【戦国武将】上杉謙信「義の武神」は内政が上手かった!
華々しい日本の戦国時代のファンの中で織田信長、武田信玄、伊達政宗、真田幸村、そんな人気武将に比べても説明も不要な『越後の龍』義の武将「上杉謙信」はとても人気のスパースターです。
戦いの神である「毘沙門天」の生まれ変わりを自称し、その頭文字である「毘」の一字を書いた旗印を掲げ正義のために戦い続けました。
特に「甲斐の虎」武田信玄とはお互いの実力を認め合うライバル同士で、幾度も川中島で激闘を繰り広げました。
そんな上杉謙信は、「戦上手で戦争に明け暮れた武将」というイメージが先行しがです。
確かに5度にわたる「川中島の戦い」をはじめとした信玄との死闘や、関東の北条家との激しい戦い、越中(富山県)への侵攻、一向一揆の鎮圧、織田信長の迎撃など生涯を通じて合戦は止むことはありませんでした。
しかし、実は軍政にけではなく、
財政・内政面で力を発揮した武将だったのです。
わかりやすい例としては、有名な「敵に塩を送る」という言葉を聞いたことはないでしょうか?
一般的には、海を持たない内陸国家にあった甲斐(山梨県)の信玄が塩の輸入ルートを断たれつ窮地に陥っていたところを、大きなな海岸を持ち塩の産出には困らない越後(新潟県)の謙信が「武士の情け」で救ったというように語り継がれています。
ところが現実はそんな塩だけに甘いものではありませんでした。
現代でもいえることですが「需要と供給の関係」で、何かの物資が不足することで稀少性が上がり、値段は高騰することがあります。(最近ではコロナの影響などもありマスクや生活必需品、すごもりアイテムなど)
つまり甲斐で塩が貴重なものとなれば、高額で取引されることになります。
これを絶好の商機と捉えた謙信が、高値で塩を輸出した、という話だったのです。
事実はライバルの窮地を救うどころか、それにつけ込んで荒稼ぎを狙ったのである。
もっとも、当時の武田家は駿河(静岡県)の今川家や相模(神奈川県)の北条家から塩の輸出を止められても、すぐさま国内の塩が枯渇するような状況ではなく、友好関係にあった織田家からも輸入できたようで、多少の不便を我慢すればいいだけだったようですが。
【戦国武将】上杉謙信金山経営でウハウハ状態マーケティングの才能も!
さて、謙信が君臨した越後は前述したような小遣い稼ぎをするまでもなく、潤沢で安定した資金源がありました。
ひとつには、領内各地に点在していた金山です。
有名な佐渡金山を手に入れたのは謙信の次の代でしたが、鉱脈をいくつら抱えていたからまともに領国経営をしていれば資金難の心配はいりませんでした。
もっとも謙信は幕府の役載「関東管領」の使命を果たすことにやっきになっており、農閑期や雪解けの時期には出兵を繰り返していたので、盤石な経営とはいかなかったようです。
そのためか謙信は、国内で豊富に採集できる麻布を生産することを奨励し、
「上質な布を作れ」
とわざわざ指示を出してました。
付加価値を加えることで「越後上布」というブランド品に仕立て上げ、これを京都などで売りさばいたのです。
まさにブランド戦略です!
さらに自由に生産させず国家の専売品として統制を加える徹底ぶり。
今でいう特許のようなものかもしれません。
謙信は「関東管領」への強い思い入れからもわかるように、足利幕府とのつながりを重視していました。
将軍に謁見するために、わざわざ上洛していたほどです。
京都との強い接点があったので、朝廷や公家とも親しかったようです。
実は、上洛したもうひとつの目的は「越後上布」や越後産の砂金などを京都でトップセールスするためだったという説があります。
大名自ら「これは良い品ですよ」と売り込むのですから効果は絶大でした。
信玄は日頃から公家たちに経済支援をしていたので、彼らが広告塔として助けたことは可能性としては十分にあり得ます。
【戦国武将】上杉謙信継ぎ争いもカネで解決?
このように「武神」でありながら優れた経営感覚も持っていた謙信でしたが、彼の死後の跡継ぎ争いもまた、カネを握った方が勝利を収めています。
1578年に急死した謙信は「生涯不犯」を 貫いたため実子がおらず、人質として養子になっていた北条氏康の子・景虎と、同じく養子の甥・景勝の間で跡目争いが勃発することになります。
「御館(おだて)の乱」と呼ばれたこの戦いは、謙信がせっせと蓄えた資産が眠る金蔵を、景勝がいち早く抑えたことで勝敗が決まりました。
軍資金の心配がなくなった景勝は、武具の調達も敵対勢力の買取も思いのままです。
当初は景虎側についた武田勝頼もカネで釣って味方にしてしまいました。
こうして謙信譲りの経営感覚を持った景勝が家督を継ぎ、難局を乗り切って大名家として存続したのだ。(直江兼続も一枚かんでいたのではないでしょうか・・・)
【戦国武将】上杉謙信歴史が覆る女性説
1970年代、「上杉謙信は女性だった」という説が世間を驚かせました。
作家の八切止夫が唱えたもので、大名でありながら子供がひとりもいなかったこと、「月に一度、原因不明の腹痛に襲われた」とする記録があること、男性特有の権力に執着する言動が見られなかったこと、などを根拠としています。
もちろんこれだけでは俗説の域は越えられないかもしれませんが、ここまで見てきたような細かい気配りができる経済感覚もまた、女性的な匂いを感じさせます。
気配りといえば、こんな逸話もあります。
織田信長なども同時期に開発していたものですが、謙信は陣中で兵士たちにホカホカの糧食を届けるよう、手配することがありました。
当時は炊いた飯を乾燥させた「乾飯」をそのまま食べたりするような時代だから、士気を高揚させる効果がいかに大きかったでしょう。
そして敵といえども、ビジネスチャンスと見れば寛容になれる姿勢、名誉と一緒にちゃっかり実益もせしめる上洛作戦、家督争いをも左右する貯金……。
女性ではなくとも、細かい配慮ができる人物であったことは間違いありません。
まさにマーケッターとしても戦人としても『越後の龍』そのものです。