4月9日に開かれた最高意思決定機関の三職会議では、徳川家を駿河に移すか江戸に戻すかで意見が分かれていたが、最終的には駿河移封でまとまりました。

駿河は戦国時代以前から徳川領だったので、反発が少ないとの判断でした。

これによって江戸城は正式に新政府が召し上げることになり、政府最高官庁の太政官が入ることが決定。

旧幕臣の反発が予想されたために詳細は隠蔽されたが、水面下では対策がとられており、4月8日には融和路線を進めた大総督府参謀の林玖 十郎が罷免されていいます。


そして、江戸と関東の旧幕軍を一通り鎮圧し終えたことで、計画は実行に移されました。

5月1日に徳川家の駿河移封が公表され、7月7日には

「東京遷都ノ詔」

が発布。

これによって江戸への遷都が決まり、江戸城が徳川家に戻る可能性は、完全に失われてしまったのです。

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川栄李奈演じる徳川慶喜の正室10年の別居生活を余儀なくされた一条美賀子(いちじょうみかこ)

1853年、今出川公久(いまでかわきんひさ)の子として生まれます。

徳川慶喜が婚約していた一条忠香(いちじょうただか)の娘が疱瘡を患ったことで美賀子がその代役として立てられ、1855年忠香の養女として慶喜と結婚します。

疱瘡(ほうそう)とは?
天然痘とも呼ばれ、「自己免疫疾患 」のひとつで、皮膚や粘膜(口の中など)に水ぶくれやただれ、赤い発疹などができる病気です。
死亡率が高い病気として世界中で流行していました。
死に至らなくても顔、体にひどい痘跡(あばた)を残すためとても恐れられていた伝染病でした。

あきちゃん
あきちゃん

慶喜との間に女の子を授かるが、幼くして亡くなってしまいます。

その後、将軍後見職として上洛、以来慶喜が将軍職を返上して江戸に戻ったものの謹慎生活を送ったため、別居生活が続きました。

1869年、慶喜の謹慎が解けた後、美賀子はようやく慶喜のいる静岡で共に暮らすことができました。

2021年【大河ドラマ】徳川慶喜ゆかりの地

徳川慶喜公屋敷跡・浮月楼
 ふげつろう

住所〒420-0852 静岡市葵区紺屋町11-1
電話番号054-252-0131
FAX番号054-253-9213
メールアドレスfugetsuro@fugetsuro.co.jp
ホームページhttp://www.fugetsuro.co.jp/index.html
利用料大人:9,936円
子供:3,726円
利用料(その他割引など)季節の懐石プラン「四季懐石@6,480」(部屋代込)がお得にご利用できます。また、@2,160でフリードリンクを加えたご宴会プランもご利用が可能です。
営業・利用時間土 日 平日 祝日 11:30~15:00(最終受付14:00)
土 日 平日 祝日 17:00~21:00(最終受付19:00)
予約等、問い合わせ等の営業時間は(9:00~20:00)
定休日年末年始
12/28~1/3(年末年始)、その他(施設点検による定休日を頂く場合がございます)詳しくはHPをご参照下さい。
滞在時間の目安120分
時期見頃春、夏、秋、冬
四季折々、庭園やお料理など、「旬」をお楽しみ頂けます。夜にはライトアップされた庭園も見所です。
無料WiFi利用有り
カード利用VISA、MasterCard、JCB、アメリカンエキスプレス、ダイナースクラブ、その他
駐車場普通車:50台
交通案内JR静岡駅(新幹線・東海道本線)より徒歩5分
東名静岡ICより車で15分、新東名静岡ICより車で20分
バリアフリー対応車椅子対応、車椅子貸出、障がい者対応トイレ、盲導犬・介助犬・聴導犬同伴、段差解消
段差の場所は可動式スロープで対応
乳幼児対応(乳幼児設備)オムツ替えシート、授乳室完備
AED設置有り


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