島津義弘(しまずよしひろ)
薩摩出身 1535年~1619年
豪胆無比な薩摩隼人島津義弘青兵で大軍を破るロマンを知る男
島津義弘
島津義弘は兄・義久、弟・夜久、家久と共に島津四兄弟として名高い、薩摩の武存である。
1535年に島津貴久の次男として生まれ、66歳のときに起きた関ヶ原の戦いにおいて、一躍その名を轟かた。
敗軍側に属していた義弘が、どうやって関ヶ原の戦いを切り抜けたのか。
また、その後の徳川政権下で、いかようにして存在感を示し、薩摩の国を守ったのか。
彼の生涯を追いながら、考えてみよう。
父・貴久から、兄・義久が家督を継ぐ頃になると、義弘は兄のサポート役として活躍を見せるようになる。
1572年の日向木崎原の戦いにおいては、大軍を率いる伊東義祐を寡兵で打ち破って、武将としての有能さをいかんなく発揮し、島津氏の勢力拡大に貢献した。
義弘が武将として優れていることが徐々に公になってくると、義弘が兄に代わって島津軍の総大将として指揮を執ようになり、武功を挙げることも多くなっていった。
島津義弘(しまずよしひろ)兄から家督を譲られ、朝鮮でも大活躍
1587年には、大友氏から援軍要請を受けて、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州平定軍と日向根白坂で戦った。
この際、義弘は自ら抜刀し敵陣に斬り込んでいくほどの奮戦ぶりを発揮したといわれているが、豊臣軍の兵力には圧倒的に及ばない劣勢であったため、あえなく敗北した。
その後、兄・義久が降伏を決断した後も、義弘は徹底抗戦を主張したが、兄の説得によって降伏を決めたという。
義弘の戦に対する積極的な姿勢が実によくわかるエピソードである。
なお、義弘はこのときに兄から家督を譲られて、島津氏の第17代当主になったとされている。
この降伏以降は一転、義弘は豊臣政権に対して協力的になり、1592年からの文禄の役と1597年からの慶長の役の二度にわたって朝鮮へ出向き、参戦している。
文禄の役ではさほど活躍できなかったうえに、息子を病気で亡くすなどの不幸があったものの、慶長の役では、1597年、藤堂高虎らの水軍と連携して元均率いる朝鮮水軍をはさみ討ちにして破り、敵将・元均を討ち取った。
また、1598年からの泗川の戦いでは、董一元率いる明・朝鮮の大軍を寡兵で打ち破り、徳川家康(とくがわいえやす)もその戦果を
「前代未聞の大勝利」
と評し、大いに喜んだといわれている。
島津義弘(しまずよしひろ)三成敗北のカギを握るのは義弘?
朝鮮から帰還して秀吉が死ぬと、島津家の状況は少しずつ変わり始める。
義弘は豊臣政権に対してあくまでも中立的な立場を貫いていたが、この頃、反豊臣派の兄・義久と親豊臣派の義弘の間で、家臣団の分裂が起きていたのである。
1600年、徳川家康が上杉景勝を征伐するために軍を起こすと、義弘は徳川家康から援軍要請を受けていたため、手持ちの一千の軍勢を率いて、家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に向かった。
一千人しか兵がいなかった理由は、薩摩にいる義久との対立があり、大坂にとどまったまま寡兵を率いることになったため、一千の軍勢が精一杯だったのである。
しかしながら、元忠が
「義弘への援軍要請など知らない」
と言って入城を断固拒否したため、義弘は仕方なく西軍への味方を決意したとされている。
ただ、すでに朝鮮での活躍もあって武将として名の知られていた義弘が、わずか一千の兵しか率いていなかったこに石田三成(いしだみつなり)ら西軍首脳は愕然。
主力部隊になると思われていた島津隊がこの有り様では……
と頭を抱えた。その結果、三成は東軍主力
部隊が到来したとき、前線の島津隊を置き去りにして逃げたり、作戦会議において義弘が提案した夜襲策を却下するなど、義弘をないがしろにした。
ちなみに、義弘が夜襲を提案した理由は、寄せ集めで急造の軍隊である西軍が、 正面からの野戦で徳川軍と戦うのは危険であり、また、家康の部隊をはじめ、東軍にはまだ戦場に到着していない部隊があったためだった。
このチャンスを狙って夜襲をかければ、戦を優勢に進められると義弘は考えたのである。
この作戦には、西軍の主力部隊を率いた宇喜多秀家も賛同していたといわれている。
結果的に見れば、この作戦はなかなか的を射ている。
義弘の案を採用していたら、その後の歴史がまったく変わっていた可能性もあるといえよう。
島津義弘(しまずよしひろ) 捨て身の秘策・捨て奸作戦とは
そうした待遇を受けながらも、義弘は関ヶ原の戦いに、西軍として参加した。
ただ、三成の家臣・八十島助左衛門が三成の使者として義弘に援軍を要請した際、八十島が下馬することなく救援を依頼したため、義弘や豊久はその無礼さに激怒して、完全に戦意を喪失したといわれている。
関ヶ原の戦いが始まってから数時間が経っても、東軍と西軍の間で一進一退の攻防は続いていた。
しかし、小早川秀秋の突然の寝返り、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊らが総崩れとなり、敗走を始めてしまう。
その結果、三百人で戦っていた島津隊は退路を断されることとなり、敵中につんと立することになってしまった。
このとき、義弘は覚悟を決めて自害しようとしていたが、説得されて思いとどまる。
敗走する残兵が島津隊内に入り込もうとするのを追い払いながら、自軍のパニックを防ぎつつ、前方の敵の大軍の中を突破する……
という離れ業をやってのけることを決意する。
島津隊は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破して、徳川家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。
このとき、島津軍は「捨て奸」といわれる、何人かがとどまって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという、壮絶な戦法を用いたといわれている。
その結果、豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり、多くの兵が犠牲になったが、東軍も井伊直政、松平忠吉の負傷によって追撃の速度が緩み、まもなく家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身は見事、敵中突破に成功した。
島津義弘(しまずよしひろ) 家康を翻弄した義弘の驚くべき手腕とは
薩摩に戻った義弘は、さっそく徳川との和平交渉を行なった。
トップとなった家康の出頭要請を義弘は拒み、それどころか軍備を増強し続けていたため、怒った家康は九州諸大名に島津討伐軍を号令してしまう。
一方、関ヶ原に主力を送らなかった島津家には、相当数の兵力が健在であり、戦に長けている義弘がいる。
もしここで長期戦になって、万が一、苦戦するようなことがあれば、家康に不満を持つ外様大名が再び反旗を翻す恐れがある――
そう考えた家康は、態度を軟化せざるを得ず、結局、島津討伐軍に撤退を命令した。
そして、1602年に島津本領安堵を決定する。
このようにして、島津氏が西軍に加勢したにもかかわらず、減封処分などを免れることができたのは、義弘の武将としての交渉術によるところが大きい。
そもそも、薩摩と江戸は非常に遠く、交渉をするのには費用の面でも時間の面でも気の遠くなるような負担が予想される。
その足もとを見て、義弘は手際よく交渉を長引かせ、自分たちの国の利益を守ったのである。
さらに家康にとっては、島津家が琉球を通じて行なっていた、明との貿易が魅力的であった。
義弘の手練手管に気づきながらも家康がこれを泳がせたのは、そうした付加価値へのまなざしがあったのだろう。
結局その後、息子の島津忠恒に家督を譲り、自らは隠居生活を送っていた義弘は、1619年に逝去する。
85歳の大往生であった。
島津義弘(しまずよしひろ) 島津必殺の「釣り野伏せ」
生涯で五十二回もの合戦に出陣し、いずれも華々しい戦果を飾った薩摩(現在の鹿児島県西部)の雄・島津義弘。
薩摩には勇猛果敢な性格の武士が多かったため、今なお鹿児島生まれの男子は薩摩隼人と呼ばれているが、義弘そして島津に仕えた者たちもその例に漏れず、命知らずの蛮勇揃いであった。
その証拠のひとつとして数えられるのが、「釣り野伏せ」と呼ばれる島津独自の必殺戦法である。
「釣り野伏せ」 とは?
部隊を三つに分け、一隊が先行し、残りの二隊は分かれて後方に配置しておくという布陣方法だ。そして先鋒隊が敵に攻撃を仕掛けたら、劣勢と見せかけてじりじりと後退。ころあいを見計らったところで残りの二隊が前進を開始し、突出してきた敵に対して挟撃を仕掛けるのである。まさにその名前の通り、先鋒隊を釣り餌として、釣り上げた敵を伏兵で討ち破るというわけだ。
非常に合理的な戦法ではあるが、実行する側の立場を考えると、よほどの覚悟がなければ先鋒部隊は務まらない。
しかも、部隊を三つに分けるとなれば、おのずと個々の戦力は低下。
策を読まれていた場合は、壊滅の危険性も十分に考えられる。実行に移す際は相当士気を高めなければならず、それには大将の統率力だけでなく、兵たちもいつ死んでもよいというほどに心を高揚させる必要があっただろう。
義弘はこの作戦を要所で使いこなし、数々の強敵を討ち破っていった。
代表的なところでいえば大友宗麟「耳川の戦い」(実際に策を行ったのは兄の島津義久で、義弘は援軍として参戦した)、そして第二次「朝鮮出兵」の「慶長の役」がある。
とくに後者の「慶長の役」の際に義弘は配下とともに大暴れを繰り広げ、島津軍の死者が数名だったのに比べ、朝鮮・明連合軍は四万人弱の戦死者を出したという。
また、日本に撤退する際にも大立ち回りを繰り広げ、義弘は敵から「鬼石曼子(グイーシーマンズ)」と呼ばれて恐れられた。
これが、のちの世で義弘が「鬼島津」と呼ばれる発端となったのは、いうまでもないだろう。
戦では鬼神の如き活躍を見せる義弘ではあるが、いったん戦いが終わるとまた違った顔を見せていた。
義弘は仏教に深く帰依していた祖父・忠良の影響を大きく受けており、自らも時間があれば「法華経」を訓読し、寺社への寄進を行うほど熱心な信仰心を持っていた。
またいざ戦が終わってしまえば、必ずといってよいほど供養塔を建てて敵味方を問わず戦死した兵の霊を鎮め、多大な死者を出した「朝鮮出兵」では、もっとも規模の大きな供養塔を建立したという。
島津義弘(しまずよしひろ) 秀吉への恩義から当主と反目する
加えて戦の鬼ともいわれた義弘を語るうえで、絶対に外すことができないエピソードがある。
それは「関ヶ原の戦い」における壮絶なる撤退劇だ。この戦のなかで義弘は、参戦した諸侯にその強さと恐ろしさそして武人としてのプライドの高さを存分に見せつけた。
豊臣秀吉の死後、世間はにわかにきな臭くなり、徳川家康と旧豊臣方の激突はもはや避けることができなくなった。
この状況に島津家は当主・島津義久の判断により中立の立場を保つよう方針を固めるのだが、義弘は恩義ある豊臣方に与するべしと兄に反目し、大坂に居座っていた。
その後、徳川家康が上杉征伐のために会津へと出兵すると、石田三成がついに挙兵。
留守となった家康の居城・伏見城へとその兵を向ける。ここで家康に救援を頼まれた義弘は、仕方なく出陣を決める。本国が中立的立場を取っていたため、大坂に駐留する少数の兵しか動かせなかったが、なんとか千五百の人員を揃えて軍の形を整えた。
このなかには義弘を慕い、自力で薩摩から駆けつけた者たちもおり、義弘はその心意気に対し大いに感動したという。
その後、伏見城へと到着するが、城を守る鳥居元忠が島津軍の入城を拒否したため、義弘は怒って引き返し、そのまま三成が率いる部隊に合流する。
こうして義弘はかねてからの思惑通り、旧豊臣方の西軍へと名を連ねることになった。
島津義弘(しまずよしひろ) 死地にて輝く「捨て奸」戦法
そして舞台は関ヶ原へ。
義弘の参戦に三成も強力な味方を得たと喜びそうなものなのだが、三成は逆にあの島津家の代表がわずか千五百しか兵を率いていないことに落胆。
義弘を軽視するようになる。
それでも義弘は今まで培ってきた戦の経験をもとに軍議で献策する。
その内容は家康の得意とする野戦は避け、夜襲にて早々に決着をつけるべしという理に叶ったものだった。
しかし、三成は末席の将の意見など聞いていられるかとこれを拒否。
プライドを傷つけられた義弘は怒り、それ以降は口を出さずただ黙って軍議の成り行きを見守るだけだった。
そしていざ開戦……。
ここで義弘は口を出さないどころか兵士すらいっさい動かさず、ただ近寄る敵のみを鉄砲で撃退するという、もはやどちらの味方ともいえない行動に出た。
この島津の動きには、両軍ともにあっけにとられて見守るしかなかったのだが、やがて小早川秀秋の部隊が裏切りを決行すると、西軍は総崩れになり、東軍の勝利が決定的となる。
関ケ原の戦いわずか半日?2時間での決着?
この島津の動きには、両軍ともあっけにとられて見守るしかなかったが、やがて小早川秀秋の部隊が裏切りを決行すると、西軍は総崩れとなり、東軍の勝利が決定的となる。わずか半日(2時間という説も)での決着であった。
敵の大軍勢のなかに取り残された島津軍。ここで初めて義弘は兵を動かす。
義弘がとった行動、それはなんと家康の本陣をかすめながらの敵中突破であった。
この突撃に東軍は大慌てとなるが、大勝利に傷をつけてはならぬと本多忠勝、井伊直政らが必死に島津隊を追撃する。
これに対し、義弘は足止め部隊を次々に繰り出す「捨て奸」という戦法で対処。
足止め役は討ち死に覚悟だったが、島津家では戦場において総大将の首級を決して敵に渡してはならないという教えがあり、配下たちもそれをよく心得ていた。
足止めの兵士たちが次々と倒れていき、従軍した甥の島津豊久が義弘の身代わりとなって討ち死にするが、辛くも義弘は戦線離脱に成功。
その後、どのような経路をたどったのかは定かではないが、決死の逃避行だったことは間違いない。関ヶ原から大坂へ向かい、海路を通って九州へ。
半月に渡る旅路でようやく薩摩に帰り着いたときには、千五百いた兵士はわずか八十数人しか残っていなかったという。
敗北した西軍のなかにあって、数少ない戦果のひとつである島津の撤退劇は、敵味方を問わず喝采した。多くの犠牲は出したが、義弘もさぞかし痛快だったことであろう。
なにせ義弘は東軍からも西軍からも軽視されていたからである。
「関ヶ原の戦い」後の島津家は、徹底抗戦の構えを崩さず裏で徳川に謝罪。
なんと追撃部隊にいた井伊直政が取りなす形で、島津への処分は西軍のなかではもっとも甘い「お咎めなし」という裁定が下された。
義弘の見事な撤退劇が、敵の心をも動かしたのである。その後、義弘は関ヶ原での責任を負う形で隠居を決め、後進の指導にあたった。
戦という晴れの舞台を失った義弘は静かに余生を過ごしていたが、晩年は老衰が進み痴呆により食事を取ることもままならぬほどになってしまった。
しかし、歳を取っても戦の緊張感だけは身体に染みついていたのか、膳を前に置いて側近たちが関の声をあげると、義弘ははっと我に返り、食事を取ったという。
そして1619年、85歳で静かに息を引きとり、戦に捧げたその怒濤の生涯に幕を降ろした。
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熱血と慈悲の戦国武将「島津義弘公」|歴史|鹿児島県観光サイト/かごしまの旅 (kagoshima-kankou.com)
鹿児島(鶴丸)城跡・御楼門
鹿児島(鶴丸)城は、慶長6年(1601)頃に、のちに島津家第18代当主・初代藩主となる家久が建設に着手した島津氏の居城です。居館(現:県歴史資料センター黎明館・鹿児島市城山町)の正面中央には、御楼門がありましたが、明治6年(1873)の火災で焼失しました。御楼門の高さ、幅はともにおよそ20mと国内最大の城門です。梅雨時期から、堀がハスの花の見頃となります。
鹿児島(鶴丸)城跡・御楼門|観光スポット|鹿児島県観光サイト/かごしまの旅 (kagoshima-kankou.com)
【お知らせ】
・御楼門 1st Anniversary フェスティバルが開催されています。詳細はこちらからご確認ください。
基本情報
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電話番号 | 099-222-5100 |
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