2021年【大河ドラマ】島津斉彬どんな人物で何をしたのか?
日本の近代化を夢見た幕末の先導者
10代薩摩藩主・斉興の長男として、江戸薩摩藩邸で生まれました。
曾祖父で8代藩主の重豪(しげひで)の影響を受け10代から西洋文明に興味を抱き、蘭学者の高野長英らの教えを受け、ドイツ人医師シーボルトとも会見しました。
藩主になる前の世子時代から徳川斉昭、松平慶永、阿部正弘らの諸大名と親交を結び、政治、国際情勢について情報交換を重ねていた。
1849年、異母弟・久光を次期藩主にしようと画策する保守派により斉彬一派が大量粛清される「お由羅騒動」が起きます。
このお家騒動後、斉彬は父・斉興を隠居に追い込み、1851年、43歳の遅さで11代薩摩藩主となります。
11853年のペリー来航も予告情報を長崎でいち早くつかむなど、常に国際情勢を意識していた斉彬は、藩主就任以来、西洋諸国に対抗するため、藩の近代化政策を強力に推進していきます。
工場群の集成館を拠点に、鉄製砲を鍛造する反射炉、溶鉱炉、蒸気機関製造所など、を建設したんです。
兵器だけでなく、機械紡績をはじめ、印刷、製薬、ガラス、ガス灯、電信など事業は多岐に渡り、軍事と共に社会基盤整備の重要性を認識していました。
造船所も開設し、洋式帆船を建造し国内初の蒸気船の製造も試みました。
色々先進的技術を取り入れようとしていたのですね。
また、西郷隆盛ら下級藩士も抜擢する人材登用を行います。
中央政界では、幕政改革の必要性を訴え、将軍継嗣問題では一橋慶喜の擁立を工作しました。
また養女の篤姫を13代将軍・家定の正妻として輿入れさせることに成功し、幕府への発言力を強めていった。
しかし、1858年、大老に就任した守旧派の井伊直弼と将軍継嗣、日米修好通商条約の対応を巡って激しく対立する。
朝廷への勅命の請願実らず、井伊が強権をふるい、徳川家茂が14代将軍となり、慶喜擁立は失敗に終わります。
井伊によると安政の大獄が始まると、斉彬は弾圧に抗議するため藩兵を率いての上洛を計画する。
その軍事訓練の最中に病で倒れて急逝する。
藩主となってわずか7年あまりの在職でした。
新しい日本をつくるという斉彬がまいた種は、西郷、大久保利通ら薩摩藩士に受け継がれ、明治維新に結実する。
勇断なき人は事を為すことは能はず
(世界に目を向け、日本という国の在り方自体を見つめた斉彬。
勇気をもって決断を下す人だけが成し遂げられるという言葉にその生きざまが映し出されているようです。)
栄一の30年前に紡績に目をつけていた斉彬
将軍継嗣問題で、斉彬が擁立をもくろんだ徳川慶喜。
斉彬が没し手数年後に渋沢栄一は一橋家へ出仕。
慶喜を主君として仰ぐことになるが、慶喜の15代将軍就任には、火中の栗を拾うことになると、いとこの喜作とともに反対したという。
時代は移り、明治に世で実業家となった栄一は1882年の大阪紡績会社設立に深く関わり、相談役となる。
栄一の伝記史料には、西洋式の紡績機械を日本に初めて輸入したのは斉彬で、
「紡績事業の淵源は遠くの慶応年間に」
あったとの記述があります。
栄一は紡績会社設立に先立つこと30年近くの、斉彬のすぐれた見識ぶりがうかがえます。
2021年【大河ドラマ】島津斉彬の通説
薩摩藩主・島津斉彬(しまずなりあきら)は、幕末を代表する名君として名高い。危機的状態の藩財政を立て直し、西洋技術の導入を奨励します。
西郷隆盛や大久保利通などの下級武士を抜擢して内政を強化し、幕府に対抗する力を蓄えて、幕政にも影響を与えました。
西郷ら優秀な志士たちを育てた功績から「維新の父」と呼ばれ、藩士や領民からも慕われる藩主でした。
ただ事実は少し異なります。
2021年【大河ドラマ】島津斉彬の真相とは?
斉彬の行動は幕府の復権と藩の発展が目的で、幕府打倒は目指していませんでした。
また、西郷らには慕われていたものの、藩内には島津斉彬(しまずなりあきら)が藩主に就任する前から敵対する勢力もあり、そうした勢力への配慮も見せなければなりませんでした。
2021年【大河ドラマ】島津斉彬幕府第一だった維新の父
偉人に異名はつきものだが、それが必ずしも本人の性質を正しく表現しているとは限りません。
幕末の薩摩藩主・島津斉彬(しまずなりあきら)はその一人です。
西郷隆盛や大久保利通など、のちに明治政府高官となる志士を抜擢し、西洋技術を導入して薩摩の近代化を図ったことなどから、
わたしは「維新の父」と呼ばれてきました。
黒船来航前後から、製鉄用溶鉱炉や反射炉、国産洋式軍艦の建造など、明治時代を先取りするかのような政策を行っていたのだから、そう評価されるのも無理はありません。
しかし実際には、島津斉彬(しまずなりあきら)は一度も「維新」を目指して活動したことはありませんでした。
斉彬は、朝廷と幕府の結びつきを強める「公武合体派」の代表的な人物でした。
藩の工業化と人材の抜擢によって斉彬が目指していたのは、幕府の復権と薩摩の強大化です。
つまり、将軍家に弓引くつもりはまったくありません。
徳川御三卿のひとつ一橋家から正室をもらい、親幕府派と関係を持っていたように、斉彬は藩主になる前から幕府寄りの立場でした。
藩主になると、老中・阿部正弘を通じて幕府内での発言力を強化。
養女の篤姫を3代将軍家定に嫁がせて、将軍家との間に太いパイプをつくることに成功し、藩で建造した洋式軍艦にしても、薩摩のためには使おうとせず、幕府に献上して昇平丸という名前がつけられています。
もしも幕府寄りの島津斉彬(しまずなりあきら)が死なずに藩主であり続けていたら、薩摩藩が討幕に舵をきることは、できなかった可能性も十分にあります。
そんな斉彬とは対照的に、前藩主斉興は洋学に基づく政策に反発していました。斉興の先代重豪が洋学に傾倒して多額の借金を抱え、藩財政が崩壊寸前にまで追い込まれていたからです。
経済官僚の調所広郷が500万両(現在の価値で約5000億円)の負債を無理やり解消したことで、薩摩藩は財政破綻寸前の状態からなんとか救われていました。
だが、このコンプレックスから斉興は洋学好きの斉彬ではなく庶子である久光を後継ぎにしようと考え、その実現に向けて調書や側室のお由羅と画策していたのです。
藩上同部も島津斉彬(しまずなりあきら)への警戒感を抱いていたため、調所らの工作で久光が藩主に就任する可能性は、十分にあったといえるでしょう。
しかし、私はこの状況を、強硬策によって切り抜けました。
調所が財政健全化のために実施した経済政策には、贋金作りや琉球を通じた密貿易など、幕府に禁じられた行為も多かっのです。
そこに目をつけた斉彬は、老中の阿部と結託して幕府に調所の行いを密告したのであます。
調所は江戸に召喚され、厳しく追及を受けました。
そして斉興をかばうためか、責任をかぶって服毒自殺を図っています。
その後、斉興は斉彬の側近を切腹させて挽回を試みたものの、最終的には将軍家による命令で隠居させられました。
このような壮大なお家騒動を経験して、斉彬はやっと藩主の座に就くことに至ったのです。
住所 | 鹿児島県鹿児島市照国町照国神社 |
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電話番号 | 099-216-1344(鹿児島市観光交流局観光プロモーション課) |
駐車場 | なし |
関連リンク | 鹿児島の人物「島津斉彬」 |