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江戸幕府最後の幕臣:川路聖謨(かわじとしあきら)大河ドラマ『青天を衝け』ではどのように登場するのでしょうか?
平田満が演じている川路聖謨(かわじとしあきら)は今後どのように描かれるのか。
そのドラマチックな一生を・・・
是非最後までご覧ください。
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川路聖謨(かわじとしあきら)江戸幕府に殉じた最後の幕臣
1801年、豊後国日田の内藤吉兵衛の子として生まれた、下級幕臣・川路三左衛門光房の養子となる。
1817年、17歳で幕府勘定所の登用試験に合格したことを皮切りにメキメキと頭角を表し、寺社奉行吟味物調役、佐渡奉行、奈良奉行時代は興福寺周辺に桜と楓の植樹を呼びかけました。
また、貧民救済に尽力するなど、地元民を大切にしていた。
1852年に、勘定奉行兼海防掛を任じられ、国際条約交渉の第一線に立っていました。
1853年、ペリー来航の翌月、長崎にロシア使節プチャーチンが来航。
条約交渉の全権代表として幕府に抜擢されました。
交渉は「ぶらかし」(のらりくらりと対応して重要な決断をしない事)を方針としたものだったが、プチャーチンは川路の人柄を
「ヨーロッパでも珍しいほどウィットと知性を備えた人物」
と評したといいます。
川路の肖像画を描こうとしたロシア人一行に
「私のような醜男を一般的な日本人の顔だと思われたら困る」
と言って笑わせていたというエピソードが残っています。
翌年の1854年12月、下田で日露和親条約に調印します。
経済力や海運力に差がある場合、貿易が後発国である日本の国内産業が打撃を受けることを危惧しながらの交渉だったといいます。
その後、将軍後継ぎ問題において徳川慶喜を推したため、1858年井伊直弼により西ノ丸留守居に左遷され、翌年には隠居差控が命じられました。
1863年5月に外交奉行に勘定奉行として復帰し、前年の1862年に起こった生麦事件の事後処理にあたるが、病気のため10月に職を辞した。
1866年2月に中風(脳梗塞などの脳血管障害)で倒れ、体の自由を失います。
1868年鳥羽・伏見の戦いの後、申請幕府軍が江戸城総攻撃の日と定めた3月15日の朝、体の自由が利かないながらも武士の作法にのっとって割腹後、ピストルで自殺しました。
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川路聖謨(かわじとしあきら)渋沢栄一との関係
窮地の陥った川路の孫を渋沢栄一の機転で救う
川路聖謨(かわじとしあきら)の孫・川路寛堂(かわじかんどう)は、川路が将軍後継ぎ問題で失脚すると祖父の代わりに家督を継ぎました。
1866年、中風(脳梗塞などの脳血管障害)で寝たきりとなった川路から励ましの言葉を受けてイギリスへ留学するが、1868年に大政奉還(幕府が朝廷に政権を返した)の報を受け、帰国を考えるが渡航費用に困り、渋沢栄一に相談する。
ちょうど来訪していた清水徳川家第6代目当主・徳川昭武(とくがわあきたけ)より資金を得るように指示され帰国できた。
帰国すると川路と娘が亡くなっており、家財が盗まれ無一文になっていたといいます。
中風(脳梗塞などの脳血管障害)の後遺症の影響で体の自由が利かない中、武士の作法にのっとり切腹した後、ピストルで自らとどめを刺しました。
最下級の身分から勘定奉行にまで引き上げてくれた幕府に対し、その恩義に報いるべく、殉じる道を選んだのでしょう。
その後は渋沢から留学経験を見込まれ、1871年岩倉使節団に随行します。
1885年月山学舎を創立し教師に転身しました。
岩倉使節団とは?
日米修好通商条約に規定されている《不平等条約改正の交渉》(治外法権の廃止、関税自主権の回復など)に向けた事前の外交交渉のためにつくられたました。
岩倉具視(いわくらともみ)を全権大使とする遣欧米使節団が横浜港からアメリカに向けて出発します。
川路聖謨(かわじとしあきら)安政の大地震が結び付けた両国の真心
1853年、アメリカから黒船がやってきた1カ月後ロシア使節団のプチャーチンが長崎に来航します。
その対応にあたったのが川路聖謨です。
1度目の来航の際は開港通商の時期に明言を与えぬままロシアに帰国させました。
しかし、翌年11月、伊豆下谷プチャーチンが再び来航した際、安政の大地震に見舞われた。
彼らの艦船・ディアナ号も大きな損傷を受けたが、乗務員は下田の地元民を救助これに感動した川路はディアナ号を修理すべく奔走しますが、沈没してしまいます。
今度は下田の漁民らがディアナ号乗務員を救助、川路は新しい船の建造に全面協力しました。
ディアナ号は3本マスト、2,000トン、52門の大砲と488名の乗組員が乗るロシアの最新鋭の戦艦であり、日米和親条約の締結を聞き、再び国境画定を含む日露和親条約の締結を目的として開国の町下田に来航したのです。
翌年には、両国は日露和親条約に調印し互いの友情をたたえ合いました。
伊豆下田にある下田開国博物館には
「一つは貴殿に、一つは奥方に、一つはご子息に」
とプチャーチンから川路に送られたガラスのコップが3つ展示されています。
下田開国博物館
〒415-0024 静岡県下田市4-8-13
TEL:0558-23-2500
[営業時間]8:30~17:30(入館は17:00まで)
[休館日]年中無休(臨時休館有り)
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