今後大河ドラマ青天を衝けでは、幕末の偉人勝海舟は,どのように登場していくのでしょうか?
今回はそんな勝海舟について大河ドラマ青天を衝けでのカッコイイ登場を期待して、書かせていただきたいと思います。
是非最後までご覧ください。
2021年【大河ドラマ】勝海舟とはどんな人?
1823年、江戸本所亀沢街に生まれました。
幼名・通称は勝麟太郎。
幼少期より剣豪の島田寅之助に剣術を学び、真心影流免許皆伝の腕前となります。
16歳で家督を継ぎ、蘭学を志します。
家は旗本だったが貧しく、蘭日辞書『ズーフ・ハルマ』を筆者して売るなどして生活費を工面していました。
1853年にペリー提督率いる黒船が来航、幕府により海防意見書が募集されます。
勝海舟が提出した意見書が老中首座・阿部正弘の目にとまり、蘭書翻訳君無を命じられ、オランダ語ができたこともあり、長崎海軍伝習所に派遣され、技術、知識とも第一人者となりました。
1860年、咸臨丸(かいりんまる)で渡米します。
鎖国中の江戸時代、侍を率いて太平洋を横断した大冒険!!
帰国後は軍艦奉行並となり、神戸に海軍操練所を設立し、欧米列強に対抗するため「日本海軍」設立を目指しました。
11866年には徳川慶喜より第二次長州征伐の停戦交渉を任され、会津藩と薩摩藩の朝廷や長州藩との交渉に尽力していました。
1868年鳥羽・伏見の戦いで徳川幕府が敗れると、勝海舟は山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を西郷隆盛のもとに送り、江戸城を無血開城に導きます。
西郷隆盛についてはこちら↓
一線を退いてからも旧幕臣らの救済に尽力していきます。
1899年、病気にて亡くなりました。
2021年【大河ドラマ】勝海舟(かつかいしゅう)栄一との関係とは?
勝海舟と渋沢栄一はお互いに幕臣でありながらも徳川慶喜の復権をめぐって正反対の立場でした。
渋沢栄一に関してはこちら↓
栄一が論語をテーマに実体験を語った
『実験論語処世談』
では、30年間も慶喜に謹慎を強いていた勝海舟へ
「私は勝海舟に対して快く思っていなかったのである」
と語っています。
2021年【大河ドラマ】勝海舟が江戸無血開城の立役者というのは??ウソ??
勝海舟は、幕末に最も活躍した幕臣の一人です。
黒船の来航後は、海岸の防備の強化を説く意見書をいち早く提出し、先を見る力が評価され、外国や尊攘勢力との交渉で活躍していきます。
そして討幕派の勢いがつき、新政府軍によって江戸が攻撃されようとした時も、勝海舟は得意の交渉術で新政府側と交互にわたり合いました。
西郷隆盛との直接会談を実現し、江戸城の無血開城に成功しました。
江戸が火の海になることを回避した功績から、交渉能力は今も高く評価されています。
この真相は・・・?
勝海舟には自分の行いを大げさに言ってしまうクセがあり、昨今の研究によって、その功績の多くがデタラメであることがわかっています。
勝海舟の功績を代表する江戸無血開城も、主導していたのは他の幕臣でした。
えぇぇ!!うそなの??このクセは厄介者ですね~笑
他の幕臣が進めた無血開城
古い考えの幕府において、開明的な価値観を持って幕末の政局で活躍した幕臣と、勝海舟はそんな評価を受けることが多かったのです。
だが、勝海舟の功績のほとんどは、現在では実現できないとされています。
これまでの定説は、勝海舟の証言をまとめた
『氷川清話』(ひかわせいわ)
を参考にしたものでした。
しかし、他の史料や証言と照らし合わせると、この証言録には非常に矛盾が多いのです。
咸臨丸(かいりんまる)を指揮して太平洋を横断したというエピソードは有名だが、実際には出港早々に船酔いで寝込み、同乗したアメリカ水兵たちが指揮をとっていたそうです。
勝海舟しっかりーー!アメリカ水兵たちのおかげだったんですね・・・
対馬を不法占拠したロシア軍を英国の協力で退散させたという
「対馬事件」も、実際に動いていたのは箱館奉行衆(はこだてぶぎょうしゅう)でした。
『氷川清話』では自分の功績のように記しているが、事件当時の勝海舟は江戸にいました。
そして1868年3月14日の江戸無血開城すら、勝海舟だけの手柄ではありません。
江戸に迫った新政府軍に対して、勝海舟は周到な準備をしたとされてきました。
イギリス公使を介して新政府軍へ圧力をかけ、江戸の侠客に江戸市中での焦土作戦を命令して新政府軍をけん制し、この状況を利用した交渉術によって、西郷に江戸攻撃を中止させたというのが通説です。
だが、実際には西郷は焦土作戦を知らなかったし、勝海舟がイギリスの外交官と対面したのは江戸無血開城の21日後でした。
焦土作戦もイギリスの圧力も江戸無血開城とは無関係だったのでした。
そもそも、西郷から攻撃中止を引き出したことは、勝海舟だけの功績ではありません。
慶喜に仕えた山岡鉄舟の活躍があったからこそ、江戸は火の海になることを避けられたのです。
鳥羽・伏見の戦いの敗北後、将軍慶喜は上野寛永寺(かんえいじ)へ謹慎し、新政府軍へ恭順の意を示していました。
しかし、新政府は慶喜の真意を測りかね、江戸への進軍を辞めなかったのです。
そこで慶喜は、降伏交渉の使者を西郷のいる駿府に派遣することを決めます。
このとき選ばれたのが山岡鉄舟で、彼は交渉を成功させ、西郷は江戸城引き渡しと引き換えに徳川慶喜の助命を認めたのでした。
徳川慶喜について詳しくはこちら↓
会談は何度か行われたが、最後の会談は3月9日で、勝海舟の会談の4日ほど前には、すでに無血開城の大筋は決まっていたことになります。
山岡鉄舟は勝海舟の命令で派遣されたという説もありますが、これは本人が
『氷川清話』の中で
「初対面だった」
と否定しています。
では、江戸城で勝海舟と西郷さんが会ったのはなぜなのでしょうか?
それは最後の確認作業をするためです。
駿府で合意したとはいえ、正式な決定がない以上、立場のある幕臣と調整を進めなければならないので、そこで勝海舟が調整役となったわけです。
これが勝海舟という人一人の手柄として広まったのは、自分の功績として世間に言い伝えたからでした。
西南戦争で西郷が死ぬと、1881年(明治14年)に
「江戸の総攻撃中止は自分が主導した」
との報告書を、勲章・褒賞などを所管する賞勲局に提出したのです。
結果、江戸無血開城は勝海舟の功績として語られることになったのでした。
実際に西郷と交渉した山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)は、勝海舟と競合するのを嫌ってか、賞勲局に報告書を提出しなかったそうです。
勝海舟記念館アクセス
所在地
〒145-0063 東京都大田区南千束二丁目3番1号
電話番号
03-6425-7608
【電車の場合】
東急池上線「洗足池」駅下車徒歩6分
【バスの場合】
東急バス「洗足池」徒歩6分
【公共交通機関】
(注釈)このほか、駐輪場および障がい者用の駐車場(1台)がございます。
利用案内
開館時間:午前10時から午後6時まで(入館は午後5時30分まで)
大田区ホームページ:勝海舟記念館のご案内 (city.ota.tokyo.jp)
休館日:毎週月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始、臨時休館日
入場料:一般300円、小中学生100円、団体(20名以上)2割引(240円、80円)
(注釈1)身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳をお持ちの方及びその付添の方1名が無料です。
(注釈2)高齢者(65歳以上)2割引(240円)入館の際は年齢の分かるものの提示をお願いします。
(注釈3)ミュージアムショップやお手洗いなど、無料エリアもございます。
(注釈4)館内では、大田区の無料Wi-Fiネットワークがご利用いただけます。