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皆さんご存じ幕末の英雄坂本龍馬ですが、皆様はどのような印象でしょうか。
教科書や大河ドラマ「龍馬伝」で福山雅治さんが演じたかっこいい男というイメージがあると思います。
そして、時代を動かした重要人物であると、常識となっているのではないでしょうか。
今回はどこでも書いてあるような坂本龍馬のイメージとは違う最終研究で分かった坂本龍馬の新事実を解説します。
最後まで見ていただければ、坂本龍馬のイメージが変わります。
是非ご覧ください!
坂本龍馬の船中八策が大政奉還の基礎となったというのはウソ
幕末の混乱期を疾風のように駆け抜けた風雲児。
それが坂本龍馬のイメージです。
犬猿の仲だった長州藩と薩摩藩からなる「薩長同盟」の締結に奔走し、新政府の草案である「船中八策」をつくって「大政奉還」の基礎を構築。
さらには海援隊を組織して貿易や海運業にも精を出した、まさに近代日本の先駆けとなった偉人である。
しかし、真実とはことなるようなのです。
現在、龍馬が行ったとされる数々の逸話には、疑問が残されています。
特に「船中八策」は原本が見つかっておらず、龍馬がつくったという証拠もありません。
薩長同盟の功績も評価が変わってきており、歴史の大きな流れからみれば、裏方だったとするのが現在の主な見方となっています。
薩長の裏方だった策士
坂本龍馬は、幕末の志士の人気投票において、必ず上位に名前が挙がるほどカリスマです。
土佐藩の郷士(下級武士)の家に生まれながら、その才覚と行動力を生かして数多くの難問を解決。
政治だけではなく、現在でいうところの貿易商社兼海運業者でもある海援隊を設立し、商才も発揮して近代日本の基礎を築いたとされてきました。
しかし現在、龍馬にまつわる逸話には多くの疑問が残されており、決して幕末のヒーローではなかったというのが有力な見方になっています。
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坂本龍馬最大の功績は、大政奉還の元である「船中八策」を作ったことだが
大政奉還は、土佐藩前藩主・山内容堂が徳川慶喜に進言して実現したが、原案をつくったのは龍馬だとされてきました。
船中策を元に土佐藩士・後藤象二郎が建白書をまとめ、容室に提出した。
それがこれまでの通説です。
しかし、実はこの説には大きな問題があります。
船中八策は原本や写本が存在せず、それどころか、存在を示唆する同時代の史料もないのです。
元海援隊の長岡謙吉が書いたという「海援隊日史」にも記述はないし、後藤象二郎が龍馬の影響で大政奉還案を披露したという史料もありません。
実際に「船中八策」という言葉が登場するのは、大正になってからです。
他の史料から、龍馬が大政奉還後の政体構想を持っていたことはわかっているが、現在伝わる船中八策がその構想だという、確かな証拠はないのです。
また、薩長同盟の仲介についても、その役割は限定的だったようです。
実際の交渉は薩長の藩士のみで行われており、龍馬は数ある調整役のひとりで決定的な役割は果たしていなかったとされています。
実際の龍馬は、一言で言えば薩長の裏方でした。
龍馬は西郷隆盛と関係が深く、薩摩藩の意に従って行動することが多かったのです。
重要会議の段取りや日程を調整して、武器商人グラバーを通じて大量の武器弾薬を薩長軍に用意する。
そんな役割を遂行すべく結成されたのが、海援隊でした。
そしてこの海援隊でトラブルが起きたとき、龍馬は英雄にあるまじきハッタリをかまして場をしのいでいます。
慶応3 (1867)年4月、海援隊が借りていた「いろは丸」が、現在の岡山県笠岡諸島で紀州藩(和歌山県)の軍艦明光丸と衝突。いろは丸は大破して沈没しました。
事故はいろは丸側の過失もあったが、龍馬は国際法である万国公法を持ち出して紀州藩の過失を追及している。
龍馬の言い分はこうだった。
いろは丸には8万両(現在の価値で約164億円)相当の銃火器や金塊が搭載されていた。それが明光丸の過失で沈んだのだから、国際法に基づき、きちんと賠償してもらわなければならないんですけど・・・。
国際法に疎い紀州藩側は龍馬の弁舌巧みな交渉術に翻弄され、同額の賠償金を支払うことで決着しました。
しかし、1980年代にいろは丸の船体が海底で発見されると、龍馬のハッタリが明らかになりました。
このとき行われた潜水調査の結果、龍馬が主張した銃火器などは確認されなかったのです。
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坂本龍馬は薩長を仲介したから寺田屋で襲われたというのはウソ
坂本龍馬は、妻お龍のおかげで、死の危険から逃れることができた。
事件が起きたのは、薩長同盟成立の2日後のこと。伏見奉行は同盟の仲介者となった龍馬へ報復すべく、寺田屋に役人を派遣した。
しかし宿を密かに取り囲もうとした役人の動きをお龍は察知。
入浴中だったが構わず、裸のまま龍馬にその危険を知らせた。
結果、龍馬はなんとか防戦して寺田屋を脱出し、薩摩藩の屋敷に逃げ込むことができたのである。
とされ、ドラマや映画でもこのように描かれていますが真実は異なります。
お龍が龍馬を助けたのは事実だが、裸で龍馬に危険を伝えたというエピソードは後世の創作です。
また、薩長同盟が結ばれたことは幕府に漏れていなかった可能性が高いため、襲撃が
「薩長同盟を仲介した龍馬への報復」
という説は、現在では否定されています。
坂本龍馬を救った姿と役人達の真意
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前項でも紹介した通り、坂本龍馬に関する誤解は少なくありません。
京の宿屋「寺田屋」における龍馬襲撃事件も、その一つです。
事件が起きたのは、慶応2(1866)年1月23日のこと。
龍馬は薩摩藩士だと身分を偽り、長府藩士の三吉慎蔵と寺田屋に潜伏していたが、この情報が伏見額奉行の耳に届いてしまう。
そこで伏見奉行が配下に龍馬捕縛を命じると、捕方およその人が集まり、宿を包囲しようとしました。
この絶体絶命のピンチに気づいたのが、入浴中だった妻のお龍です。
裸であることも気にせずお龍が危機を知らせたことで、龍馬はなんとか命をとりとめることができた。
そんな風に思われているが、実は史実と若干異なります。
薩長同盟が締結されたのは、同年1月21日。
襲撃事件が起きたのがその2日後だから、同盟がばれていたとすれば幕府はなんらかの対策を講じていたはずだが、そのような痕跡は残っていません。
そうなると、伏見奉行が龍馬の捕縛を命じたのは、薩長同盟締結の情報が漏れていたからではなく、指名手配中だった龍馬が見つかったからだと考えた方が自然です。
一方、お龍が役人の動きを察知して龍馬に知らせたことは、複数の一次史料で確認されています。
「此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりけり」
と龍馬ものちに語っており、お龍の働きがあったという話は信憑性が高い。
しかし、
「裸で龍馬を助けた」という話は明治後期以降の創作である。
お龍の逸話が世に広まったのは、坂崎紫瀾が明治6(1883)年に執筆した伝記小説『汗血千里駒』の影響です。
「入浴中に物音を聞いたお龍が外を見ると、役人が迫っていたので浴衣を急いで打ちかけた」
と書いたこの書籍がベストセラーとなったことで、寺田屋遭難の逸話は世間に広まりました。
この記述が元になって、
「お龍は裸で龍馬に駆けつけた」
という話へと変わっていったのです。
もちろん、『汗血千里駒』はフィクションであり、お龍本人が
「間違いが多すぎる」
と嘆いたほどなので、史料として読むには適していません。
では、実際にはどのような状況だったのか?
お龍本人の証言をまとめた『千里駒後日譚』では、
「人浴中に外から肩先へ槍を突き出されたので大声で一喝した。濡れた体に着物をひっかけて、帯も締めず庭に飛び出たところ、外に役人たちがいたので応対してから龍馬のもとへ向かった」
とある。
また、事件後に龍馬が兄に宛てた手紙には
「この前に話した妻が勝手口より駆けつけていうには」
と書かれています。
これらの記述から考えれば、事件時にお龍は服を着てから庭に出て、そこから勝手口に回って助けに走った、ということになります。
緊急時とはいえ裸で駆け回るのは、さすがにためらわれたようです。
ちなみに2008年ごろまで、寺田屋は当時のまま現存していると宣伝されていたが、調査の結果、再建されていることが明らかになりました。
江戸時代の寺田屋は、現在の場所から東寄りの地に建っていたようです。
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坂本龍馬のように脱藩すると必ず死罪になったというのはウソ
脱藩とは文字通り武士が藩を抜けることだが、それは主君への裏切りを意味する犯罪行為でした。
捕縛されれば重罪になるのはもちろん、残された家族や一族も罪に問われ、お家断絶になることも少なくなかった。
しかも、藩を飛び出すことができても、関所で封鎖された街道の移動は困難で、いつ捕まるかわからない不安定な状態だった。
最新研究でここまでわかった真実とは
正規の手続きを踏めば合法的に脱藩をすることは可能であり、仮に許可なく脱流をしても、微罪で済ませられることは珍しくありませんでした。
また、関所は機能を半ば失っていたため、脱藩後の移動は比較的容易となっていました。
認められていた脱藩の権利
坂本龍馬や中岡慎太郎、高杉晋作など、幕末には志を遂げようと群を抜ける志士が多数いました。
また生活苦から脱藩し、新選組のような浪人隊に参加した者も多かったのです。
収入がゼロとなってはしまうが、自由な活動のためならばと、脱藩者は増えていきました。
しかし、どんな理由があるにせよ、封建社会において藩を抜けるということは、君主に弓引く重罪です。
それに藩士の離脱は情報漏洩にも繋がりかねないため、多くの藩では脱藩者に対して死罪や御家取り潰しなど、厳しい罰を設けていました。
ただし、すべての藩が死に相当するほど厳しい処分を下したわけではありません。
幕末には長州藩士が西へ東へ飛び回って尊王攘夷運動に勤しんでいたが、彼らが活動できたのは、脱藩に寛容だった藩の方針も影響していた。
たとえば、長州藩士である吉田松陰は22歳のときに友人との東北見聞を計画していたが、移動許可がなかなか下りなかったので、藩に黙って東北へと旅立ってしまいました。
無許可の旅行は脱藩に相当するため、普通に考えれば死罪です。
しかし、長州藩は松陰を江戸で捕えたものの、命までは奪いませんでした。
武士身分と収入が没収されたものの、藩主の計らいで10年間の国内遊学の許可が下り、かえって学びの場を広げています。
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また、松陰の弟子で奇兵隊の創設者、高杉晋作は脱藩の常習犯としても有名で、5回以上も藩を抜けました。
それでも処分は短期間の投獄と謹慎で済んでいました。
他の脱藩者も黙認されたり微罪で済まされたりして、死罪になった志士はほとんどいませんでした。
そして他の藩でも脱藩を黙認するケースは珍しくありませんでした。
脱藩が増えた背景には、各地に設けられた関所機能が崩壊していたことが挙げられます。
江戸時代初期は関所が機能し、自由な移動が難しかったが、幕末のころには資金不足等で関所の管理がずさんになっていました。
もちろん、箱根などの要所は厳重に管理されたが、なかには藩の境を示す杭が打ってあるだけの場合すらありました。
そのため、脱藩後の行動にも過度の支障はなかったと考えられます。
もちろん、土佐藩のように脱藩者を厳しく取り締まる藩もありました。
犯罪者として指名手配され、潜伏生活を余儀なくされた者も数多いのです。
龍馬も藩主に罪を許されるまで、1年近くも表社会には出られませんでした。
ちなみに、実のところ罰せられるのは無断で脱藩した場合であり、合法的に藩を抜けることも可能でした。
詳細な手続きは藩によって異なるが、基本的には上司に藩籍から離脱する意思を示して身辺調査を受け、問題なしと判断されたら藩から抜けることができたのです。
ただし、吉田松陰の例をみるとわかるとおり、身辺調査には時間がかかるうえに、許可が必ず下りるとも限りませんでした。
責任ある役職に就いている者なら、機密保持の観点から認められることはまずありません。
そのため無断で脱藩するケースが多かったようです。
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