現在大河ドラマで描かれている渋沢栄一にも、西郷隆盛や大久保利通ら日本近代化にも、大きく影響を与えた黒船来航。
イメージとは違う意外と知らない事実があります。
今回はペリーという人物について解説していきます。
2021年【大河ドラマ】ぺリーが強行的な性格だったため日本は開国したというのは事実ではない
ぺリーが強行的な性格だったため日本は開国という通説
黒船艦隊の提督マシュー・ペリーは、好戦的なアメリカ海軍の軍人です。
幕末の浦賀湾に来航したペリー率いるアメリカ艦隊は、その圧倒的な武力を盾に、幕府に開国を要求。
大砲などによる脅迫ともとれる威嚇行為によって、ペリーは幕府の恐怖心をあおりました。
こうしたペリーの荒々しい性格が影響して、日本の開国は加速することになったのです。
しかし最新の研究では事実とは少し異なります。
事実はぺリーが強行的な性格だったため日本は開国したのではない
日本を威圧したのは本国の命令によるもので、ペリーが特別好戦的でも、人命を軽視していたわけでもありません。
むしろ船員に自衛目的以外の武力行使を禁じるなど、冷静で現実的な一面も持っていました。
2021年【大河ドラマ】ぺリーは冷静なリアリストだった開国の立役者
嘉永6(1853)年6月3日、日本の浦賀湾に突如4隻のアメリカ船が出現しました。
いわゆる黒船来航です。
アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の船舶は、日本に開国迫を迫ってきました。
アメリカ船の来航は初めてではなかったが、黒船来航が特別視されるのは、艦隊指揮官のマシュー・ペリーが、軍事行使すら辞さない強気の態度をとったからだろうといわれています。
ペリーは幕府に無断で江戸湾を測量し、国書の受け取りを拒否すれば武力行使も辞さないと浦賀奉行を脅迫。
さらには江戸城に向けて空砲を放っています。
こうした攻撃的な態度から、ペリーは粗野で好戦的な人物だという印象を持つ方もいるかもしれません。
確かに、ペリーが武力を背景に日本を開国させたことは事実だし、
琉球占領を視野に入れるなど、手荒な手段も考えていました。
しかも、大統領から
「交渉はできる限り穏便に」
と命令を受けていたにもかかわらず、ペリーは日本を恫喝しています。
しかし実際にペリーが武力に訴える可能性は、極めて低かったのです。
軍事的威圧は、西洋諸国が過去に重ねた失敗を踏まえて考え出した戦略だったからです。
ペリーが日本を訪れる50年以上前から、欧米諸国は開国を求めて日本近海にやってきていました。
しかし、幕府は態度を軟化させはしたものの、外国船を警戒して要求をのもうとはしませんでした。
そこでペリーは、イギリスの軍事的圧力に屈した清国のケースを参考に、武力を盾に日本を脅して要求をのませようとしたのです。
(それでも当時の日本人はその圧倒的武力に恐れを抱いたのではないかと思いますが・・・)
日本を空砲などで威嚇したものの、乗組員には日本側が危害を加えない限りは武器の使用を禁じるなど、はじめから武力を使う気はありませんでした。
ペリーがそこまでして日本との開国を急いだのは、太平洋におけるアメリカの影響力を強めるためだと考えられています。
中国市場へ向かう商船や太平洋で活動する捕鯨船にとって、日本は絶好の中継地点でした。
アジア交易でイギリスやフランスに後れをとっていたアメリカからすれば、
日本開国というアドバンテージを両国にとられることは、避けたかったのです。
だからこそペリーは、アメリカの手で交渉を成功させるため、強硬な手段を選んだと考えらます。
2021年【大河ドラマ】ぺリーはどのような人間で、日本にくる以前は何をしていたの?
ところで、ペリーは当時の西洋人と同じく、西洋文日本 = 半文明国という認識を持っていました。
そのため人種的な偏見を持っていると思われることがあるが、実は本国アメリカにおいて、ペリーは黒人奴隷の解放運動に力を入れていました。
ペリーが20代のころ、アメリカでは奴隷制が崩壊し、黒人奴隷をアフリカに返還しようという運動が活発化していました。
わたしははこれに賛同し、船団を指揮して黒人をアフリカへと送り届けています。
このとき造られた町が、現在のリベリアです。
同国では今でも、ペリーは建国の立役者として尊敬されているらしいです。
その後はメキシコ戦争に従軍して功績を残し、アメリカの勝利に貢献。
占領地の民政でも手腕を発揮しました。
このような功績を認められたからこそ、日本への使者という大任に選ばれたのです。
このエピソードからもしもペリーではなかったらもっと大変なことになっていて、日本にとって良くない方向になってしまっていたことでしょう。
2021年【大河ドラマ】ペリー来航が開国の決定打ではない!
開国の決定打の通説
鎖国の影響で海外情勢に疎かった江戸幕府にとって、黒船来航は予想外の出来事でした。
浦賀湾に現れたペリー艦隊は、圧倒的な武力を盾に、アメリカ大統領の国書受け取りを幕府に要求。
準備不足の幕府にこれを拒むすべはなく、ペリーの要求に屈して国書を受け取ったのです。
しかし最新研究では少し事実とは違うようなのです。
開国の決定打の真実
久里浜の応接所へ向かうペリー一行ペリーが来る10年以上前からアメリカ船は日本に頻繁に来航しており、幕府に通商を求める船団も訪れていました。
イギリス船やロシア船の来航も増えていたため、幕府はオランダや清国を通じて海外の情報を精力的に収集していました。
こうした情報によって、幕府は黒船来航に備えて対策を練り、有力老中の間ではすでに開国を検討する段階にまでなっていました。
2021年【大河ドラマ】予想されていたペリーの来航
鎖国を続けた日本に突如ペリーが来航して、幕府は慌ふためき開国を強要された。
黒船来航に接した幕府の対応を、そのように捉えている人もいるかもしれません。
しかし、そうしたイメージは明治時代以降につくられたもので、実際には、幕府はペリーがやってくることを事前に察知していました。
情報を提供したのは、オランダです。
オランダは、長崎の商館を経由して幕府にペリー来航を警告。
アメリカ使節がやってくる1年も前に幕府に警戒するよう呼びかけ、ペリーの年齢や乗組員の人数まで伝えていました。
また、ペリーが来日前の嘉永6(1853)年5月9日に琉球王国へと上陸していたことも、幕府は把握していました。
琉球との貿易権を得ていた薩摩藩から報告があったためです。
6月3日にペリー一行は浦賀に到着するが、すでに幕府にとって、このペリー来航は周知の事実だったのです。
そもそも、日本に開国を求めたのはペリーが初めてではありません。
すでに黒船来航の半世紀以上前に、日本と通商交渉をした外国がいくつかありました。
実は最初に交渉を求めた国は、ロシアです。
ロシア船は蝦夷地に来航して通商を要求したが、対応した松前藩はこれを拒否しています。
この出来事が起こったのは安永7(1778) 年のことである。
もちろん、これで外国船の来航が減ることはありませんでした。
むしろ、アジアに市場を拡大するため、エネルギー源の鯨油確保を狙うため、欧米諸国の船舶は、日本近海に頻繁に出没するようになっていきます。
文政8(1825)年には武力による外国船撃退を許可する
「異国船打ち払い」
で海防強化を狙ったが、この令は1842年に緩和され、物資を与えて穏便に帰国を促すようになっています。
私ペリーが来航の7年前にはアメリカ海軍のビッドル提督の艦隊が浦賀湾に来航し、大統領の親書受け取りを求めるなど、のちに私が行うこととよく似た行動をとっています。
こうした経験から、再び交渉役が来ることを、幕府は容易に想像できたでしょう。
幕府が開国を決断したのはペリーとの交渉後だが、弘化2(1845)年9月に老中首座となった阿部はその何年も前から開国はやむを得ないと考えていました。
アメリカ船が漂流民の受け渡しで訪日した際に将軍を説得して浦賀湾への入港許可を出しているように、黒船来航の8年前には方針を固めていたものと思われます。
海外を意識して、海岸防禦御用掛を常設機関として設置して外交・国防政策を強化し、開明派の大名や幕臣の意見を容れるという柔軟な対応もとっています。
ペリーが来日すると、上層部の対応は冷静でした。
徳川斉昭の支持を取り付けて国書を受け取り、半年後の再来航でも国内世論の統一を図りながら交渉団を指導。
条約締結がスムーズにいくよう力を尽くしたのです。
2021年【大河ドラマ】ペリー観光スポット
ぺリー公園
久里浜公園・広場名所・旧跡久里浜海岸のペリー公園内にはペリー上陸記念碑があります。
この碑は、日本の開国を求めて来航したアメリカ海軍提督マシュー・カルブレイス・ペリーが嘉永6年6月9日(新暦1853年7月14日)に久里浜海岸に上陸したことを記念して建てられたものです。
INFORMATION基本情報
- 住所〒239-0831
- 横須賀市久里浜7-14 アクセス京急久里浜駅からバス「野比海岸行」(約10分)「ペリー記念碑」下車料金無料定休日休館日 月曜日
- 休日の翌日(その日が月曜日にあたるときは火曜日)
- 12月29日から翌年1月3日まで駐車場無し公式サイトhttp://www.kanagawaparks.com/kurihama-perry/perry/
- お問合わせ046-834-7531(ペリー記念館)