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黒田官兵衛(くろだかんべえ)大河ドラマ主人公戦国時代随一の軍師死因と子孫人物像を徹底解説

更新日:

君主秀吉さえも怖れた天下の奇才 黑田官兵衛 (くろだけんべえ)

播磨出身(現在の兵庫県西部)
1546年~1604年 
豊臣家家臣

[qcld-ichart label="知略,統率,野望,人気,子孫" aspectratio="1" value="10,8,7,8,5" type="bar" title="黒田官兵衛のすごさ" datasetname="詳細" width="300px" backgroundcolor="" bgcolor="'#1e73be','#81d742','#8224e3','#dd3333','#dd9933'" bordercolor="" pointerstyle="circle" linestyle=""]

黒田官兵衛(くろだかんべえ)織田信長の才能を見抜いて早くから臣従を表明する

出家後の名前である黒田如水の名でも知られる黒田官兵衛は、本名を黒田孝高といい、播磨(現在の兵庫県西部)姫路城の城代だった小寺職隆の子として生まれた。

小寺というのは、当時の姫路城主の姓で、父・職隆が賜って改姓していたものである。

よって、若いころの官兵衛も小寺姓を名乗っていた。

16歳のとき、主君に召しだされた官兵衛は、近習として仕えることになる。

若いころから才気あふれていた官兵衛は、22歳のときに父・職隆の隠居とともに家督を継ぎ、小寺家筆頭家老と姫路城城代を務めることになった。

当時、播磨は多くの群雄が割拠していたが、守護職だった赤松氏の衰退とともに毛利氏の支配下に入りつつあった。

しかし、官兵衛は当時東で台頭著しかった織田信長(おだのぶなが)に注目し、三十歳のときに主君を説得して信長に謁見してよしみを通じ、このとき豊臣秀吉(とよとみひでよし)に引き合わされている。

こののち、信長の命で秀吉が「中国征伐」を開始すると、官兵衛は率先して播磨の諸大名を説得して回り、播磨一円は争わずして信長傘下に入った。

ところが、後方支援にあたっていた摂津(現在の大阪府)の荒木村重が信長に反旗を翻し、播磨と信長の勢力圏が寸断されてしまった。

官兵衛は、自ら説得役として村重の居城である有岡城へ向かったが、説得に失敗して地下の土牢に幽閉されてしまう。

信長が村重の討伐を終えた十一ヶ月後、官兵衛は憔悴した姿ながらも救出されたが、厳しい牢獄生活の影響で正常な歩行が困難になっていたという。

一方官兵衛が幽閉されているあいだに、主君だった小寺氏をはじめ、播磨の諸大名が毛利氏への支持を表明し、相次いで離反する事態となっていた。

父・職隆や家臣たちは小寺氏と絶縁し、信長方として戦うことに決めていたため、信長に救出された官兵衛は絶縁した小寺氏の姓を捨て、黒田姓に戻している。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) 秀吉の参謀として腕を振るう

秀吉の陣営に入ることになった官兵衛は、専任参謀として秀吉陣営の最高幕僚として腕を振るうことになり、反旗を翻した播磨を征討した功績で領国を得て大名となったのちも、秀吉の西方征討に随行した。

このあいだ、秀吉は官兵衛から提供された姫路城を使っていたが、播磨討伐で陥落させた別所長治の三木城へ移り、姫路城を官兵衛に返そうとした。

しかし官兵衛は、

「姫路城は播州を支配する要地です」

といって、秀吉の申し出を辞退したという。

播磨の平定を終えた秀吉は、因幡(現在の鳥取県東部)の鳥取城の攻略に向かった。

この地を治めていた山名豊国を味方に引き入れ、一旦はその手中に収めたが、秀吉に味方することをよしとしない重臣たちが共謀し豊国を追放。

彼らは毛利氏を頼って秀吉に戦いを挑み、鳥取城をめぐる攻防戦がはじまった。

この戦いで、秀吉は周囲の米を買い占めたうえで鳥取城を包囲する兵糧攻めを行い、鳥取城は三ヶ月で陥落することになる。城内は「鳥取の餓え殺し」と呼ばれる凄惨な状態となったが、この兵糧攻めを献策したのが官兵衛だといわれている。

鳥取の餓え殺し
この戦いで、秀吉は周囲の米を買い占めたうえで鳥取城を包囲する兵糧攻めを行い、鳥取城は三ヶ月で陥落することになる。城内は「鳥取の餓え殺し」と呼ばれる凄惨な状態となったが、この兵糧攻めを献策したのが官兵衛だといわれている。

鳥取城を落とした秀吉は、備前(現在の岡山県東南部)と美作 (現在の岡山県東北部)の攻略にとりかかる。

この地は毛利に与する宇喜多直家が治めていたが、官兵衛は病床の直家を単身で見舞うと、直家の子を秀吉の養子にすることと宇喜多家の将来を保証することを約束。

直家はその言葉に心動かされ、毛利氏からの離反を決め、備前と美作は戦わずして秀吉の手中に収まった。

このように、官兵衛の力によって秀吉の中国征伐は順調に進んでいったが、予期せぬ事件が起きる。

備中(現在の岡山県西部)高松城での攻防の最中に「本能寺の変」が発生したのである。

評定の結果、秀吉の遠征軍は急ぎ東方へ戻り、謀反の首謀者である明智光秀(あけちみつひで)を討つことになった。

このとき秀吉は、後に「中国大返し」と呼ばれる驚異的な反転を見せるが、この献策をしたのも官兵衛だといわれている。

「中国大返し」
秀吉が本能寺の変を受けて、軍師黒田官兵衛の策のもと中国地方から軍を返して明智光秀と対峙した大移動の事。秀吉は信長の死(6月2日)の翌日には光秀の反乱を把握し、戦っていた毛利軍と和平を取りまとめる。6日に敵の撤退を確認して、すぐさま兵を返し12日には摂津に達していた。

高松城を守備する清水宗治は勇将だったが、長きに渡る水攻めで疲弊していた。

清水宗治 とは?

清水宗治 三村家を裏切り毛利家に仕える。備中高松城で秀吉の中国征伐に対抗するが、水攻めに遭い落城寸前ま追い込まれ、城兵の命と引換えに切腹して果てた。この時、すでに秀吉は本能寺の変の報告を受けており、一刻も早く京に帰りたいところだったが「宗治の切腹を見るまでは」と留まったとされる。

官兵衛は、信長の死が毛利方へ伝わる前に和睦を成立させるため、毛利方の外交役だった安国寺恵瓊を說得。

宗治の切腹を条件に速やかに和睦を成立させることに成功する。

秀吉が宇喜多氏への調略や毛利氏との速やかな和睦、そして中国大返しを実現できたのは官兵衛の高い政治力があったからこそといわれており、官兵衛なくして秀吉の飛躍はなかったといっても過言ではないだろう。

こうして官兵衛は、秀吉とともに信長の弔い合戦である「山崎の戦い」に参加。

以後「賤ヶ岳の戦い」や「小牧・長久手の戦い」などに参加して、秀吉の権力拡大に貢献。

その後の「四国征伐」や「九州征伐」でも大いに力を振るい、九州征伐が終了すると豊前(現在の福岡県東部と大分県北部)十二万石に移封されるのである。

しかし、秀吉のもとで存分に力を振るった官兵衛も、ひとつだけミスを犯していた。

本能寺の変の折、秀吉に

「天下取りの好機」

と進言したことで、秀吉はこれ以降官兵衛に恐怖をおぼえるようになり、彼を危険視しはじめたのだ。

そんな秀吉の様子を見て官兵衛は、自身には野心がないことをアピールするために「如水円清」と名前を変え隠居してしまう。

【松本人志】“黒田官兵衛”を語る①『一人の生き様としては凄い面白い』

黒田官兵衛(くろだかんべえ) 九州で最後の大博打を打つ

さて、秀吉が官兵衛を警戒していたエピソードとして、次のような逸話が残されている。

秀吉が家臣に自分が亡きあとに天下を治めるのは誰かとたずねた際、家臣たちは徳川家康や前田利家の名をあげが、秀吉は官兵衛の名をあげ

あきちゃん
あきちゃん

「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を獲るだろう」

と言ったというのだ。

官兵衛が秀吉に対して異心を抱く可能性があったかどうかは定かではない。

しかし秀吉が官兵衛を警戒していたのは確かなようで、大功がありながら大坂から遠く離れた豊前に移封したのがその証明ともいわれている。

さて、秀吉が亡くなって二年後の1600年、家康の上杉氏征伐を契機に「関ヶ原の戦い」がはじまると、官兵衛は蓄財していた金銀を放出して軍を募り、独自に九州で活動を開始。

東軍で同じく九州の大名であった加藤清正らと呼応して、西軍諸大名の所領を次々と攻略していった。

一見東軍に味方すると見えるこの行動の裏には、実は関ヶ原で諸大名が争っているあいだに自身は九州で基盤を築きあげ、中央での勝者と雌雄を決しようという壮大な目論見があったといわれる。

だが、関ヶ原の戦いがわずか一日で決着がついてしまったため、彼の野望は実現しなかった。

秀吉のもとで力を振るった官兵衛は天下をも狙える逸材だったが、晩年は仲睦まじかった妻とともに、質素ながら欲とは無縁な生活を送り心穏やかに暮らしたという。

黒田官兵衛 本当に名軍師だったのか?

黒田官兵衛 呼び名が違く手も同一人物です

如水は出家後の名前。最近では大河ドラマでも有名になって官兵衛と呼ばれることも多い。黒田孝高様々な呼び名があります。

信長・秀吉二人の参謀として天下獲りを支えた、戦国きっての名軍師。

自身も野望に燃え、関ヶ原では九州で蜂起、天下獲りを一息に狙った。

油断ならぬ人として知られ、

あきちゃん
あきちゃん

「世に怖ろしい者は徳川と黒田だ。徳川は温和だが、黒田は何とも心を許しにくい」

とまで秀吉に評された。

しかしその生涯を紐解くと、計略に長けた如水とは思えぬ詰めの甘さが散見される。

果たして如水は本当に名軍師だったのか?

その意外な実像得を解説します。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) 祖父が目薬で大儲け

如水を生んだ黒田家は地元の名家だったが、祖父・重隆の代で、一度没落してしまう。

重隆は食うに困って百姓の空き家を借り、寂しく暮らしていた。

もう売却する家財もないほどだった。

ある晩のこと、重隆の夢に、彼が信仰する佐々木大明神が現れた。

「広峰大明神に頼んでおいたから、そこへ行け」

「広峰大明神に頼んでおいたから、そこへ行け」

後日、重隆が戸惑いながらも広峰大明神に赴くと、夢の話をきっかけに神主と仲良くなった。

神主は、黒田家に代々伝わる奇妙な目薬に目をつけ、

「その妙薬を、当神社のお札と抱き合わせて売れば、儲かりますぞ」

黒田官兵衛(くろだかんべえ) 広峰大明神の山門

この目薬は、「玲珠膏」といって、今のような点眼タイプではない。

カエデ科の木の樹皮を絹袋に入れて煎じたもので、そのまま袋ごと目に押し当てて使った。

目薬自体が珍しかった時代、これが瞬く間に評判を取り、広峰大明神のお札と共に、飛ぶように売れた。

あまりの売れ行きに、後年黒田家のことを、

「この目薬屋が……」

と揶揄する大名も現れたほどだ。

「玲珠膏」は地元では明治時代まで発売される超ロングセラー商品となった。

目薬成金、となった重隆は、その財力で播磨(現・兵庫県)の小寺家の軍事支援を行い、それがきっかけで家臣団に重鎮として加わることになる。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) 監禁されて死にかける

黒田官兵衛(くろだかんべえ) が父・職隆に代わって小寺家の家老になると、長篠の戦いで勝利を収めた織田信長の傘下に入ることを提案する。

中国地方の雄・毛利家や、過去に京で政権を打ち立てた三好家の支持者も多い中、時間と弁舌を尽くし、苦心して織田家支持で家中をまとめたのであった。

1577年、 黒田官兵衛(くろだかんべえ) は、秀吉が中国地方の攻略を命じられると、その下で参謀となる。

そして勝手を知る地での先導役を引き受ける。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) は覚悟を決めたのか、信長に忠誠を誓う証として、息子・長政を人質に出している。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) は、織田軍にはじめは敵対していた岡山城主・宇喜多直家の説得に成功するなど、着実に結果を残す。

諜報、献策に定評がある知将として、同じく秀吉の名参謀・竹中半兵衛とも肩を並べた。

だが、その如水に最大の苦難が襲いかかる。

竹中半兵衛:知謀にかけては織田家随一であったが、如水に忠告を残し若くして没した。
官兵衛と並んで「両兵衛」と称された秀吉の軍師。
はじめ織田家と敵対関係にあった美濃斎藤家に仕えていたが、凡庸な主君に嫌気差したのか、わずか十数人で斎藤家の本拠地を奪取してしまう(すぐに返還)。
斎藤家が滅んだ後は織田信長のもと秀吉に仕え、数々の献策を行った。中国攻略の陣中で若くして病死。
【漫画】竹中半兵衛の生涯を簡単解説!【日本史マンガ動画】

味方の有岡城主・荒木村重が、突如毛利に寝返り謀反を起こしたのだ。

荒木村重 とは?

織田家家臣。信長に従い各地で武功をあげるが、有明城にて突如謀反を起こす。落城後は毛利家に亡命信長の死後は茶人として秀吉に仕えた。子供は浮世絵の祖と言われる岩佐又兵衛。

この説得交渉に当っていた如水は、敵地で突然捕らえられ、地下牢に投獄されてしまう。

その後、悪辣な環境で、1年もの間監禁されるのだが、この交渉を外から見守っていた織田家家臣には、そんな様子が伝わらなかったらしく、

「如水が帰らない。裏切った!」

と風說が飛び交い、

「如水と荒木が一緒になって歯向かうか!」

と信長も激怒。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) の寝返りに怒り心頭の信長は、 黒田官兵衛(くろだかんべえ) の息子を殺すよう、すぐに竹中半兵衛に指示を出した。

一方、有岡城の地下牢では、 黒田官兵衛(くろだかんべえ) が一人寂しく味方の助けを待っていた。

同じキリシタンである村重を口説きにいったはずが、いきなり投獄、監禁だ。

信長には裏切ったと思われるだろう。

人質の息子も殺されるはずだ。

地下牢はどんよりと暗く、日は差さない。湿気が酷い。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) の痩せた体を皮膚病や蚊、シラミが蝕む。劣悪な環境下に置かれ、1年後には頭は禿げあがり、皮膚病が悪化して右膝が使い物にならなくなってしまう。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) はこの時から、うまく歩けなくなった。

翌年、村重の有岡城が信長軍によって落とされると、ようやくボロボロになった如水が地下牢から助け出された。

それを見た信長は真実を知り、疑った自分を恥じた。

取り返しがつかないのは、 黒田官兵衛(くろだかんべえ) の息子・長政の命だ。

すでに半兵衛に殺害指令を出してしまっていた。

ところが、さすがと言うべきか、半兵衛は黒田官兵衛(くろだかんべえ) の無罪を見抜いており、ひそかに長政を匿っていたのだ。

これを知った信長は素直に喜んだという。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) 秀吉を唖然とさせる

1582年、信長の命を受けた秀吉は、如水とともに毛利家討伐に臨んでいた。

高松城に追い詰められた毛利家の清水宗治は、さらに信長が大軍を率いてやってくることを知ると、自分の切腹と城兵の命を引換に和平交渉に応じた。

交渉は 黒田官兵衛(くろだかんべえ) が担当していた。

話がまとまる前日には、それまで緊迫していた陣内に和やかな空気が流れ、前祝いの酒が酌み交わされた。

このときは毛利勢にまで酒肴を振舞い、敵の英断を讃えてしまうほどの余裕が、二人にはあった。

信長の本隊が援軍にくる。

この報せは、大いに敵の気力を挫き、如水と秀吉を勇気づけた。

本隊の到着を待ちわびる二人。

ところが、次いでもたらされた報せで状況は一変する。

「信長公、本能寺にて自害」

秀吉は色を失った。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) も内心、冷や汗をかいたが秀吉が泣きじゃくり、慟哭するのを見て、必死に自分を律した。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) は、この非常事態を冷静に受け止めた。

信長の死が毛利勢に悟られれば、交渉が白紙に戻る。

それどころか、彼らが決死の反撃に打って出る可能性が高い。

ならば、まず秀吉には、早く立ち直ってもらいたい。

そこで 黒田官兵衛(くろだかんべえ) は、秀吉を安心させるため、笑みをたたえて、泣きじゃくる秀吉にこう言った。

「いよいよ、ご運がひらけましたな。これは、殿が天下を取る絶好の機会ですぞ」

秀吉は唖然とした。 黒田官兵衛(くろだかんべえ) は主君の死を天下獲りの道具に使え、と笑いながら言う。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) の見立てに間違いはなかったが、秀吉はこの如水の発言以降、彼を、

「あまりに非情すぎる危険人物」

としてマークするようになった。

秀吉は、如水の冷徹さが自分に向けられることを警戒するようになったのだ。

事実、その後も自分のもとで活躍を続ける如水に対し、秀吉は少禄しか与えず、

「あの男に何十万石も与えたら天下を取るわい」

と家臣に漏らしている。

また、伏見が大地震にあった際、急いで駆けつけた 黒田官兵衛(くろだかんべえ) に秀吉は、

「どうした? ワシはまだ死んではいないが?」

と痛烈な言葉を浴びせている。

伏見が大地震

1596年9月5日、伏見大地震。同じく駆けつけた加藤清正は誉められている。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) 盟友・半兵衛の忠告

そもそも、如水は秀吉に登用された頃から、契約書に記載された内容が履行されていないことに不満を持っていた。

それは秀吉が 黒田官兵衛(くろだかんべえ) を雇いたいがために、甘言を弄した結果ともいわれる。

当然、 黒田官兵衛(くろだかんべえ) が期待した恩賞や出世については、約束が守られていなかった。

ある日、 黒田官兵衛(くろだかんべえ) が同僚の半兵衛に、秀吉との契約書についてボヤくと半兵衛は、

あきちゃん
あきちゃん

秀吉殿が部下の一生涯を引き受け、面倒をみるなどという契約を本当にするとは思えない。それは非常に珍しいことだ。ひとつ見せてくれ」

と、 黒田官兵衛(くろだかんべえ) に契約書を持って来させると、一読してビリビリと破り捨て、火にくべた。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) は激怒した。

すると、半兵衛は言った。

あきちゃん
あきちゃん

「待て。契約書は本物だ。だが、本物だから捨てたのだ。このような契約書があるからこそ、現実が違えば不平や不満が起こる。結局のところ、身の為になるまいよ」

黒田官兵衛(くろだかんべえ) は灰になった契約書を無念そうに見つめては、半兵衛の忠告を静かに受け入れた。頭が切れすぎるあまり、秀吉に警戒された 黒田官兵衛(くろだかんべえ) 。

その心中は察するに余りある。 黒田官兵衛(くろだかんべえ) を静かに論した半兵衛は本能寺の変を待たず、若くして没してしまった。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) 囲碁で会議をすっぽかす

1593年、秀吉が朝鮮出兵を断行すると、 黒田官兵衛(くろだかんべえ) も朝鮮へ渡る。

彼は秀吉の命で、石田三成(いしだみつなり)ら三奉行とともに、重要な案件に携わっていた。

それは、南朝鮮の侵略の段取り、および講和の駆け引きについてだ。

石田三成ら三奉行が、如水と相談するため、彼のもとへ出向くと、如水が同僚と碁を打っている。

三奉行の来訪は伝えられていたが、碁に熱中していた 黒田官兵衛(くろだかんべえ) は、そのままゲームを続行。

別室に招かれた三奉行は、奥の間から聞こえる囲碁の音を耳にするや、憤慨して席を立った。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) は碁を打ち終えると、別室に三奉行がいなかったため驚いた。

使いを出して三成らを引きとめるが、時すでに遅し、

「碁ならもっと早く済ませてくだされ」

と三奉行の怒りが収まらない。

その話を聞いた秀吉は、

「つい大好きな囲碁に気をとられてしまったのだろう。碁を禁じるように言わなかった私の手抜かりだ」

と如水を擁護してみせた。

これで一件落着かと思いきや、如水は弁解のために、朝鮮の仕事をほったらかして、わざわざ秀吉に会いに国内に戻ってしまったのだ。

もちろん無断である。

これに秀吉が大激怒。

面会は行われず、代わりに 黒田官兵衛(くろだかんべえ) に切腹命令が下った。

この一件、後に如水は許されているが、如水が剃髪し、世捨て人となって法号・如水を名乗りはじめたのがこの時のことだ。

名軍師らしからぬ、軽率な 黒田官兵衛(くろだかんべえ) の一面がうかがえるエピソードである。

あきちゃん
あきちゃん

黒田官兵衛(くろだかんべえ) 最後の賭け

NHK大河劇 ドラマ 軍師官兵衛 關原之戰 清晨 関ヶ原の戦い 早朝 49如水最後一搏 (如水最後の勝負)

秀吉の死後、如水は九州にて隠居生活を送っていたが、中央で石田三成と徳川家康が争い始めると、人生最後の雄大な企みを実行する。

それは関ヶ原の騒乱に乗じて、九州を制圧、漁夫の利を得て一挙天下を掻っさらおうというものである。

家康に警戒されないよう、息子・長政を東軍につけ、彼が関ヶ原に連れて行った家中の軍勢の穴は「奇跡の目薬」で祖父の代から蓄えた財力で、浪人を大量雇用して間に合わせた。

寄せ集めた浪人に加え、加藤清正も味方につけた如水は破竹の進撃をみせ、九州の半分を制圧せんとした。

加藤清正とは?
豊臣家家臣。幼い頃に父親をなくすが、母が秀吉の生母と縁戚関係があったことから、子飼いの武将として育てられる。「賤ヶ岳の戦い」 で「七本槍」と呼ばれる武功をあげるなど活躍し、肥後9万5000石を与えられる。石田三成と不和で、関ヶ原では東軍に与し、九州の西軍勢力を次々に駆逐した。秀頼と家康の会見を取り持つなど、晩年まで豊臣家の行末を心配していたという。

この頃、如水は信奉していたキリスト教に惚れ込んでいたため、次のような話が伝わっている。

(敵地で)如水は、聖母の祝日の午後4時になると、勇猛果敢な突撃を開始した。味方の兵500人が殺され、1000人以上が負傷。それでも如水はひるむことなく突撃すると、敵兵3500人を殺戮した。戦闘が終わると、彼は神様がいかに自分を援助してくれたかを修道士に述べ、ミサや祈祷の際、神様に感謝の祈りを捧げて欲しいと願った」ルイス・フロイス

一説では、十字架を握りしめて戦いに臨んでいたといわれている。

また、次のような話も残されている。

「如水は2万を超える軍勢の総指揮官として膨大な仕事があることも忘れ、夜中過ぎになってもキリスト教の教理の話を修道士に聞きたがった。彼はその際、神に頼む方法とか、来世における審判や、栄光や地獄などについて質問した」

名軍師の如水が戦で頼ったものが、戦術ではなく宗教であったというのは意外である。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) 息子で大誤算

九州平定を目前にした如水の許に、息子・長政からの手紙が届く。

それを読んだ如水は、長いため息をついたことだろう。

そこには、関ヶ原が東軍の勝利で即日終わった、と得意気に記されていた。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) の計画では、九州を制覇し、次に中国を押さえ、最後は関ヶ原の勝者と激突する、というものだった。

この天下一の道のりに、30日はかかると想定していた。

それが関ヶ原の騒乱が、その日のうちに終わってしまったのだから、計算違いも甚だしい。

しかも、この戦い最大の功労者が、手紙の主である長政ときている。

長政は、西軍の小早川秀秋を裏切らせるなど、未曾有の活躍を見せ、東軍の勝利を決定的にしていたのだ。

これが結果的に如水を参らせることになる。

「ワシの息子は馬鹿か。天下分け目の戦いとは、急ぐものでない。急いで家康などに勝たせてしまった。」

如水はしぶしぶ、九州征討の目的は、

「自身の天下獲りのため」

ではなく、

「関ヶ原で忙しい家康殿のために、九州を平定する」

ことにあったと主張した。

後日、長政は大手柄により一挙8万石を得て凱旋する。

自慢の息子は如水の胸のうちを知らず、こう自慢した。

「あの戦いの後、家康殿は立ち上がって何度も私に礼をいい『今回の手柄は、決して忘れぬ』と3度も力強く握手をして頂きました」

すると如水、ニヤリと笑みを浮かべて、

「ならば、お前の左手は何をやっていたのだ? 握手をしていないその左手で、なぜ家康を刺し殺さなかった?」

と、言い放った。

こうして如水は、一世一代のイヤミを残して、天下分け目の舞台から降りていった。

「ワシはバクチがうまい。だがお前は下手だ」

関ヶ原の翌年に、如水は息子に改めて忠告をしている。

黒田官兵衛(くろだかんべえ) 死亡時刻を予言する

晩年の 黒田官兵衛(くろだかんべえ) は、朗らかだった。

日中からぶらりと散歩へ出かけると、家来の自宅に気さくに上がり込み、人妻に誘われるまま茶を飲んだ。

散歩の途上で出会う子供たちには、菓子や果物をよく与えたから、如水の後には決まって行列ができていたという。

「散歩をしないと、子供たちが城に押しかけてくる。中に入って障子を破こうとも、座敷で相撲をとろうとも、如水はいつも機嫌よくニコニコしていた」(『黒田年譜』)

1604年、そんな如水も病床に就くと、つまらないことでヒステリーを起こし、家臣を口汚く罵るようになった。

家来たちは、口々に

「いよいよ病気が悪化して錯乱しはじめた」

と噂し合った。

心配した長政が如水のもとへ駆けつけると、如水は言った。

「これはマネだ。乱心のマネなのだ。このまま死んだら皆がワシを懐かしみ、お前を不満に思うであろう。しかしどうだ、今、嫌な老人を演じておけば、ワシが死んだら皆ホッとするだろう。そしてお前に自然と従っていくのだ」

明治時代、この逸話を聞いた俳人・正岡子規は「単なる病人のわがままを言い訳したものだ」と解釈した。このときの如水のヒステリーが計算づくのものであったかどうかは、はっきりしない。

※正岡子規:俳人。東大退学後、結核と闘いながら伝統詩の改革に取り組むも、若くして没。

病床に臥して春の訪れを聞く4月を前に、如水は言った。

あきちゃん
あきちゃん

「ワシの死期は、今月20日の午前8時である」

家臣は黙って頷くほかない。人が自分の死を決められるものか。

「予告した時刻が近づくと、長政をはじめ栗山善助、母里友信など老臣を枕辺に招きよせ、辞世の句を口吟すると、その余韻が絶えないうちに、端然として逝去した」(安藤英男『史伝 黒田如水』)

如水は、予言どおり午前8時に逝った。

彼の遺骸は、京都・大徳寺の境内に葬られている。

黒田官兵衛最後の『博打』が失敗に終わった理由

黒田官兵衛ゆかりの地福岡を探索

戦国一の知将とも名高い黒田官兵衛。

晩年を福岡県で過ごし、福岡藩の藩祖と呼べるほどの多くのゆかりが福岡県には残っています。

黒田官兵衛は、戦国時代に活躍した武将で、豊臣秀吉の天下統一を支えた稀代の軍師として名が知られています。実は、この黒田官兵衛の生まれは、黒田庄町黒田だという説が地元では古くから伝えられています。

 その官兵衛を主人公として、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」が、2014年1月から1年間にわたって放映されました。これを機に地元では「北播磨黒田官兵衛生誕地の会」が発足するなど、多種多様な活動が展開されています。また、市においても観光地としての魅力を発信するため、関係者や関係団体などと協力して積極的に取り組んでいます。

黒田官兵衛ゆかりの里、西脇/西脇市

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