幾人の、涙は石に注ぐとも、その名は世々に、朽じとぞ思う
松平容保が会津戦争の悲劇として有名な白虎隊に対して詠んだ句です。
今後大河ドラマ『青天を衝け』では、幕末・明治期の偉人:松平容保(まつだいらかたもり)は、どのように登場していくのでしょうか?
渋沢栄一とどのように関わっていくいくのか?
是非最後までご覧ください。
2021年【大河ドラマ】松平容保(まつだいらかたもり)徳川家への忠義を尽くして朝敵とされた悲劇の会津藩主
会津9代藩主 1835年、美濃高須藩主・松平義建の六男として生まれました。
美濃とは現代の岐阜県です。
1846 (弘化3)年に叔父にあたる会津藩8代藩主・松平容敬の養子となり、1852(嘉永5)年に藩主となりました。
1860(万延元年)に水戸藩の脱浪士らが大老・井伊直弼を殺害する桜田門外の変が起こると、老中の久世広周と安藤信正が水戸藩を問い詰めるために尾張と紀伊の徳川家に兵を出させようするが、容保はこれに反対しました。
幕府と水戸藩との間で調停に奔走し、一滴の血を流すことなくこの問題を解決に導いた名将です。
186(文久2)年に新設されたばかりの京都守護職に就任すると、新選組などを配下に置き、尊王攘夷派の過激志士たちによって悪化した京都の治安維持に尽力します。
公武合体派の容保は、1863 (同3) 年の八月十八日の政変、1864(元治元年)の禁門の変で長州藩兵を撃退することに成功、京都から尊攘派を一掃します。
※禁門の変とは?
尊王攘夷を掲げる長州藩と、会津藩・薩摩藩を中心とする幕府の勢力が、京都御所で激突したことをいいます。
1866 (慶応2)年に5代将軍に就任した徳川慶喜が 1867(同3)年に大政奉還を行うも、岩倉具視ら討幕派による王政復古の大号令が発せられ、1868 (同4) 年に朝廷方と幕府方の間で武力衝突が発生します。
この鳥羽・伏見の戦いで敗北した容保は江戸へ逃れます。
討幕派の働きかけにより下された勅令により、鳥羽・伏見の戦いで幕府側として戦った会津、桑名が朝廷の敵とされ、徳川慶喜に江戸城登城の禁止と江戸追放を言い渡された容保は、会津に向かいます。
東北諸藩と奥羽越列藩同盟を作って新政府軍と戦いますが、各地で敗北。
容保は孤立無援の籠城戦の末に、1868(明治元年)9月に降伏し、1月の鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争が集結します。
江戸に送られた容保は、処分を受けて鳥取藩、のちの和歌山藩に幽閉されました。
1872(同5)年に蟄居を解かれた容保は、1880(同13年)に日光東照宮の宮司に任じられ、1893年2月5、東京の小石川の自宅にて亡くなりました。
2021年【大河ドラマ】松平容保(まつだいらかたもり)渋沢栄一と深い関係?
京都を守る会津藩士と深い交流を持った渋沢栄一
渋沢栄一は1864年二月から徳川慶喜に仕えており、徳川慶喜は3月に禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に任命されています。
禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)とは?
江戸時代末期に幕府の了解のもと、朝廷によって禁裏(京都御所)を警護するために設置された役職です。
栄一は京都で各藩のの志士と交流しており、
「殊に(ことに)当時蛤御門(はまぐりごもん)の守衛にあたっていた会津藩の名士とは能く(よく)交際する機会を得た」
と1901年の講演で語っています。
ですが、その頃に京都守護職を務めていた会津藩主松平容保との面識はなかったものと思われ、栄一による松平容保の人物像は語られていません。
長州藩が京都からは排除され、混乱を極めた京都の治安を維持する激務に身を投じていた松平容保の姿を、栄一はどのようにみていたのでしょうか・・・
2021年【大河ドラマ】松平容保に認められ誕生した新選組
将軍徳川家茂(いえもち)の上洛の際護衛を目的に1862年に浪士の募集が行われました。
このときに集められた浪士の中に、近藤勇や土方歳三、芹沢鴨らの知の新選組のメンバーがいました。
京都到着後、清河八郎が浪士組を朝廷側の兵力にしようとしていることが発覚し、多くの浪士が江戸へ引き返す中、将軍護衛という当初の目的を貫くため近藤らは京都残留を決意。
近藤らの志を喜んだ松平容保は京都に残った浪士組を京都守護職預かりとしました。
こうして誕生した壬生浪士組は、後に新選組として1864年の池田屋事件などで活躍します。
1867年に大政奉還が行われると、新選組は松平容保が率いる旧幕府軍に従って戊辰戦争に参加し各地で敗退を重ね、1868年には近藤が捕らえられ処刑、副長の土方は1869年に函館で新政府軍の銃弾に倒れ、新選組は降伏することになりました。
ここからは松平容保のイメージとこれまでの通説を最新の研究によって分かった事実を紹介したいと思います。
2021年【大河ドラマ】松平容保が新政府との開戦を望んでいたというのはウソ?
今までの松平容保のイメージとは?
江戸城が開城しても、一部の藩は新政府への従うことを拒んでいました。
急先鋒となったのが、会津藩主の松平容保です。
会津藩は代々徳川家との繋がりが強い佐幕派の代表格。
容保は幕府への忠誠心から、新政府の支配を拒絶し、奥羽越列藩同盟と共同して新政府軍と戦うことを決断し、慶応4(1868)年4月から始まる会津戦争の指揮をとりました。
という通説がありますが事実は少し異なります。
2021年【大河ドラマ】松平容保が新政府との開戦の真実
容保は徳川慶喜の意志に従い、早々に新政府へ従うことをを決めていました。
それでも会津で戦争となったのは、抗戦を主張する旧幕臣を止めきれなかったことと、新政府側が最初から会津を討伐しようと決めていたからです。
松平容保(左)とその弟で桑名藩主の松平定敬(右)。両藩とも佐幕派の筆頭でした。
汚名を着せられた会津藩
江戸城を開城して幕府は新政府に従いましたが、旧幕軍と新政府軍の戦いはすぐには終わらず、その後1年以上も続くことになります。
この戦いの主導者としてよく挙げられるのが、会津藩主・松平容保です。
会津松平家は、徳川家康の孫・保科正之を始祖とし、徳川家の家紋である葵紋の使用を許された、東北きっての名門です。
尾張徳川家の分家から養子として会津に入ったので、徳川家とのゆかりはとても深いのです。
文久2(1862)年には幕府より京都守護職に任命され、悪化する京の治安改善を行い、容保は自ら兵を率いて上洛し、攘夷志士を積極的に摘発しました。
また、弟の桑名藩主・定敬と御所の護衛役トップだった一橋慶喜とともに京都政局をとりしきり、攘夷派をけん制し、「八月十八日の政変」や「禁門の変」で長州藩排除に貢献しました。
そうした幕府への忠誠心から、慶喜が従っても容保は新政府との戦いを続行した、というのがこれまでの定説でした。
しかし実際のところ、容保は江戸開城後に、すぐ恭順の意を示してました。
将軍である慶喜が新政府に従う意思を示していたため、その決断を重んじたのです。
宗家の尾張藩や土佐藩の前藩主・山内容堂など新政府とのパイプを持つ諸大名を通じ、幾度も敵対心がないことを伝えており、
それでも、会津藩が最後に選んだのは、新政府との戦いでした。
というのも、江戸開城後も旧幕軍の戦力は強大で、東北に逃れた佐幕派や容保の家臣には、徹底抗戦を主張する者も多かったのです。
容保は、これら旧幕派を抑え込むことができず、開戦やむなしの状況に追い込まれていったのです。
それに幕府が恭順したといっても、新政府はそれを認めようとはしませんでした。
前述のように、会津藩は京都守護職として多数の志士を処罰し、禁門の変では長州藩の攘夷遂行を阻止していました。
長州藩からすれば、宿敵そのものです。
鳥羽伏見の戦い後には仙台藩に会津攻撃を命令するための参謀を派遣するなど、具体的な行動に移ってもいました。
薩摩藩や他藩にしても、最大の佐幕派である会津藩を野放しにすれば、旧幕派のよりどころとなる懸念があり、先述のとおりその予想は的中しています。
そんな中、仙台藩に派遣された長州藩参謀・世良修蔵は、会津を擁護する奥州諸藩の意見をことごとく無視。
攻撃中止の絶対条件として、容保の処刑を突きつけました。
こうなっては感情的になるのも無理はありません。
激怒した仙台藩士が世良を暗殺したことをきっかけに新政府への反感が東北中に広まり、慶応4(186S)年5月6日、東北諸藩が集まって奥羽越列藩同盟を結成。
そんな理由から戦争を決断するしかありませんでした。
こうして5月ごろより新政府軍と列藩同盟による「会津戦争」は開戦しました。
しかし、会津軍は財政難によって近代化が遅れ、兵装の大半が刀剣のまま。
約1万人の会津軍は各地で敗走を重ね、熾烈な籠城戦の末、9月12日に容保は降伏を決断しました。
いかに封建制の世の中とはいえ、藩主の一存で藩の行く末を決めることは、不可能だったのです。
2021年【大河ドラマ】松平容保観光スポット
松平家の歴代藩主が眠る、山腹の広大な史跡
住所 | 〒965-0813 福島県会津若松市東山町大字石山字墓山 |
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電話番号 | 0242-39-1305 |
アクセス | バス停「院内」から松平家墓所入口まで徒歩5分 |