今後大河ドラマ『青天を衝け』では、幕末・明治期の偉人:大隈重信(おおくましげのぶ)は、どのように登場していくのでしょうか?
大隈重信(おおくましげのぶ)とは?どんな人物で何した人物なのか?
名前は知ってても意外と知らない大隈重信(おおくましげのぶ)という人物。
そして渋沢栄一とどのように関わっていくいくのか?
是非最後までご覧ください。
大隈重信(おおくましげのぶ)とは?
1838年~1922年
佐賀藩士・政治家
佐賀藩士の上士身分の家に生まれます。
幼いころより藩校・弘道館が学びますが、学制改革を試みて放校(退学的なもの)となり尊王派の義祭同盟に加入。
蘭学寮に入舎後、長崎でアメリカ人のフルベッキから英語を学びました。
1865年に長崎に英語の学校の致遠館を設立します。
1867年、副島種臣とともに脱藩し、徳川慶喜に大政奉還を進めるために上京するが、捕まり謹慎処分を受けてしまいます。
※これはうっかりというわけじゃなく厳しい取り締まりがゆえに捕まってしまったのです
翌年明治新政府に参加し、徴士参与・外国事務局判事となり、浦上教徒事件の処置をめぐる英国使パークスとの論争で評価を高めました。
浦上教徒事件とは?
幕末・明治初期における浦上キリシタンへの弾圧事件のことをいいます。
木戸孝允に徴用され、大蔵大輔や民部大輔となり鉄道の整備や財政改革などを推進しました。
渋沢栄一ら若手官僚が集まった大隈邸は、築地梁山泊と呼ばれました。
1870年に参議の昇進し、岩倉使節団の留守中の政府で存在感を示します。
征韓論は反対の立場をとって1873年大蔵卿に就任。
大久保利通を補佐して、地租改正を進めました。
地租改正とは?
明治政府が実施した、土地や税制改革のことを 地租改正 といいます。「地租」とは「土地にかかる税金」のことで、江戸時代においては、お金ではなく お米 が税として納められていました。
木戸孝允や大久保利通が亡くなった後、藩閥政治の色が濃くなり、自由民権運動が高まりを見せる中、1881年に、国会開設意見書を提出。
英国を参考にした政党内閣制と国会の即時開設という急進的な主張と、北海道開拓使官有物払い下げに反対したため政府から排除され、参議辞任に追い込まれました。
翌年立憲改進党を結成して党首となります。
また、東京専門学校(現在の早稲田大学)を開学しました。
その後、第一次伊藤、黒田両内閣で外務大臣を務め、条約改正交渉にあたりますが、治外法権撤廃問題で厳しい批判を受け、爆弾を投じられ右足を切断してしまいます。
そして外相を辞任します。
松方内閣で外務大臣として再登板した後、1898年に板垣退助の自由党と合同して憲政党を結党。
初の政党内閣を誕生させ、内閣総理大臣となりますが、4か月で退陣。
いったん政界からは身を引きますが早稲田大学総長の就任をはじめ、文化事業にも貢献しますが、1914年政界に復帰して、第二次大隈内閣を作ります。
翌々年の辞職を機に政界から完全に引退します。
大任の時には78歳6か月で、今でも史上最高齢ランキング一位の首相です。
そんな大隈重信は2021の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一とはどんな関係だったのでしょうか。
大隈重信(おおくましげのぶ)と渋沢栄一との関係とは?
八百万の神様を持ち出して栄一を口説いた
渋沢栄一が民部省租税正になったときの民部・大蔵大輔だったのが大隈重信です。
維新の改革のとき八百万の神が天安河原(あまのやすがわら)に集まったように新しい政府をつくるので、その神の一つの柱として新政府に加わらないか?
と栄一を説得。
そしてそれは後に栄一も事実として語っています。
大隈重信から見た渋沢栄一は
「まことに利己的あらずして他を利してやる。自らを愛すると同時に人をも愛する」
と語っています。
栄一は後年大隈重信と50年に渡り親交していた理由を、不満足なことがあっても、事情が分かれば誤解が消えて、お互い敬意を欠くことがないからだ
大隈重信(おおくましげのぶ)に人物像と五大友厚とのエピソード
「威圧的な覇気」を放っていた雄弁家の大隈重信。
親しい仲だった五大友厚からは、
どんなにくだらない意見だったと思っても人の話は最後まで聞いてあげること
などと書かれた忠告書
「短所五か条」が送られているが、若いころは柔軟で
「随分能く他人の意見に耳を傾けられ善しとみれば採用するに躊躇せられなかったものである」
と渋沢栄一は語っていました。
字を書かず、著作も口述であった大隈重信だが、その記憶力の良さを栄一や元新聞記者で政治家の関直彦ら多くに人が振り返っています。
実は政治家としては豪快なイメージですがメロンの栽培や盆栽を愛する園芸好きだったという意外な一面も持っています。
晩年には自宅でメロンの品評会を開き、新品種「ワセダ」をつくりだしたいいます。
政界と距離をとっていた時期は国から満足な支援を受けられなかった白瀬南極探検隊の後援会長にもつきました。
大隈重信(おおくましげのぶ)が後援会長に就いた白瀬南極調査隊とは?
人類が初めて南極大陸を発見したのは1820年のことです。
1830年代~1910年代から、北極と南極という二つの場所への関心が高まり、各国の探検家が極地探検を志しました。
日本では、江戸時代に最上徳内(宝暦4 - 天保7)や間宮林蔵(安永9 - 天保15)が蝦夷地・北方探検を行いましたが、明治維新という激動の時代においては、極地探検まで目が向けられませんでした。
白瀬 矗(しらせ のぶ/文久元 - 昭和21)は、少年時代に師から北極探検の話を聞いて探検家を志しました。
しかし、明治42(1909)年、アメリカの探検家ロバート・エドウィン・ピアリー(Robert Edwin Peary/1856 - 1920)が北極点に到達したことを知り、目標を南極へ転換します彼は明治43(1910)年11月29日、南極探検隊隊長として「開南丸」で東京芝浦を出航、南極へ向かいました。
そして南極には白瀬が命名した大隈湾があります。
大隈重信(おおくましげのぶ)大誤算!見込み違いで紙幣を大量に破棄
大きな混乱もなく成し遂げられた……と明治維新には、そんな誤解が付きまいますが実際には混乱だらけ。
貨幣一つとってもいかにトラブルが多かったか歴史が証明しています。
日本初の全国通用貨幣である「太政官札」が失敗に終わり、発案した三岡八郎(由利公正)はいったん政治の表舞台から姿を消します。
太政官札とは?
明治政府が1868年(明治1)閏4月19日発行を布告した不換紙幣(5月15日から発行)。
日本最初の全国通用の政府紙幣。政府はこれを藩や人民に貸し下げ,産業を興す資金にしようとしたが,実際には,その約3分の2は財政が窮迫した政府の軍費や行政費の支出に用いられた。
この発行は参与兼会計事務掛三岡八郎(福井藩士,のち由利公正と改称)の建議に基づいている。当時政府の信用は弱く,しかも次々に増発したので正貨より低価でしか通用せず,当初は流通しない地域もあった。
また製造が粗末なため,国内や清国で偽造された贋札(にせさつ)があらわれ,さらに信用を落とした。10両,5両,1両,1分,1朱の5種の紙幣からなり,69年5月まで製造され,製造総額は4800万両にのぼった。
1869年2月,政府は少額太政官札の不足を補うために新たに2分,1分,2朱,1朱札からなる民部省札を発行したが,廃藩置県で増大した経費支弁のため,民部省札と交換回収した太政官札をふたたび流通させたので,不換紙幣の流通量はさらに増加した。
71年12月,政府はドイツに委託して製造させた精巧な新紙幣の発行を布告し,翌年2月から太政官札はじめ民部省札,各種藩札などとの交換を開始した。
また73年3月,所持者の希望に応じ太政官札を公債に引き換えることとした(金札引換公債の発行)。
これらの措置によって,太政官札は,79年10月すべて回収された。
エキサイト辞書
【太政官札】とは・意味 | エキサイト辞書 (excite.co.jp)
三岡にかわって政府の財政担当となったのが、わたくし大隈重信です。
会計官御用掛となった大隈は「円・銭・厘」という新貨幣を誕生させます。
新貨幣の特徴として、まず円形であることが挙げられます。
従来の角形の紙幣は、角があり摩耗しやすく使いづらい。
利便性を考えて、円形がとられました。
次に、数え方です。
「1両」は「4分」であり、「16朱」でもあるのだが、こういった四進法は計算が不便です。
十進法をとったほうがよいだろうとされました。
なお、「円」と名付けられた理由は諸説ありますが、「円形だったから」ともいわれています。
今でも私たちが使っている円い貨幣には、さまざまな意図や意味が込められています。
しかし、大隈にとって最も大きな課題は「ニセ金を作らせない」ということ。
金銀の貨幣のために、国内の貴重な金・銀を使い果たすわけにはいかない。
限りある金銀を大切に保有するには、紙幣の普及が急務でした。
しかし、紙幣は偽造されやすい。
太政官札の失敗が頭をよぎります。
今度こそ偽造させない――。
そんな明治政府の強い気持ちがかたちになったのが、「明治通宝」です。
明治政府は、日本在住の北ドイツ連邦公使を通じて、ドイツの印刷会社であるドンドルフ社と関係を築きました。
ドンドルフは当時、精密な紋様が刷り込まれたイタリア紙幣を印刷していたため、日本の紙幣もそこで製造してもらおうと考えたのです。
そうしてできた「明治通宝」は、表には、2頭の竜、2羽の鳳風、菊の紋章が、裏には、24羽の千鳥と6匹のトンボに、孔雀が描かれていました。
ここまで細緻な図柄ならば、偽造することはかなり難しそうです。
しかも、今回ばかりは明治政府の対応は慎重でした。
ここから、さらに一部を手書きにすることで、偽造をより難しくしようとしたのです。
手書きで書き入れようとしたのは「明治通宝」という文字の部分です。
ところが、である。1871(明治4)年、ドイツから設立されたばかりの大蔵省紙幣寮へ新札が送られてきたが、その数は7600万枚以上。
対して、集められた書家はたったの5人でした。
全く書家の人数が足りていない。
手書きで書き入れていくことなどできるはずもなく、3日で作業は中断。結局は木版で押すことになりました。
あまりにも見込みが甘すぎるが、
「お金から見た幕末維新」
(渡辺房男)
では、次のように事の顛末が書かれてます。
「15人の書家によってすでに書き込まれた札は5万2000枚に及んでいた。
書家たちの渾身の努力も空しく、これらはすべて破棄処分となった。
多額の国家予算を投入して製造した貨幣が官僚たちの見込み違いによって、紙くずと化したのだ。
今なら、国家での野党側からの厳しい追及にただうな垂れるだけだったであろう」
誤算はそれだけではありません。
海外で印刷すれば、とにかくコストがかかる。
また、西洋紙は破れやすいということも、実際に流通させてから明らかになりました。
結局は、ドイツから機械を購入して、和紙で印刷することになりました。
さらに、あれだけニセ札対策に頭を悩ませたのに、明治通宝のニセ札が出回り始めてしまう。
精微な図柄は真似できなくても、金額の部分を書き替えるという方法が横行したのでです。
金額に応じて紙幣のサイズを変えておけば防げる偽造方法だけに、悔やまれますね・・・
見通しの甘い明治政府の体質が、ここでもまた露呈することになった。
自殺者も出た「松方デフレ」
そんなバタバタを経て発行された「明治通宝」
破れやすいという問題や一部では二セ礼も出たものの、細密なデザインが人気を呼び、乱発された政府紙幣や藩札を統一する紙幣として、庶民の生活に浸透していきます。
そんななか、1877(明治10)年に、西郷隆盛が日本最大の内乱となる西南戦争を起こす。
敗れた西郷が城山で自刃して幕を閉じるが、むしろ、戦争後のほうが庶民への影響は大きかったのです。
西南戦争では、4156万円もの戦費が必要となりました。
これは、1年分の国家予算に匹敵する額です。
当然、そんな財政的な余裕があるはずもありません。
しかも、この時期は税金に頼ることもできませんでした。
農民一揆が西南戦争を盛り上げることを恐れて、政府は地租の税率を3%から2.5%に下げるという、大減税を行っていたからです。
なんとか1500万円は国内の銀行から借り入 れたが、それでも4156万円には遠く及びません。
そこで政府は、自分たちが発行する明治通宝と、銀行が発行する国立銀行紙幣を利用して、何とか戦費を賄ったのである。
財政が苦しくなれば、お金を刷ればいい――。
戊辰戦争と同じことを、西南戦争でもまた繰り返しました。
紙幣を乱発すれば、当然、紙幣の価値は下がっていきます。
ちなみに、紙幣には、金や銀の本位貨幣と交換が保証されている
「兌換紙幣」(だかんしへい)と、
されていない
「不換紙幣」があります。
不換紙幣は、金や銀などと交換することはできないが、政府の信用があるために成立している貨幣です。
私たちが使っているものも含めて、現在の先進国では「不換紙幣」を用いていることになります。
だが、当時はまだまだ国際的にも、金本位制がとられていたため、「兌換紙幣」も発行しなければなりません。
そのため、政府が発行する明治通宝以外に、銀行から国立銀行紙幣を「兌換紙幣」として、1872(明治5)年から発行していました。
ところが、西南戦争で両者を量産したため、国立銀行紙幣も、明治通宝と同じ「不換紙幣」となり、貨幣制度は大混乱をきたしてしまったのです。
紙幣の価値が下がる一方で、農作物の値段は高騰し、日本全国がインフレに見舞われました。
このインフレの進行により公債相場も下落。
受給者だった下級士族たちの生活が一気に苦しくなりました。
このインフレ対策のために、わたくし松方正義が大蔵卿に就任します。
「明治十四年の政変」によって大隈が失脚したため、代わりに表舞台に出てきたのが、松方だった。地租改正がいかに農民の生活を苦しめたかはすでに上記にて書いていますが、
松方はその地租改正を策定したことでも知られてます。
松方いインフレから脱するために、紙幣の整理を行ったほか、緊縮財政をとって軍事費以外の出費を極力抑えました。
さらに、酒税やたばこ税の税率をアップさせ、売薬印紙税、株式取引所仲買人税、醤油・菓子税を新設。
徹底して歳入を増やして、歳出を減らすことで、インフレの解消に全力を尽くしました。
だが、松方は、あまりにも極端にやり過ぎてしまった。
今度は物価の下落、つまり、深刻なデフレを引き起こしてしまったのです。
政府のデフレ政策の影響で、米をはじめとする農産物価格は暴落。
農村部は壊滅状態となり、秋田県、滋賀県、和歌山県では餓死者も出ました。
また、工場の賃金は半分以下になり、無職者が増加。
経済が停滞する中、自ら命を絶つ者も少なくありませんでした。
地租改正で農民を苦しめた松方が数年後、今度はデフレ経済によって農民を苦しめることになったとは何とも皮肉であります。
松方の緊縮財政について「一定の効果を上げた」と評価する声も多いですが、その犠牲はあまり大きかったという見方もあるようです。
大隈重信観光スポット
大隈重信旧宅・大隈重信記念館(佐賀市)
場所/佐賀県佐賀市水ヶ江二丁目11番11号
営業時間/9:00~17:00 (入場は16:30まで)
休/年末年始(12月29日~1月3日)
入館料/大人300円 子ども150円 団体20名以上 大人200円 子ども100円
駐車場/あり 50台(無料)
アクセス/車:長崎自動車道佐賀大和ICから車で20分
JR:JR長崎本線佐賀駅から徒歩30分、JR長崎本線佐賀駅からタクシー利用で10分
バス:佐賀駅バスセンターから、市営バス諸富・川副方面行き乗車。バス停大隈重信記念館入口下車、徒歩3分
問/大隈重信記念館 TEL 0952-23-2891
WEB/http://www.okuma-museum.jp/
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