学校では教えてくれない!歴史の話(戦国時代編)

3分で解る!1600年関ケ原の戦い家康の思惑

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日本を二分した天下獲り最終決戦!

きっかけは秀吉の死後、覇権を狙う徳川家康と、石田三成を筆頭とする亀裂が拡大!合戦が勃発

家康の狙い通りだった石田三成の挙兵

秀吉の死後、家康は露骨に天下取りに動き始めました。

まず会津の上杉景勝の討伐に打って出ます。

しかし、その進軍はなぜかゆっくり進められていました。

この家康の行動に対し、豊臣秀頼を盛り立てようとする石田三成は激怒!

三成は、家康を弾圧するために文書を各地の大名に発しました。

これに呼応して毛利輝元を筆頭に九州四国の諸大名が大阪へと続々と集結!

中国勢を合わせると、実に8万4千もの兵が集まったのです。

しかしこの三成の挙兵は家康の思惑通りでした。「自分が大阪を留守にすれば三成が動く」という読みが完璧にあたったからです。

景勝を討つ気など最初からなく、ゆっくりと進軍していたのは、この挙兵をまっていたのです。

三成の挙兵後、家康は三成に賛同していない諸大名を集めます。

そして三成率いる西軍と、家康率いる東軍が誕生します。

策で西軍崩壊を狙う家康。両軍は関ケ原で激突

東軍7万4千VS西軍8万4千

関ケ原の戦いの武将配置図です。

家康は直接対決の前に、西軍の大名に働きかけ、寝返るように画策していました。

それから満を持しして、江戸から大阪へと軍を進めたのです。西軍は大阪から江戸に進軍し、やがてその中心にある美濃の関ケ原で刃を交える体制となりました。

まず東軍の井伊直政が先陣を切って西軍へと突撃。

するとそれが合図となり、各地で戦闘が開始されました。

序盤は西軍が有利となり、戦いを進めておりましたが、、小早川秀秋の裏切りが決め手となり、西軍は一気に崩れ、家康の勝利で総勢16万もの兵が参加した世紀の大合戦の決着がついたのです。

ちなみにこの戦国最大の大戦は午前中で結果がつきました。

毛利輝元が動かなかったことや九州の島津義弘など、西軍に与しているだけの大名たちの思惑で一枚岩になれなかったことが西軍が敗戦してしまった原因ともいわれています。

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