学校では教えてくれない歴史の話 学校では教えてくれない!歴史の話(戦国時代編)

伊達政宗(だてまさむね)5分で分かる日本戦国時代最後に現れた隻眼の英雄大河ドラマアニメ

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ベストドキュメンタリー: 伊達政宗「天下争奪!?~戦国最後の野望~」 (ドキュメンタリー 2017)

伊達政宗のちに独眼竜と称される英雄の誕生

伊達政宗という人物は名前なら聞いたことがあるという人は多いと思いますが、

どんなひと?

あきちゃん
あきちゃん

と言われると、具体的には分からないという方も多いはずです。

戦国時代の大河ドラマやアニメ、ゲームなどで必ずと言っていいほど登場する伊達政宗という人物は、それらで描かれている通りそんなに強くて格好いい人物だったのか。

今回は分かりやすく伊達政宗の誕生から晩年まで5分でわかるように解説していきます。

これを読んでいただければ戦国時代の大河ドラマやアニメ、ゲームがもっと面白くなること間違いなしです。

是非最後までご覧ください。

伊達 政宗(だて/いだて まさむね)は、出羽国と陸奥国の武将・戦国大名。伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。 幼名は梵天丸。​没後は法名から貞山公と尊称された。

伊達政宗 - Wikipedia

伊達政宗幼少期時代

独眼竜・伊達政宗は一五六七年、伊達家第十六代当主・輝宗の嫡男として出羽米沢の米沢城に生まれた。

幼名は梵天丸(ぼんてんまる)。

政宗が右目を失ったのは五歳のときのこと。当時は不治の病とされていた疱瘡(ほうそう)に罹ったためで、一命こそ取りとめるが、病後は失明した右の眼球が飛び出し、顔はアバタだらけになってしまった。

これにショックを受けたのが母の義姫(よしひめ)だ。

彼女は、次男の小次郎が生まれたこともあり、政宗を遠ざけるようになった。

母の愛を失い、心を閉ざす政宗。

輝宗は嫡子の将来を心配して臨済宗(りんざいしゅう)の禅師・虎哉宗乙(こさいそういつ)を家庭教師につけるが、性格は内に籠もる一方だった。

そんな彼を救ったのが、のちに伊達家の軍師として政宗を助けることになる、片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)である。

小十郎は輝宗の許しを得て、小刀で政宗の右目をえぐり取ってしまった。

この荒療治(あらりょうじ)によって、政宗は一時、生死の境をさまようが、やがて回復すると、本来の明るさを取り戻していく。

こうして人生最初の苦境を克服した政宗だったが、隻眼の負い目は生涯ついてまわった。

「たとえ病によって失ったとはいえ、親よりいただいた片目を失ったのは不孝」

との考えから、政宗の死後に作られた肖像は、やや右目を小さくしたうえで両目が入れられている。

伊達政宗衝撃的な皆殺し作戦と父殺しの汚名

一五七七年、政宗は十一歳で元服すると、二年後に田村清顕の十歳の娘・愛姫(よしひめ)を正室とする。

相手は戦国大名の娘、間違いなく政略結婚だが、輝宗はこれにより自分の後継者が政宗であることを示した。

初陣は十五歳、勝ち戦だった。

そして一五八四年、十八歳のときに家督を相続して政宗は第十七代伊達家当主となる。

このとき父の輝宗は四十一歳の壮年であったため、家中に反対も多く、政宗自身も年少を理由に辞退を申し出るが、息子の将器が自分より上と見抜いた輝宗が最終的には押し切った。

輝宗の決心の背景には、政宗に片倉小十郎らの優れた家臣があったことも大きく関係していた。

そんな若き当主・政宗を侮るかのように、友好関係にあった小手森城主・大内定綱が、畠山義継と手を組み、伊達家に対抗しようとした。

激怒した政宗は、一五八五年、小手森城に攻め入った。

ここで政宗は、定綱の降伏申し入れを拒否、八百人に及ぶ城内の人間全員を、女・子供関係なく皆殺しにする。

このとき、人間ばかりでなく、牛馬や鶏までもが一匹残らず殺されたという。

この事件は「小手森城の撫で斬り」として後世まで語り継がれています。

徹底した粛清(しゅくいせい)の衝撃は大きく、諸大名は政宗に恐怖した。若く非情な戦国大名の登場に、地域のパワーバランスは一気に崩れ、奥州も後ればせながら戦国時代に突入したのだ。

同年、政宗は父・輝宗を失っている。恭順を申し出た二本松城主・畠山義継が、一転して輝宗を拉致、これを追跡した政宗の部下が撃った弾が、輝宗の命を奪ったのだ。

輝宗は政宗に「わしと義継もろとも撃て」と叫んだというが、いずれにしても政宗は、

以後しばらく「父殺し」の汚名を着せられることになった。

伊達政宗秀吉の天下統一に最後まで抵抗するが....

【合戦解説】摺上原の戦い 伊達 vs 蘆名 〜伊達政宗の正室 愛姫の実家 田村氏の救援と蘆名侵攻を同時に狙う秘策とは?〜

一五八七年、豊臣秀吉が関東・奥州地域に大名間の私闘を禁じた「惣無事令(そうぶじれい)」を発布するが、政宗は構わず地域平定を目指した戦闘を続行。

一五八九年の摺上原(すりあげはら)の戦いはその総決算で、すでに太閤秀吉傘下に入っていた会津の蘆名氏を滅ぼした。

一五九〇年、奥州の覇者となった政宗に対し、秀吉から小田原攻めへの参陣要求が舞い込みます。

父の時代から北条氏とは同盟関係にあり、天下への野心も抱いていた政宗は、恭順して豊臣方に参陣するか、北条と結んで抵抗するか大いに悩むが、軍師 -片倉小十郎の助言もあり、秀吉への服属を甘受する。

出立前日、母・義姫による政宗毒殺未遂事件が起きた。食事に毒を盛られて死にかけた政宗は、母の代わりに弟の小次郎を斬り殺す。

義姫は四年後に兄・最上義光のいる山形城に出奔するが、政宗による追放だったともいわれる。

遅参した政宗は秀吉に軟禁されるが、詰問にやってきた前田利家らに、

「茶人・千利休の指導を受けたい」

と悪びれずに言って、秀吉を感嘆させた。これは派手なことを好む秀吉の性格を知っての行動だといわれている。

対面を許された政宗は、髷(まげ)を切り落とし、死に装束に身を包んで秀吉の前に現れたという。

秀吉は北条氏降伏後、政宗の居城・黒川城へ入城して奥州仕置を行ない、日本統一を完成させた。

政宗は本領を安堵されるが、会津領などは没収されてしまう。

尽きぬ天下への野心が秀吉と家康を刺激

一五九一年、政宗は蒲生氏郷と、葛西大崎一揆を平定。

ところが政宗が書いたとされる、一揆勢にした書状が見つかり、首謀者の疑いをかけられる。

上洛を命じられた政宗は、金の磔柱を先頭に立て、またも死に装束で秀吉の前に進み出た。

これも名軍師片倉小十郎のアドバイスだったのでしょうか・・・

あきちゃん
あきちゃん

そして問題の書状にある儀鶴型の花押を示し、いつも鶴鶴の目に空けている針の穴がないと言い張った。

真偽は今もって定かではないが、この弁明が効いて政宗は窮地を脱する。

一五九二年の朝鮮出兵にも政宗は従軍。このとき、伊達軍の部隊が身につけていた豪華絢爛な戦装束が話題となり、上洛の道中では軍勢が通過するたびに歓声がわいたといいます。

これ以降、派手な装いを好んで着こなす者を指して「伊達者」と呼ぶようになったと伝えられる。

謀反の疑いをかけられ、関白・豊臣秀次が切腹した一五九五年の聚楽第事件では、秀次と親しかったことから、政宗は連座の危機に陥った。

このように、何かと秀吉から疑いの目で見られがちな政宗だったが、秀吉が死ぬとその遺言に背き、長女・五郎八姫を徳川家康の六男・松平忠輝に嫁がせた。

政宗はこの忠輝を将軍にする構想を描いたともいわれる。

豊臣秀吉にしても徳川家康にしても、天下への野心を隠そうとしない政宗からは、目が離せなかったことだろう。

一六○○年の関ヶ原の戦いでは、家康から上杉領七郡百万石のお墨つきを得て東軍についた。

しかしここでも色気を出した政宗は、北方の南部氏領国の獲得まで論み、和賀忠親を使って郡内での一揆をそそのかした。

これが戦後に明るみに出て家康はお墨つきを反古にし、政宗への恩賞は仙台開府の許可と陸奥国刈田郡白石、合わせて二万石の加増にとどまった。

仙台開府と海外技術を活用した領国経営

一六〇一年、政宗は仙台に居城を移し、百万人もの人員を動員して城下町の建設に着手した。

仙台藩は四十八カ所に館が配置された大藩となり、石高は加賀・前田、薩摩・島津に次ぐ六十二万石を有していました。

政宗はこの地を南蛮貿易の拠点とするべく、その足がかりとして一六一三年、宣教師ルイス・ソテロを正使、家臣・支倉常長を副使に任命し、一行百八十余人をヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)を経由して、エスパーニャ(スペイン)、およびローマへ派遣した。

慶長遣欧使節である。

政宗の計画はのちの鎖国政策によって断たれるが、キリシタンとの交流による恩恵は多大だった。

領内の経済基盤を支えた産金、製鉄、馬産などの発展はキリシタン技術者の協力がなければあり得ず、北上川水系を現代まで続く穀倉地帯になしえたのも、彼らの土木技術があればこそだった。

結果、実収は百万石を超え、経済面で他国を圧倒した。

また、政宗は領内の文化的発展にも力を入れていた。上方の文化を積極的に導入し、数多くの技師や大工を招聘。

桃山文化の特徴である荘厳華麗さに、北国の特性を加えた独自の様式を用いて、国宝となる大崎八幡宮や瑞巌寺、塩竈神社、陸奥国分寺薬師堂などを建造した。

政宗は徳川第三代将軍・家光の治世まで生きた。

酒での失敗が多い政宗だが、酔って秀忠との約束をすっぽかしたり、家光との対面中に居眠りするという失態を演じたりしたこともある。

一六三六年、江戸にて死去。享年七十。死因はガンだと推定されている。

辞世の句は

「曇りなき心の月を先だてて 浮世の闇を照してぞ行く」

であった。

仙台城跡せんだいじょうあと

仙台城跡 | 【公式】仙台観光情報サイト – せんだい旅日和 (sentabi.jp)
観光スポット:仙台城跡

伊達62万石の居城、仙台城(青葉城)。標高約130m、東と南を断崖が固める天然の要害に築かれた城は、将軍家康の警戒を避けるために、 あえて天守閣は設けなかったといわれています。残念ながら今では城は消失し、石垣と再建された脇櫓が往時をしのばせます。政宗公騎馬像の前に立てば、天下取りの野望に燃えた政宗公と同じ視線で、市街を展望できます。
青葉城資料展示館では、コンピューターグラフィックスによる青葉城復元映像などが見られます。周囲には仙台ゆかりの土井晩翠の文学碑も。 平成15年夏、国の史跡指定を受けました。

城跡一帯は青葉山公園となっており、本丸跡からは仙台市内、太平洋を一望できます。
土井晩翠銅像前では「荒城の月」の自動演奏が9:00から18:00までの30分ごとに流れます。
日没~23時まで石垣と伊達政宗公騎馬像がライトアップされ、100万都市仙台の夜景を楽しむことができます。

仙台城跡 | 【公式】仙台観光情報サイト – せんだい旅日和 (sentabi.jp)
住所980-0862 宮城県仙台市青葉区川内
アクセスJR仙台駅西口バスターミナル16番のりば るーぷる仙台「仙台城跡」前下車すぐ(※バス停から本丸跡までは階段があります。)/地下鉄東西線「青葉山駅」から仙台市営バス 八木山動物公園行、または「八木山動物公園駅」から青葉台行き「仙台城跡南」下車。
詳細はこちら
見学等料金青葉城資料展示館 個人:大人700円、中高生500円、小学生300円/団体(20名以上)大人630円 中高生450円 小学生270円
見学時間の目安40分(青葉城資料展示館は25分)
営業時間入園自由 青葉城資料展示館は、9:00~17:00(11/4~3/31は~16:00)
休業日
駐車場普通自動車:あり(有料)
大型自動車:あり(有料)
[大型バス]30台/2時間2,000円 以後1時間ごと1,000円
[普通車]150台/1時間500円 以後30分ごと200円(18時以降無料)
飲食施設あり(青葉城資料展示館)
バリアフリー身障駐:身障者用駐車場、 入ス:入口にスロープ等の設置あり、 点ブ:点字ブロック、 自ド:入口、通路等に自動ドアあり、 受案:受付案内、 点案:点字案内板、 身障ト:車椅子(身障者)用トイレ、 手小:手すりつき小便器、 洋ト:洋式便器、 身障エ:身障者対応エレベータ-、 エス:エスカレーター、 車公:車椅子対応公衆電話、 車イ貸:車椅子貸出し、 盲犬:盲導犬同伴可

 

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