学校では教えてくれない!歴史の話(戦国時代編)

本当に今川義元は大河ドラマで描かれるような武将だったの?

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本当に今川義元は「馬も乗れない」軟弱な武将だったのか

なぜだか今川義元はいろんなところでダメな武将として登場してきます。

桶狭間の戦いで圧倒的戦力差でありながら戦国きっての大金星を織田信長に挙げられたことが大きな原因なのではないかと思いますが、調べたら少し今川義元という人間のすごさが分かってきたので、お話させていただきたいと思います。

誤解を招くプロフィール

今川義元桶狭間の戦いについて語られることが多い気がしますが、そのとき必ずといっていいほど、駿河、近江、三河の3か国を収める大大名だという事。
もう一つは彼に家が「御所(足利家)が絶えたら吉良が(将軍職を)継ぎ、吉良が絶えたら今川が継ぐ」といわれるほどの名家だったということである。
そのせいで義元は生まれも育ちもいいボンボンで、さも、初めから強力な力を持っていたかのように、誤解されてしまっているのですが、これも彼の評価を下げかねない不利な不利な認識のされ方と言えます。

というのも確かに今川家は将軍の一族といってもいいほどの家柄ですが、それだけの理由で何か国もの国の支配が許されるほど、この時代は甘くなかったからです。
そこで、これから今川家の歴代当主が、どのようにして領土を広げていったのか、ざっとお話していきます。

  • この時代、3か国の大大名になることがどんなに大変だったか
  • どのように今川家の家督が義元にバトンタッチされたのか

義元と今川家の歴代当主を比べてみたいと思います。

悲願の遠江平定とその後に訪れた停滞期 

意外だと思うかもしれませんが、今川家というのは代々の当主が戦場で活躍している「武門の家」でした。
初代、範国(駿河今川家の初代)などは、戦場での働きが「一人当千」だったと、足利尊氏が自筆の感状で賞したほどだし、また、七代目の範忠については、戦場での活躍によって、将軍から「天下一苗字」の恩賞を与えられた後、すぐ次の戦いでも大活躍したため、将軍をして「副将軍に任じよう」とまで言わしめました。
それほど優秀な武将だったのです。

そんな今川家は、代々駿河の守護を世襲していたのだが、実は長年「隣の近江をも、その領国に加える」ということを悲願としていました。
というのは、初代の範国がもともと近江の守護だったため、今川家はこの土地に格別に深い執着を持っていました。
しかし、実際のところは、近江の支配権は仁木家や千葉家へ移たり、再び今川家へ戻ったり、転々とし応永26年(1419年)以降は、ずっと斯波家のものだったのです。
義元の3代前、8代目当主義忠(義元の祖父)も、歴代の当主たち同様、この近江の奪還を悲願としていた1人でした。
しかし、その途上にあった、文明8年(1476年)彼は近江への出陣中に討ち死にしてしまうのです。
ついに今川家が近江を取り戻し、駿河と合わせて2か国の大名となったのは、次の9代目氏親(義元の父)の時でした。
ところが、やっと近江を平定した、と喜んでいたのもつかの間、その直後から氏親は中風の病にかかってしまい、10年もの闘病生活を続けたのち、大永6年(1526年)帰らぬ人になってしまったのです。
氏親の後は、長男の氏輝が継ぎました。
その後、母親の寿桂尼から氏輝自身が政務をとるようになるのですが、それからわずか5年後、今度は氏輝が謎の急死を遂げてしまいました。
こうしてみてくると、近江1国を手に入れるために、歴代の今川家当主がとても長い時間と大変な苦労を費やしてきたということが分かると思います。

巨大だった義元の存在

10代目氏輝が急死したため、ついに義元に家督相続のバトンが回ってきました。
しかし、このバトンも、すんなり渡されたわけではありません。
異母兄との間で家督争いが起こったからです。
これは「花倉の乱」と呼ばれ、今川家を二分するような大きな戦いとなり、両派の軍事衝突は1か月以上にわたって繰り広げられ、最終的には義元派が勝利しました。

ところがすぐまた、義元は別の窮地に立たされます。

今度は翌年、隣の強国の主、北条氏綱が駿河国の東部へ侵入してきて、この地を占領してしまいました。
こうして、新当主義元の前に、ひとつ間違えばすべてを失いかねない難題が次々と立ちはだかります。
しかし、義元は結果的には、これらの難題をすべて乗り越え、「駿河・遠江・三河の3か国を治める大大名」といわれるほどになったのです。

決して義元は、はじめから恵まれたボンボンの大名ではなっかったのです。

この実績だけをみても歴代当主を上回る活躍をしていました。
また、内政面でも検地を行ったり、伝馬制を整備するなど当時の他の戦国大名をリードする施策を行っていました。

本当に今川義元はすごかったのです。

ちなみに、あれだけ強大だった今川家が滅亡したのは、桶狭間で義元が討たれてからわずか9年後のことでした。

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