学校では教えてくれない歴史の話 学校では教えてくれない!歴史の話(戦国時代編)

石田三成(いしだみつなり)どんな人?関ケ原の戦いと人物像とその最後とは?秀吉家康との関係

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石田三成(いしだみつなり)豊臣家に義を重んじる豊臣の名軍師

「関ヶ原の戦い」の首謀者として西軍の指揮をとった石田三成。

彼を戦いに駆り立てた理由は多々あると思われるが、一番の要因は、忠義の心を忘れた徳川家康(とくがわいえやす)への怒りだったのではないだろうか。

1560年、三成は近江(現在の滋賀県)の地で生まれました。

あるとき三成が預けられていたずに豊臣秀吉(とよとみひでよし)が立ち寄り、三成が見せた聡明さを見込み、出仕を決めさせたという。

少年時代から秀吉の寵愛を受けた三成は、年を重ねるごとに頭角を現してくる。

戦場で直接指揮することは少ないものの、兵站業務などを担当して活躍。多数の大名たちが参戦した「四国征伐」や「九州征伐」においてスムーズな兵糧運搬を行い、その能力の高さを見せつけた

また、太閤検地においても優秀な働きを見せ、秀吉その功績を高く評価。三成は戦場で活躍する猛将ではなく、有能な政治家として秀吉の側近に名を連ね、やがては行政のトップ・五奉行にまで上り詰める。

そして、豊臣政権におけるおもな政策には必ずといっていいほど三成が関わるほどになった。

三成は自分に兵を動かす才能がないことを承知していたのか、名軍師との評判高き島左近(しまさこん)を三顧の礼で迎え入れる。

さらには豊臣政権の重鎮である大谷吉継(おおたによしつね)や上杉家の直江兼続(なおえかねつぐ)などとも頻繁に交流し、自分の周囲に集まる仲間たちを増やしていく。

さて、戦国の世に傑物たちが集まれば、語り合うことはただひとつ。

この国をどうしていくのか、いかに導いていけば輝かしい未来が待っているのか、という日本の未来像である。

三成は日本のあるべき姿を語ることで「同志」ともいうべき関係を全国規模でつくり上げていき、地盤をどんどん固めていった。

また、口巧者であるのも三成の特長のひとつであり、幾人もの武人を説得している。

「九州征伐」の際、島津軍を率いる島津義久がすでに秀吉に降伏し、戦の雌雄が決していたときのことである。

主君が降伏したにも関わらず、新納忠元は秀吉に対してただひとり徹底抗戦の構えを見せていた。主君の義久も降伏するように命令するものの、忠元は頑として聞き入れない。

そこで忠元の説得に当たったのが三成である。

あきちゃん
あきちゃん

三成は話術巧みに忠元を説き伏せ、見事に降伏させることに成功する。

そのほか前述の島左近も、自分の禄の半分を与えるとの口上で仲間に引き入れるなど、数々の名将たちを口説き落としている。

秀吉は希代の人たらしとして名を馳せたが、意外や人望が薄いと思われがちな三成も、秀吉から人心をくすぐる術を学び取っていたのでは・・・

あきちゃん
あきちゃん

石田三成(いしだみつなり)味方も多いが敵も多い激しい性格

己の得意な分野を活かし、豊臣政権のなかで着々と地盤を固めていく三成だったが、一方で彼を疎ましく思う者たちもたくさんいた。

戦場の最前線で戦う福島正則や加藤清正たちである。

立場が変われば軋轢(あつれき)は生まれるもので、「朝鮮出兵」において兵糧輸送が滞ったこが決定的となり、両者の関係は完全に決裂する。

秀吉が死ぬと世間は慌ただしくなる。

豊臣家を軽視する家康に危機感を感じた三成は、前田利家(まえだとしいえ)と手を組み家康を弾劾した。

しかし、利家も秀吉のあとを追うように死去。

さらに清正や正則ら七人が結託し、大坂で三成を襲撃。

三成は家康の居城・伏見城内に逃れるが、ここで仲裁を買って出たのが家康だった。

家康の城にかくまわれたためにこれを好機と見た家臣の島左近が家康の誅殺を進言するが、三成は大義を重んじこれを却下したという。

この騒動で五奉行の任を解かれた三成が自宅謹慎となるや、家康の専横はますます激しくなる。

業を煮やした三成は謀反を決意し、同志でもある上杉家の直江兼続(なおえかねつぐ)もこれに同調。

上杉家で軍備増強の動きがあるように見せかけると、家康はこの誘いに乗り上杉討伐の軍を起こす。

一方この件に挙兵した三成は各諸将に檄をとばし、家康許すまじの声に呼応した各勢力が挙兵する。

三成はまず家康と同等の権力を持つ毛利輝元を総大将に据え、盤石の態勢を整え、そして全国の諸大名に参戦を促し続けた結果、なんと兵力は十万以上にも昇る巨大勢力となった。

一方家康率いる東軍の兵力は八万。

三成は数的有利を確保することに成功した。

しかしここで、三成の計算外のことが起こる。

輝元が戦場には行かないといい出したのだ。

これにより三成が采配を振ることとなるが、西軍の中には三成を嫌う者も多く、全軍の掌握は不可能であった。

西軍は一部の部隊のみで果敢に戦い東軍を押し込んでいくが、小早川秀秋(こばやかわひであき)の切りによって西軍は崩壊。

小早川 秀秋は、安土桃山時代の大名。丹波国亀山城主、筑前国名島城主を経て備前国岡山城主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮と改名した。 豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。

ウィキペディア

敗軍の将となった三成は戦場から伊吹山に向けて逃走するが、やがて三成捕縛の任を受けた田中吉政(たなかよしまさ)の部隊に発見されてしまう。

プロファイラー 岡田准一 「関ヶ原に散った男の大志〜石田三成〜」 ~夢と野望の人生~

石田三成(いしだみつなり)打倒家康の精神を貫く

反逆者として裁きを受けることとなった三成。

死は免れないものだったが、彼は自害することなく、西軍の首謀者である小西行長、安国寺恵瓊らとともに、大坂、堺、京都の町を引き回され、十月一日に京の六条河原にて斬首された。

三成が斬首されるにあたってその心情を表したひとつの逸話が残っている。

刑の直前に喉の渇きを訴えた三成は干し柿を勧められるが、干し柿は胃に障るので遠慮したいと告げる。

そこで「これから死ぬ者が身体のことを労ってどうするのだ?」と笑われるのだが三成は

「大事を成そうとする者は、最後まで諦めないものだ」

と返したと伝えられて

いる。死の直前にあってもなお、打倒家康の心は折れていなかったのである。

なお、「関ヶ原の戦い」ののち、三成は天下を揺るがした大逆の士として、さんざんな悪評を世間に振りまかれた。

これは徳川幕府によって流されたものである可能性が高いともいわれており、

「関ヶ原の戦い」の発起人である三成らを極悪人とすることで、豊臣家からの政権剥奪を正当化しようとしたのである。

その後、江戸時代の水戸藩(現在の茨城県中部と北部)第二代藩主・徳川光圀の言行録である

桃源遣事に

「石田三成は憎むべき者ではない。人はそれぞれ、その主君に尽くすのというのだ。徳川家の敵としても、義を尽くした者を悪くいってはならない。君主とも三成のように心掛けるべきである」

と記されたことで、三成の悪評は徐々にやわらいでゆき、遂に義士としての見方も強くなっていった。

三成の功績は数多くあるものの、性格に難があり、カリスマ性に欠けていた。

たしかに人の気もちをするのは難しいが、関ヶ原のような大きな合戦ではそうしたことが勝敗の分かれめに影響する。

しかし、最後まで豊臣家への忠誠を貫いたその姿は、まさに誠の忠義の士。

華々しい活躍は少ないながらも、高名かつ世代を超えて人気があるのはそのあたりに理由があるのかもしれない。

【衝撃の事実!】なぜ石田三成は関ヶ原の戦いで敗けたのか!?

三成も眺めた琵琶湖の景色、佐和山城趾(彦根市)「三成に過ぎたるものが2つあり、嶋の左近と佐和山の城」と詠われたほどの名城だったとされる佐和山城。彦根市の北部佐和山にあったこの城は5層の天守を構えていたとされていますが、内部は非常に質素なものであったという記録も残っています。三成亡き後、城の部材は井伊直政によって現在も残る国宝・彦根城に多くが転用され、現在では遺構のみが残っています。佐和山城址は、無料での入山が許可されており、彦根を見渡せるビュースポットです。

【公式】石田三成×滋賀県 ポータルサイト<石田三成CM 公開!> (biwako-visitors.jp)

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