大河ドラマ『青天を衝け』をご覧になりたい方はこちら↓
井上馨(いのうえかおる)大河ドラマ『青天を衝け』ではどのように登場するのでしょうか?
是非最後までご覧ください。
井上馨(いのうえかおる)長州五傑から明治の三元老として政財界発展に貢献
長州藩士・井上光亨の次男として生まれ、1851年藩校明倫館に入ります。
1855年、同藩士・志道慎平(しじしんぺい)の養子となり、参勤交代に随伴しました。
1860年、小姓となり、藩主・毛利敬親(もうりたかちか)から聞多の名を頂いた。
同年、萩に戻り洋式銃陣の修練に取り組みます。
次第に尊王攘夷思想に傾倒し、1862年、高杉晋作(たかすぎしんさく)、伊藤博文らと英国公使館焼き討ちに参加。
1863年、江戸務めとなり、井上姓に戻りました。
同年、長州五傑とひそかに渡英。
見聞を広め、尊王倒幕・開国派に転じました。
長州五傑とは?
伊藤博文(いとうひろふみ)、井上馨(いのうえかおる)、井上勝(いのうえまさる)、遠藤謹助(えんどうきんすけ)、山尾庸三(やまおようぞう)の5名の長州藩士です。
海外への渡航が極めて難しかった幕末の1863年5月に、5人の長州藩士が藩命を受けて密かに横浜を出発し英国に渡りました。
彼らは、西洋で技術を学んで「生きた器械」になることを志し、長州藩が主導する攘夷運動を有利に進めたり、あるいは諸外国と交わっていく準備をしたりしようとしました。
1864年6月、長州藩が下関で外国艦隊と交戦したとの報を受けると急きょ帰国し、藩と英国公使との朝廷にあたります。
だが、同年9月、倒幕に備え武備恭順(命令に謹んで従うこと)を主張していたため、藩政を握る恭順派の俗論等藩士に襲撃され瀕死の重傷を負いました。
1865年、負傷から回復後、藩政改革のため高杉晋作(たかすぎしんさく)らが立ち上げた奇兵隊に鴻城隊の隊長として参加し、恭順派を打倒。
長崎に赴き、倒幕を目指す薩長連合のために武器、外国船の調達に携わりました。
1867年、王政復古後、新政府から参与兼外国事務掛を任じられ、九州鎮撫総督の参謀になります。
1869年に大蔵省に移り造幣頭になり、民部大丞兼大蔵大丞として造幣事業に携わりました。
その後、民部大輔、大蔵大輔を歴任し、中央政府の財政基盤確立、銀行や会社創設に尽力します。
1873年尾去沢銅山汚職事件を追求され辞職。
翌年、先収会社(三井物産の前身)を設立。
※先収会社とは?
明治7年(1874年)3月、大蔵省を辞任した井上馨と益田孝らに設立された商社のことです。明治9年に解散しましたが、益田らの組織・人員と事業は三井組によって引き継がれ、三井物産会社となりました。現在の三井グループも、先収会社が旧三井物産の前身としています。
1875年、元老院設立に際して議官に就任、同時に特命副全権弁理大臣として朝鮮に渡り日朝修好条規を締結。
再び欧米に渡り、1878年に帰国、参議兼工部卿、外務卿を務め、以後8年にわたって条約改正や対朝鮮・中国など主に外交関連の施策に取り組みます。
1885年に内閣が発足すると外務、農商務、内務総理臨時代理、大蔵大臣を歴任。
1907年には侯爵の爵位を授かります。退任してからは実業界の発展に貢献し、79歳で静岡県の別邸にて病没しました。
現在は宿となっております。
でも現在の研究では死んでからの建物とされているそうです。
湯河原 清光園 旧井上馨別邸の宿 |
---|
所在地 | 〒413-0001 静岡県熱海市泉26-7 |
電話/FAX | 0465-62-2038 |
交通 | ・お車:西湘バイパス 石橋IC→国道135号より県道75号に入り10分 ・電車:JR東海道本線 湯河原駅下車 バス不動滝行病院入口下車 歩1分/タクシー7分 |
大河ドラマ『青天を衝け』をご覧になりたい方はこちら↓
井上馨(いのうえかおる)2012大河ドラマ渋沢栄一との関係とは?上司と部下の関係!
大蔵省で井上を支えた渋沢栄一井上の辞職が実業界転身のきっかけに
井上馨が造幣頭・民部大丞兼大蔵大丞となった1869年、明治視察から帰国した渋沢栄一もまた、新政府に登用され大蔵省に出仕しました。
1872年には井上馨が大蔵大輔の任にあったとき、栄一が民部大蔵両省仕官貨幣鋳造材料の調達に奔走するなどともに財政施策に関わった関係性がありました。
井上が尾去沢銅山汚職事件で辞職すると、渋沢栄一も大蔵省をやめ、実業界に転身します。
※尾去沢銅山汚職事件とは?
江戸末期、財政危機にあった南部藩は御用商人鍵屋村井茂兵衛から多額の借財をなしたが、身分制度からくる当時の慣習から、その証文は藩から商人たる村井に貸し付けた文面に形式上はなっていた。
藩所有の尾去沢鉱山は村井から借りた金で運営されていたが、書類上は村井が藩から鉱山を借りて経営している形になっていた。
1869年(明治元年)、採掘権は南部藩から村井に移されたが、諸藩の外債返済の処理を行っていた明治新政府で大蔵大輔の職にあった長州藩出身の井上馨は、1871年(明治4年)にこの証文を元に返済を求め、その不能をもって大蔵省は尾去沢鉱山を差し押さえ、村井は破産に至った。
井上はさらに尾去沢鉱山を競売に付し、同郷人である岡田平蔵にこれを無利息で払い下げた上で、「従四位井上馨所有」という高札を掲げさせ私物化を図った。
村井は司法省に一件を訴え出、司法卿であった佐賀藩出身の江藤新平がこれを追及し、井上の逮捕を求めるが長州閥の抵抗でかなわず、井上の大蔵大輔辞職のみに終わった。
江藤が下野し、佐賀の乱で死刑になったため真相は解明されずに終わる
これを尾去沢銅山事件(尾去沢疑獄事件、尾去沢汚職事件とも)という。
尾去沢鉱山 - Wikipedia
このころ井上と共に先収会社を設立した益田孝も、井上に見出されたうちの一人で、同時期に大蔵省に在籍し、栄一の知遇を得た一人です
日の上の政界復帰後、三井物産を創立してから栄一と益田孝との親交は一層いいものになったといわれています。
井上馨(いのうえかおる)マル秘エピソード公開
襲撃で瀕死の重傷を負い母の介護で一命をとりとめた
外航船砲撃事件を受けてイギリスから帰国した井上馨(いのうえかおる)は第一次長州征伐を巡り藩内の俗論党と対立します。
襲撃されて重傷を負うことになりますが、このとき懐に入れていた祇園の芸子・中西君尾からもらった鏡で一命をとりとめたというエピソードが残されています。
本人は傷の重さに死を覚悟し、兄の光遠に介錯を頼んだが、母がこれも身を挺してこれを防ぎ、井上を抱きかかえて兄に介錯を思いとどまさせました。
適塾出身で、医師の所郁太郎は、焼酎で傷を消毒し、小さな畳針で50針にも及ぶ縫合をして一命をとりとめました。
床に伏せる井上を親友の伊藤博文が見舞い、井上が早く立ち去るように忠告するのも聞かず、伊藤はその場にとどまりました。
だいじょうぶかーーーー!
なお中西君尾は、高杉晋作や品川与二郎、井上らに目を駆けられた芸者で、勤王思想に共鳴していたといい、
「勤王芸者」
と呼ばれるほど影響力をもっていました。
のちの与二郎のこを生んだといわれています。