2021年スタートの渋沢栄一を主人公とする大河ドラマ青天を衝けでも重要な役柄で出演することが予想される西郷隆盛。
実際にはどうゆう人物だったのか解説したいと思います。
結論から申しますと西郷隆盛(本名)は隆永つまり西郷隆永が本名です。
隆盛は父の名前です。
このように通説と思われていることが最新の研究により違う事実が見つかっています。
今回は西郷隆盛(隆永)について実際はどういう人物だったのか通説を覆したいと思います。
2021年【大河ドラマ】これまでの西郷隆盛の通説
卓越した政治力と行動力をもって、明治維新を実現させた豪傑・西郷隆盛。
座右の銘である「敬天愛人」のとおり、特に人を愛し、配下の士卒のみならず、敵軍に対しても温情を示す仁愛に富んだ人物として有名ですね。
その高潔な人柄から、今なお多くの人々から愛され続けている。
というのが通説の西郷隆盛だと思いますが実際の西郷隆盛とは少し違います。
2021年【大河ドラマ】西郷隆盛の新事実偏狭で人の好き嫌いが激しい性格だった
実際、盟友である大久保利通はその人柄を「激情家」と評してます。
また、目的のためなら配下を平気で切り捨てたり、工作活動によって世情の不安をあおったりと、非情な面も持っていたというのです。
大河ドラマのイメージとはずいぶん違いますね。
ちなみに下記のよくみる西郷隆盛の肖像はキヨッソーネが西郷の弟といとこをモデルに作成した想像図です。
つまり西郷隆盛ではありません。
浴衣姿で愛犬のツンをつれた恰幅のいい男の銅像。
上野公園にあるそんな西郷隆盛像からは、モデルになった西郷の、心が広く温厚な人柄が見て取れます。
確かに、西郷を慕う部下が多かったのは事実ですが、しかしその一方で、自分と相容れない人間に対しては徹底的に憎悪する性分でもあったようです。
たとえば、後に大阪商工会議所の初代会頭となる同郷の五代友厚(ごだいともあつ)を
「利で動く人間だ」
と非難し、薩摩藩トップの島津久光に対しては、
「地ゴロ(田舎者)」
と罵りました。
自分を取り立てた前藩主斉彬(なりあきら)を「お天道様のような人」と敬ったのとはえらい違いですね。
また、豪胆なイメージとは裏腹に、西郷は目的のためなら手段を選ばない謀略家でもあったようです。
それをよく表しているのが、江戸の街における攪乱工作です。
慶応3(1867)年10月、西郷は幕府を挑発するために、配下の浪士へ江戸市中での工作活動を命令しました。
目的どおり、我慢に耐えかねた佐幕派の庄内藩が薩摩藩邸に火をかけて幕府攻撃の口実はできましたが、浪士たちが略奪や放火、強盗などを行ったことで、江戸の住民は恐怖に陥いりました。
戊辰戦争勃発後も、西郷は非情でした。
旧幕軍攻撃の先遣隊として組織された赤報隊は、西郷の指示のもと、各地で
「新政府は年貢を半減する」
と宣伝し、民心掌握に奔走した。
だが、赤報隊が西郷のコントロールから離れるような行動をとったことと、年貢半減の実現が財政的に困難だとわかると、西郷は「年貢半減」は赤報隊が勝手に触れ回ったものとして彼らを追討し、なんと処刑してます。
また、西郷が新政府を去るきっかけとなった征韓論にしても、その真意を巡って様々な意見があります。
征韓論とは、日本との国交樹立交渉に応じなかった朝鮮を、武力をもって開国させようという主張のことです。
西郷は自らが全権大使となって朝鮮へ赴くことを主張したが、大久保利通や岩倉具視に反対されたことで対立し、政府を去っています。
なぜわざわざ政府の重鎮の西郷が朝鮮へ行こうとしたのか?
話し合いで収めようとしていた可能性もあるが、自らの死と引き換えに朝鮮出兵のロ実をつくろうとしたという意見は根強いです。
実際、西郷は征韓論を唱える板垣退助への手紙で
「(自分が朝鮮へ行けば)死することぐらいはできる」
と書いていました。
板垣ら征韓論派を抑えるための言葉だった可能性もあるが、当時の西郷は仕事に忙殺され、健康上の問題を抱えて心理的に弱っていました。
「大義」のために自らの命を使おうとしたとしても、不思議ではありません。
ちなみに、西郷隆盛という名前は、彼の本名ではなく(本名)は隆永である。
と最初に言いましたが、西郷が天皇から位階を授けられることになったとき、親友だった吉井友実が京を離れていた西郷に代わって名前を届け出たのだが、そのとき間違って西郷の父の名を奏上してしまったのです。
だが、これを知った西郷は怒るどころか、たいして気にする様子がなかったという。
非情な面があったことは確かだが、器が大きいという評価も間違っていないよですね。
2021年【大河ドラマ】西郷隆盛の新事実赤報隊を切り捨てた西郷隆盛の非情
西郷隆盛の非情についてもう少し詳しく解説したいと思います。
大河ドラマ「西郷どん」の一面。
愛犬のツンを連れた、浴衣姿の西郷どん。
日本人ならば、上野恩賜公園に建てられた西郷隆盛の銅像を知らない人はいないのではないでしょうか。
現在でも好感度が高く「偉人」と呼ばれる人物の一人ですが、明治期においての西郷の人気は、私たちの想像をはるかに超えていました。
なにしろ、毎晩1時頃に辰巳の方向に現れる赤色の星を望遠鏡でよく観察すれば、陸軍大将の制服を着た西郷隆盛の姿が見える……
そんな荒唐無稽な噂話が本気で信じられ、「西郷星」を一目みたいと、物干し台から空を見上げる人が続出したくらいでありました。
しかも、それは西郷が西南戦争を起こす前のことです。
生きているうちから伝説と化していた男、それが西郷隆盛です。
だが、国民的な英雄ほど裏の顔とのギャップは・・・
貫禄と情のある薩摩隼人というイメージは完全に現代人の誤解であり、西郷の死後に作り上げられたものなのです。
実際の西郷は、彼が好んでよく使った「敬天愛人」(天を敬い、人を愛する)という境地からは程遠い、冷徹で威圧的な人物だったのです。
西郷は、子供時分から気性が激しいことで知られていました。
ケンカをすれば、鞘から刀身を少し出し、鞘に収めるときに音を出して
「いつでも斬ってやるぞ」
と相手を威嚇するような少年でした。
そんな威圧癖は成長しても変わることはありませんでした。
王政復古直後に開かれた小御所会議のときのことです。
徳川慶喜の処遇に関して、西郷は
「そいは、短刀一本で用は足りもす」
と、朝廷反対派に圧力を加えて、決着を無理やりつけようとしています。
天敵である大老の井伊直弼が暗殺されたときは、よほどうれしかったらしく、一周忌には、盟友の大久保利通に
「昨日は斬姦(ざんかん)の一回忌にて、早天より焼酎呑み方にて、終日酔い居り申し候」
と手紙を書き送っています。
喜びのあまり朝から晩まで飲み過ぎたというのです。
2021年【大河ドラマ】西郷隆盛の新事実意外と根に持つタイプ
友情に厚いというイメージも、そのまま信じていいかは怪しいです。
西郷の親友と言えば、同じ薩摩藩士で維新の功労者でもある大久保利通です。
その大久保が、必死に間をとりもって西郷を島津久光と会わせたことがあります。
この当時、薩摩藩の実質的なトップとなっていた久光は、兵を率いて上京し、国政に参加して公武合体政策を推進しようとしていました。
大久保は、そのためには中央政界に顔が広い西郷が役に立つはずだと考えました。
そこで、それまで奄美大島へ島流しにされていた西郷の帰藩をかなえるべく周旋し、これを実現。
西郷は久光に意見を述べることになりました。
西郷が情に厚ければ、親友の努力を慮って久光への対応に配慮したことだろうとおもいます。
しかし、久光に対する西郷の対応は非常に冷淡で、久光の上京に反対したうえで、こう言い放った。
「御前には、恐れながら田舎者であられるゆえ」
久光が卒倒しそうになるほど怒りを見せたのも、当然です。
※田舎者この発言の元ネタは、家臣に書きとどめさせた記録です。
そんな西郷のガラの悪さが存分に発揮されたのが、鳥羽・伏見の戦いを引き起こすための、幕府への挑発行為です。
鳥羽・伏見の戦いの2月ほど前から江戸で放火や略奪が頻発していたが、それを命じたのが、ほかならぬ西郷隆盛でした。
それも、薩摩藩士の益満休之助に浪士たちをけしかけさせるなど、自ら手を汚さないという徹底ぶりでした。
流布されている西郷のイメージとは合致しない、彼の陰険さが垣間見えます。
2021年【大河ドラマ】西郷隆盛の新事実幻の「年貢半減令」
「懐の深い西郷さん」が後世の誤解であると最もよくわかるのが、上記でも紹介しました赤報隊にまつわる事件です。
西郷に依頼されて、幕府を挑発するために江戸の街を暴れまわった浪士の一人に、相楽総三という人物がいました。
相楽は商いで財を築いた郷士の父のもとに、四男として生まれました。
生まれも育ちも江戸で、文武に優れており、兵学の私塾を開くが、やがて尊王攘夷運動に傾倒していきます。
赤城山挙兵や天狗党の筑波山挙兵にも参加した相楽は、京都滞在中に、西郷や大久保と交流を持ちました。
そして、西郷に命じられ、幕府からの攻撃を引き出すために、江戸の街で略奪や暴行などに手を染めることになるのです。
やっていることは強盗そのものだが、彼にしてみれば、これこそが倒幕への道であり、日本が前進するための行為だと信じていたのでしょう。
その「功績」が評価されたのか、相楽は西郷から新たな任務を任されことになります。
その任務とは、鳥羽・伏見の戦いで官軍が江戸に攻め入るのに先立って、各地の情勢を探り、反乱・暴動を鎮圧するというもので、裏を返せば、それだけ全国各地で世直し一揆や打ち壊しが相次いでいたということでです。
相楽には、鉄砲100丁と官軍の印である錦の御旗も与えられ、相楽を隊長とする「赤報隊」が結成されました。
信州方面へと進撃しながら、赤報隊は民衆の心をつかむために、ある政策を掲げました。
「年貢半減令」、つまり、年貢を半分にするというものです。
もちろん、相楽が勝手に考案したものではありません。
西郷らに許可をもらったうえでの行動でした。
※世直し一揆
この時期、開国の影響で物価が上昇していたことに加え、米の買い占めや備蓄が増えて、米価が高騰していた。
そのため、生活が困窮した農民は、一揆を起こしたり、豪農や商人の家を壊したりしていた。
そんな呼びかけに民衆たちが大喜びしたことは言うまでもありません。
赤報隊のメンバーは日に日に膨れ上がっていきました。
それだけ年貢半減令はインパクトがありキャッチーな政策でした。
こうして民衆たちを味方につけたことで、薩長軍は狙い通り、スムーズに進軍することができました。
しかし、実のところ、年貢半減令も政権を取るために掲げたスローガンに過ぎなかったのです。
つまり、「攘夷」と同様に実現する見込みがないものだったのです。
2021年【大河ドラマ】西郷隆盛の新事実「ええじゃないか」と世直しを求める民衆赤報隊一転して偽官軍へ
そんな真相を知る由もなく、赤報隊は、年貢半減令をあちこちで告知して、勢力を拡大していました。
しかし、実際には実現できないのだから、これ以上広まると、新政府の立場も悪くなってきます。
もはや、赤報隊は新政府にとって厄介なだけの存在になりつつありました。
そこで新政府は信じがたい命令を出した。それが「偽官軍・赤報隊の追討令」です。
つまり、西郷自身が直々に命じ、錦の御旗まで与えたにもかかわらず、状況が悪くなると、相楽たちは「偽官軍」扱いされ、討伐対象になってしまったのである。
赤報隊からすれば、到底受け入れられないものだったが、あまりの展開に事情を話せば分かってもらえると思ったのかもしれない。
相楽をはじめとした赤報隊幹部は、素直に出頭に応じています。
だが、彼らは二日二晩にわたって寒い中、食事も与えられないまま、縛りつけられました。
そして、処刑所に連行されると、弁明の機会も与えられないまま、首を斬られました。
相楽には妻子がいたが、処刑を知った妻は子供を姉に預けたうえで、自らも自害しています。
あれだけ利用しておきながら、状況が悪くなると、さっさと切り捨てる。
たしかに、そんな冷たい知略家としての西郷の働きがなければ、成し遂げることは難しかったのではないでしょうか。
大義なき明治維新という革命・・・