大河ドラマ『青天を衝け』をご覧になりたい方はこちら↓
武田耕雲斎(たけだこううんさい )という人物とは?
2021大河ドラマ『青天を衝け』では名優津田寛治さんが演じております。
2021大河ドラマ『青天を衝け』ではたびたび名前が出てきており、これからどうなっていくのか気になっている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
これから起きる朝廷との争いに大きく関わる水戸天狗党の首領武田耕雲斎(たけだこううんさい )。
そして一橋家に入ることになる渋沢栄一、渋沢喜作とも大きく関わる出来事となります。
今後の2021大河ドラマ『青天を衝け』を楽しむうえでも知っておくと面白くなること間違いなしです。
是非、最後までご覧ください。
武田耕雲斎(たけだこううんさい )朝廷に志を訴えようとした水戸天狗党の首領
名は正生。
官職を引いた後、耕雲斎を名乗ります。
1803年、跡部正嗣の子として生まれ、跡部家宗家を継ぎ、このとき藩主の許しをもらい、甲斐武田氏の末裔として、姓を武田に改めました。
小姓を経て、1829年に使番となります。
※使番(つかいばん)とは、江戸幕府および諸藩の職名です。古くは使役(つかいやく)とも呼ばれていました。その由来は戦国時代において、戦場において伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職である。
徳川斉昭を藩主にするため奔走するなど、藩内の改革派として活動します。
1840年、若年寄として政に参加。
1844年、斉昭が幕府から隠居謹慎を命じられると、これに反対の意を示したため、翌年ともに謹慎を命じられました。
1849年、斉昭の復帰にともない、藩政に返り咲きます。
1856年執政に任じられ、尊王攘夷の重鎮として活動しますが、同年罷免。
1860年執政に再任。
※執政(しっせい)は. 国家または領土において政務を執ること、またはその職掌・職名のことをいいます。
1861年英広公使館襲撃事件などで謹慎、翌年謹慎解除後、また執政に就任し、この間目まぐるしく状況が変化します。
1863年一橋慶喜に随行して上京。
1864年伊賀守に任じ、同年藤田小四郎ら天狗党により筑波山挙兵が行われると、領内取り締まりの不行き届き理由に執政を罷免されます。
また、市川弘美(三左衛門)らの門閥政治に反発し、一族を率いて出府を企てたが失敗します。
慶喜の名代として藩内鎮静のため水戸に向かう宍戸藩主・松平頼徳に随行するが、水戸入城を市川らに阻止されたため、陣を敷いて交戦しました。
天狗党の乱では、当初小四郎らの行動を時期尚早といさめでいましたが、小四郎らに天狗党首領に推され筑波勢に合流
同党を再編し、在京の慶喜をたよって志を訴えるため、約800名の兵を率いて京を目指します。
西上の途中、諸藩と交戦。
苦戦を強いられながら行軍を続けたが、力尽きて加賀藩に降伏。
1865年、敦賀で小四郎らとともに斬首されてしまいます。
このとき処刑された天狗党員はなんと350名以上とされています。
また、乱後、水戸藩では天狗党の家族らもことごとく捕縛されました。
耕雲斎は、斉昭の影響を受け尊王攘夷思想を掲げていたが、もともと、武力による過激な攘夷には消極的だったといわれています。
武田耕雲斎(たけだこううんさい )渋沢栄一との関係とは?
天狗党党員に同情的だった渋沢栄一
武田耕雲斎率いる天狗党が慶喜を頼って上京する折、天狗党の中のいくつかの集団が、栄一の故郷血洗島を通過しました。
その際二人の天狗党員が、幕命が下っていた岡部藩の役人につかまり、打ち取られました。
天狗党は幕府に対する逆賊だったということもあり、血洗島の村人によって墓碑もなく葬られたが、明治になり天狗党の復権がかない、2人の名誉を回復させるため、栄一は1918年に正家の「中の家」の近くに石碑を建立しました。
この「水藩烈士弔魂碑」は栄一の撰書によります。
また、石碑の隣にある石地蔵は1860年東の家3代目渋沢宗助らによって建立。
今も深谷市の観光名所として多くの人々が訪れています。
薬師堂・水藩烈士弔魂碑
水藩烈士弔魂碑は、天狗党浪士2名が葬られた地で大正7年に渋沢栄一撰・書により建立されました。碑の隣にある石地蔵は安政7年、東の家3代目の渋沢宗助らにより建立されました。
薬師堂
〒366-0006 埼玉県深谷市血洗島229
大河ドラマ『青天を衝け』をご覧になりたい方はこちら↓
武田耕雲斎(たけだこううんさい )島村藤村の名作に?
島村藤村の名作に天狗党の乱の行軍の記述があった
天狗党西上軍の首領として苦難の道を進む武田耕雲斎。
頼みの慶喜が逆に自らへの討伐軍を贈るに及んで、慶喜に弓を引くわけにはいかないと降伏し、天狗党の最後は悲劇に終わりました。
その模様は、明治の文豪島村藤村の名作
「木曽路はすべて山の中にある」
の書き出しで有名な
「夜明け前」
に、馬籠宿、落合宿を通過し、木曽路を行く天狗党の一行として詳細に描写されています。
「その人数は少なくとも800人の余であった。水戸領内の郷校に学んだ子弟が、なんといってもその中堅を為す人たちであったのだ」
『夜明け前』より
とあり、耕雲斎や藤田小四郎の姿も描かれています。
また天狗党が分宿した落合宿にはこの地で斬首された天狗党員の1人、熊谷三郎ぼ墓標が建っており、地元の人々によって供養が続けられています。