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5分でわかる!最新研究で分かった戊辰戦争の鳥羽伏見の戦い真実【まとめ】2021大河ドラマ

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戊辰戦争・鳥羽伏見の戦い
佐藤健主演!るろうに剣心『Road to Kenshin』 序章 〜鳥羽伏見の戦い〜

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渋沢栄一にも大きく関わることになる戊辰戦争の

「鳥羽伏見の戦い」

「上野戦争」

戊辰戦争(ぼしんせんそう 慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年[1] - 1869年))は、王政復古を経て明治新政府を樹立した薩摩藩長州藩土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。 名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。 明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、列強が条約による内戦への局外中立を解除し、これ以降、同政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められることとなった 

戊辰戦争 - Wikipedia

ですが、これらの基本的なことは皆様はきっと教科書で習っていると思いますが、最新の研究では教科書では習わなかった若干通説とは異なる真実がわかっています。

大河ドラマ青天を衝けでも大きな出来事になるであろう鳥羽伏見の戦いを他では解説していない視点で解説していきます。

是非、最後までご覧ください。

鳥羽伏見の戦いは近代兵器が勝敗を分けたというのはウソ

鳥羽伏見の戦い通說

新政府軍と旧幕軍の天王山である「鳥羽伏見の戦い」。

その勝敗を分けたのは、近代兵器の有無である?

薩長はイギリスから最新兵器を大量に購入していたが、旧幕軍には戦国時代から変わらない火縄銃や海外の旧式装備しかなかった。

こうした装備の違いが原因で、約1万5000人の旧幕軍はわずか6000人の新政府軍に大敗したのだった。

と、思われていますが実は少し違うんです。

あきちゃん
あきちゃん

鳥羽伏見の戦いの戦いの真実

最新兵器を装備した幕府陸軍約5000人が従軍しており、そのうち800人はフランス将校から訓練された最精鋭部隊でした。

むしろ兵の質は薩長を上回ってお装備が勝敗に決定打を与えたわけではなかったのです。

薩長を上回っていた旧幕軍

圧倒的な戦力差があるにもかかわらず、新政府軍は西洋式の軍隊を駆使して、鎧をまとい刀を振るう旧幕軍を蹴散らした――。

鳥羽伏見の戦いに、このようなイメージを持つ人は多いのではないでしょうか。

戦いが起きたのは、慶応4(1868)年1月3日のこと。

御所から南へ約9キロにある、鳥羽街道付近が舞台で、旧幕軍約1万5000人に対し、新政府軍は約6,000人。

といっても新政府軍は寄せ集めの軍隊だったため、実際に戦ったのは1500人程度だともいわれるが、結果は新政府軍の圧勝でした。

この敗因について、幕府の若年寄格の永井尚志(ながいなおゆき)は

永井尚志(ながいなおゆき)
永井尚志(ながいなおゆき)

「敵は武装がよく、よりよい銃と砲兵を持っていた」

とイギリス大使に語っている。

しかし、永井の分析は正しくなかった。旧幕軍にも最新鋭の装備を整えた精鋭も多数参戦していたからです。

たとえば、徳川慶喜がフランスの協力で整備した幕府陸軍が、鳥羽伏見の戦いで約5000人参戦していた、そのうちの800人ほどは、フランス人教官の指導を受けたフランス伝習隊です。

西洋式の調練を受けているのはもちろん、最新装備を有しており、質は薩長のそれを上回っていました。

薩長の主力小銃は、弾丸を銃の前方から装填するミニエー銃である。

日本で使われていた火縄銃と比べれば破壊力も射程も上だが、先込め式で連射に向かず、すでに欧米では旧式化しつつあったものです。

一方、幕府陸軍の主力小銃も同じくミニエー銃だったが、

幕府側には薩長が持たない、最新の銃が配備されていた。

あきちゃん
あきちゃん

それがシャスポー銃だ。

弾丸を銃の後部から装填することから、ミニエー銃を上回る連射性を実現していて、幕府はこの小銃をフランスから2000艇ほど無償提供され、伝習隊に配備していたのである。

配備が間に合わなかったという指摘もあるものの、それを差し引いたとしても、幕府の装備は新政府軍の装備に劣っていなかったことになる。

しかし、旧幕軍は新政府軍に大きく劣る部分があった。指揮官の質です。

あきちゃん
あきちゃん

新政府軍の指揮官は、敗北が政府崩壊に繋がると考えて戦意が高かったのに対し、旧幕軍の指揮官は自軍の兵力に慢心していた。

3日午前、旧幕軍は鳥羽街道を守る陰摩兵と接触したが、戦闘はすぐには始まらなかった。

薩摩兵が京から通行許可が出るのを待つよう伝えると、旧幕軍はその場にとどまり、話し合いで解決しようとしたからだ。

このとき、旧幕軍は戦闘態勢を取らず、銃に弾すら込めていなかった・・・

当然、薩摩兵はこの機会を利用しつつ旧幕軍を包囲。

そのまま先制攻撃を仕掛けた。幕府の歩兵が混乱したのは言うまでもありません。

問題は歩兵だけでなく、指揮官の滝用具挙(たきがわともたか)が乗馬で逃げ出し、伏見方面の竹中重固(たけなかしげたか)も、同じく部隊捨てて逃げたことです。

他の戦闘地においても、狭い地形にもかかわらず指揮官が戦国時代以来の客集陣形を好んだことが敗北を招いた。

伏兵や十字砲火に苦しめられ、せっかくの歩兵をうまく活用できなかったのである。

あきちゃん
あきちゃん

いくら兵や兵器の質がよくとも、それを効果的に扱える指揮官がいなければ、戦いに負けてしまうのです。

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鳥羽伏見の戦いの決め手は錦の御旗というのはウソ

鳥羽伏見の戦い通説

鳥羽伏見の戦いで新政府軍が勝利を収めた理由。

それは、近代兵器の装備や兵士の志気もさることながら、天皇による助力があったからです。

新政府軍は朝廷工作により、官軍の証である「錦の御旗」を獲得。

この御旗が翻った途端、朝敵になることを恐れた旧幕軍の兵は次々に逃げ出し、兵力で優勢だったにもかかわらず旧幕軍は崩壊したのです。

この御旗が翻った途端、朝敵になることを恐れた旧幕軍の兵は次々に逃げ出し、兵力で優勢だったにもかかわらず旧幕軍は崩壊したのです。

とされていますが事実は少し異なります。

鳥羽伏見の戦い真相

錦の御旗が揚げられる前から新政府軍は優勢であり、大勢への影奏は小さかったのです。

西郷隆盛
西郷隆盛

旧幕軍が敗北したのは、旧態依然とした戦術と指揮官の能力不足に加え、戦場における土地勘のなさが原因です。

西郷隆盛に関して詳しくはこちら

劣勢だった新政府軍が鳥羽伏見の戦いに勝利できたのはなぜか?

その理由としてよくあげられるのが、近代兵器の有無と、天皇の威光、すなわち錦の御旗の影響です。

前項で紹介した通り、近代兵器は新政府軍だけでなく旧幕府軍も有していたため、勝敗を左右したとは言い切ません。

では、「錦の御旗」説の方はどうでしょうか?

錦の旗を持つということは、天皇の軍隊であることを意味します。

つまり、歯向かえば朝敵になるということだ。大久保利通岩倉具視の工作活動によって朝廷が新政府軍支持を表明すると、鳥羽伏見の載場では錦の旗が翻り、旧幕軍の士気を大いに削いだ。

これが決定打となって旧幕軍が敗北したというのが錦の御旗説です。

しかしこの説も、現在では異論が出ているのです。

錦の御旗が載場に届いたのは1月5日のことだが、このときすでに旧幕軍の敗北は決まりかけていたからです。

鳥羽伏見の戦いは、京市中南方にある鳥羽街道において、旧幕軍と薩摩藩兵が接触したことで始まりました。

このとき旧幕軍が薩摩軍を攻撃せずにいたのは、

実は戦うことが主目的ではなかったからである。

あきちゃん
あきちゃん

旧幕軍は、薩摩を討つために「討薩の表」という上奏書を携えて朝廷に向かっていました。

朝廷へ向かうという名目があるため、旧幕軍は鳥羽から伏見をすんなり通り過ぎることができるという楽観的な考えの持ち主が多かったのです。

銃に弾も込めていなかったのは、そのためです。

一方の薩摩軍は、朝廷に問い合わせると時間稼ぎをして、旧幕軍の包囲に成功。

業を煮やした旧幕府側は強行突破を通告すると、薩摩兵は大砲や銃で旧幕軍を攻撃し,その後、伏見方面でも戦闘は繰り広げられたが、数で勝っているにもかかわらず、旧幕軍は一進一退を繰り返しました。

その一因は、前項でも紹介した指揮官の質の低さだが、土地勘がなかったことも影響していました。

旧幕軍は戦国時代以来の

「密集戦術」

を好んだが、戦場となった鳥羽街道は、現在も車2台すれ違うのがやっとの道幅です。

しかも、鳥羽と伏見には湿地帯が多く、大軍の利が生かしにくかったのです。

そんなところに1万の大軍が押し寄せても、思うように動くことはできなかったのです。

一方、新政府軍は部隊ごとに散開して戦う

「散兵戦術」

を採用しました。

そして、鳥羽の城南宮や伏見の御香宮 神社に陣を構え、アームストロング砲などで旧幕軍を攻撃。

密集した旧幕軍の兵は十字砲火に晒され、兵器の性能を活かせず撃ち倒されていきました。

朝廷が新政府に錦の御旗を与えたのは、こうした戦況が各所に伝えられていたからだと考えられていて、征討大将軍である仁和寺宮に錦の御旗が与えられて戦場で翻ったころには、すでに勝敗が決まっていた。

つまり錦の御旗は、ダメ押しの一手として投入されたのである。

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戊辰戦争の上野戦争が小規模な局地戦というのはウソ?

【旧幕府軍にマジ卍の部隊がいた!?】「上野戦争」勃発!渋沢喜作の「彰義隊」vs 西郷隆盛&大村益次郎の「新政府軍」【きょうのれきし3分講座・5月15日】

西郷隆盛渋沢喜作の記事はこちら

江戸域の開域後も旧幕派による抵抗は絶えず、関東各地で幕府残党と新政府軍との戦いが起きていました。

そのひとつが慶応4(1868)年5月5日の「上野戦争」です。

元幕臣や幕府陸軍残党が結成した「彰義隊」と新政府軍が寛永寺にて衝突したこの戦いは、最新大砲を有した新政府軍が1日で勝利。

大勢を左右しない局地戦ではあったものの、上野の街が火の海になったことは、江戸の庶民に衝撃を与えることになった。

上野戦争が小規模な局地戦ではないという真相

江戸にいた新政府軍は関東各地の決起を鎮圧しようと分散していたため、江戸市中の戦力は旧幕軍の方が大きかったのです。

そんな状況で旧幕軍の主力だった彰義隊を討伐したため、新政府は江戸における支配体制を確立。

上野戦争は、その後の政局にも影響を与える重要な戦いとなったのであります。

あきちゃん
あきちゃん

江戸を支配下に収めた決戦

鳥羽伏見の戦いや会津戦争と比べると、上野戦争は知名度が低いですよね。

きっと渋沢栄一が主人公の青天を衝けでは、渋沢一族が大きく関係するので、きっと壮大に取り上げられるとは思いますが・・・

歴史本では

「幕府残党の彰義隊が新政府軍に上野で敗北した」

と戊辰戦争序盤の局地戦として軽く流す程度で、日本史教科書には、用語すら載っていません。

ところが現在では、上野戦争は戊辰戦争を左右する重要な決戦の一つだったという評価に変わりつつあります。

この勝利によって、新政府は江戸の支配を盤石にしたからです。

上野戦争が起きる前から、江戸は新政府の支配下にありました。

とはいえ、関東各地で蜂起する旧幕軍に対応するために江戸市中の兵は少なくなり、治安維持すらままならない状況にありました。

そこで江戸の治安維持を務める東征大総督府は、やむなく旧幕臣である勝海舟の力を借りることを決めました。

勝海舟
勝海舟

ここでわたくし勝海舟が治安維持を任せたのが彰義隊です。

彰義隊は、徳川慶喜の無実を証明するために側近たちが組織したグループを始まりとしている。

徳川家の菩提寺である寛永寺を本拠地とし、最盛期には3000人以上の隊員を抱える旧幕派最大級の勢力となっていた。

旗本・渋谷真琴などの記録によれば、庶民の間でも大変な人気があり、朝廷の威を借る薩長に支配されるよりも、幕府の雰囲気を残す彰義隊の方が支持しやすかったのでしょう。

徳川慶喜
徳川慶喜

そんな彰義隊を破ったことで、新政府軍は活気づいてしまいました。

徳川家の駿河移封を公示しても反発が少なかったのは、江戸を完全に掌握していたからでしょう。

また、敗れた旧幕軍は東北へ逃亡したため、関東に散らばっていた兵力を、東北へ集中させられるようにもなった。幕府を代表する彰義隊を破ったことで、江戸庶民の感情にも変化を与えたはずです。

では、なぜ新政府軍は屈強な彰義隊を破ることに成功したのだろうか?

新政府軍が導入した 、アームストロング砲が彰義隊を圧倒したことが勝敗を決めたとする声もあるが、異論も出ている。

実際は命中が低く、人的被害はさほどなく、彰義隊が敗走した一因として、士気の差が挙げられます。

江戸市中で人気のあった彰義隊には、庶民からの参加者も多かった。

つまりは戦いの素人である。

当然、新政府の攻撃が近づくと脱走者が相次ぎ、戦いの当日には兵力が1000人に減少していた。

その1000人も大砲の轟音で士気を削がれ、逃げ道があればそこに飛びついた。

新政府軍を指揮した大村益次郎は、四方のうち東方の防備をわざと薄める戦術によって逃亡者を誘い込むと、日論見通りに東方へ逃亡者が集中。

戦いは1日もかからず新政府の勝利で終わりました。

戦闘を指揮した天野は新政府軍に捕縛されて数年後に病死。

戦死した200人の遺体は、円通寺が供養するまで何日も放置されたといいいます。

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戊辰戦争で長岡藩は最新兵器で新政府軍を圧倒したというのはウソ

長岡藩は最新兵器で新政府軍を圧倒したという今までの通説

戊辰戦争において、新政府軍は旧幕府側の諸藩を圧倒したが、越後国の長岡藩は違いました。

長岡藩は米英から多数の兵器を購入して軍の近代化に成功していたため、5000人ほどの長岡藩に、3万人の新政府軍は大苦戦することになったのです。

特に、最新兵器であるガトリングを前にすると、新政府軍はなす術もありませんでした。

当時日本に3機しかなかったこの新兵器を長岡藩は2機も所有していおり、こうした新兵器によって新政府軍の被害は甚大となり、越後国は戊辰戦争最大級の戦場となったのです。

長岡藩は最新兵器で新政府軍を圧倒したという実はの真相とは

長岡藩の切り札となったと思われてきたガトリング銃は、実際には取り扱いが難しく、大した活躍はできませんでした。

長岡藩が善戦できたのは家老の河井継之助が優れた采配を振るったからで、河井が戦死すると長岡藩は降伏を決断しています。

中小藩が善戦した真の理由

戊辰戦争というと、会津戦争や五稜郭の戦いが注目されがちだが、それらの戦いより前に始まり、新政府軍が苦しんだ戦闘がありました。

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それが、越後国長岡藩を相手にした北越戦争です。

長岡藩に会津藩のように新政府軍への恨みを募らせる勢力が多かったわけではないが、かといって、新政府軍の味方をして東北諸藩と敵対するつもりもありませんでした。

しかし、新政府軍との交渉が決裂したことで、慶応4(1868)年5月2日、戦闘が始まることになったのです。

会津藩と同盟を結んではいたものの、長岡藩の兵力は5000程度しかなく、約3万の兵を擁する新政府軍との戦力差は歴然でした。

しかし敗色が濃厚であったにもかかわらず、長岡藩軍は幾度も新政府軍を撃退し、2カ月以上も持ちこたえたのです。

江戸や京から離れた長岡藩が、最新兵器を備えた新政府軍を撃退できたのはなぜか?

これまでは、藩士である河井継之助が推し進めてきた軍制改革の影響だとされてきました。

北越戦争が起こる2年前から長岡藩は軍の近代化を進め、西洋式訓練を導入するとともに、外国人商人のスネル兄弟を通じて大量の武器弾薬を購入しており、その中には、日本に3機しかなかった最新兵器ガトリング砲も含まれていた。

1分間に360発の弾丸を発射できるこの兵器を、河井は2機も購入していたもです。

あきちゃん
あきちゃん

これが実戦で猛威を振るい、新政府軍を蹴散らしたとされていたわけです。

しかし、当時のガトリング砲は手動で回さないと発射できず、弾詰まりを起こしやすいという欠点もありました。

また、その重さから扱いにくく、実戦での効果は限定的でした。

長岡藩が善戦したのは、兵器の質が高かったからではなく、指揮官である河井継之助が優秀だったからである。

新政府軍との戦闘が5月2日に始まると、河井は指揮官としてこれに参加した。

そして、信濃川を突破した新政府軍に対し、遊撃隊を駆使して5月10日にこれを撃退し、翌日に新政府軍の反撃が始まったが、河井は山地に陣を構えて大然の利を生かし、戦いを優位に進めました。

この戦いで、新政府軍は吉田松陰に目をかけられていた時山直八を失っています。

とはいえ、数に劣る長岡藩軍は次第に追い詰められていきます。

5月10日、防備が手薄な本拠地・長岡城が山県有朋に奇襲されて奪われ、藩内の恭順派が工作活動を始めるようになったのです。

7月25日、700人で城内に奇襲を仕掛けて山県を城を から追い出すことに成功したが、すでに兵力は底をついていました。

河井が足を負傷して戦線を離れると、指揮官不在の軍は各地で敗走を重ねていきます。

そして8月16日、河井の死とほぼ同時期に、長岡藩は降伏したのです。

なお、死の間際、河井はのちにアサヒビールなどの創業に関わる長岡藩士・外山 脩造に対し、

「これからは実力の時代だから商人になれ」

と伝えたという。

会津戦争で旧幕軍兵の死体が野ざらしにされたというのはウソ

会津戦争で旧幕軍兵の死体が野ざらしにされたという通説

【お城解説】会津若松城 戊辰戦争の激戦地「鶴ヶ城」!!

薩摩・長州藩を中心とした新政府軍と佐幕派の筆頭である会津藩が衝突した戦い。

それが慶応4(1868)年4月に起きた会津戦争です。

この激戦に会津藩は敗れ、終点である鍋ヶ城を襲失し、およそ3000人の会津兵の死体は、遺体の埋葬を許されず半年近く放置された。

会津兵は、新政府軍に逆らう罪人として見せしめにされたのです。

会津戦争で旧幕軍兵の死体が野ざらしにされたというのはウソ?

長年、会津兵の死体は放置されたと考えられてきたが、2016年にこの考えを覆す新史料が発見されました。

新政府は埋葬を禁止せず、戦闘が終わると速やかな死体の回収を命じていたのである。

会津戦争今なお残る確執の原因

会津戦争の激戦区だった会津若松市に行けば、今でも薩長との和解を拒む声が聞こえてくるようです。

その背景には、薩長軍が行った残虐行為への反発があります。

慶応4(1868)年、佐幕派の中心的地位にあった会津藩は、新政府軍による攻撃を受けて街も人も壊滅的被害を受けました。

会津の人々は乱暴狼藉を加えられ、9月22日に降伏した後には、会津の寺に強姦された女性が夜な夜な赤子を埋めに来たとも伝えられています。

そうした残虐行為の象徴とされてきたのが、会津兵の死体放置令です。

戦闘が終わった9月から半年以上にわたり、新政府軍は約3000人の会津兵の埋葬許可を出さなかったとされてきました。

確かに、長州藩は禁門の変で会津藩によって仲間を殺されたため、その報復だという説明は説得力があります。

だが、2016年2月、その通説を覆す史料が見つかりました。

会津市の博物館に寄贈された史料の中に、埋葬禁止を否定する内容が含まれていたのです。

「戦死屍 取仕末金銭 入用帳」

は作者こそ不明だが、埋葬に関する詳細な記録が34ページにわたって記録されており、死体の状況や服装なども、図入りで細かく記されていて、NHK大河ドラマ「八重の桜』の主人公として有名な山本八重の父・権八の亡骸に関する記述も見られます。

この史料によれば、収容作業の開始は10月3日。

少なくとも終戦の10日後には埋葬が始まっていたことになる。

しかも、埋葬は新政府によって指示されていた。7日には会津藩士4人が567体の死体をヵ所の寺や墓地に運び込んだとされているが、それを命令したのも新政府の民政局です。

そして埋葬には74両(現在の価格で約450万円)の費用がかかったこと、作業に動員された384人に1人1日につき2朱(約7500円)の作業代を支給したことも記されています。

新政府軍が少なからぬ金をかけて遺体を埋葬したのはなぜか?

それは、放置すれば衛生的に危険だからだ。遺体の長期放置は伝染病の蔓延を引き起こす可能性があり、統治に支障をきたすおそれがあったためです。

長州派閥は会津を恨んでいたかもしれないが、新政府としては現実的な理由から速やかに遺体を処理する必要がありました。

とはいえ、死体の数が多すぎて、年を越しても死体の捜索は続けられたものの、全ての死体を埋葬することはできませんでした。

実際に死体の埋葬禁止が命じられたのは、上野戦争のときです。

彰義隊との戦闘に勝利した新政府軍は、戦後に旧幕兵200人の死体を埋葬させずに放置しました。

死体の回収に来る旧幕派の支援者を捕縛するためとされています。

このときは、数日後に上野寛永寺の御用商人・三河屋幸三郎が政府の許可を得て円通寺に埋葬しています。

なぜ会津で死体が放置されたと思われるようになったのか?

あきちゃん
あきちゃん

史料を調査した野口信一氏は、読売新聞の記事において

「1869年2月に阿弥陀寺へ改葬したことを半年も放置したと誤認したと思われる」

と記しています。

この新史料がきっかけで、少しずつかもしれないが、会津と長州は距離を縮めるようになっていってほいしいですね。

あきちゃん
あきちゃん

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