豊臣秀吉織田信長のもとで出世街道をひた走る
日本の歴史を代表するサクセスストーリーの主人公・秀吉は、1535年、尾張国愛知郡中村の百姓・木下弥右衛門の子として生まれた。
日吉丸の幼名で知られるが、
これは後世の創作。
木下藤吉郎と名乗って今川氏の陪臣となった後、1554年頃から織田信長(おだのぶなが)に小者として仕官しました。
雪の日の朝に信長の草履を温め、足軽に取り立てられたエピソードが有名だが、これも真実かどうかは定かではない。
出自の怪しい秀吉は、天下人まで登りつめる過程で、自らの歴史に過剰な装飾を施した。
このため、特に初期の逸話に関してはその多くが虚構と考えて間違いないとされる。
ただし、信長のもとで多くの功を挙げ、立身していったのは事実である。
清洲城の普請奉行、台所奉行を引き受けて成果を挙げたという記録も残っている。
そうして1560年頃、秀吉を名乗るようになります。
秀吉初期の活躍で有名なのは、1573年の金ヶ崎(かねがさき)の戦いの撤退戦だろう。
朝倉義景(あさくらよしかげ)と交戦中、浅井長政(あさいながまさ)の裏切りで後背を突かれた織田軍は窮地に陥る。
このときしんがりを務めた秀吉は、明智光秀らと共に見事に重責をまっとうした。
同年、秀吉は羽柴姓に改めたといわれる。
1575年には筑前守に任ぜられ、羽柴筑前と呼称されるようになった。
豊臣秀吉光秀と勝家を倒して信長の後継者に
冷徹で、古くからの家臣に対しても容赦のなかった信長だが、秀吉とは不思議と相性が良かった。
「猿」と呼ばれ、何かと目をかけられた秀吉は、信長のもとで才能をいかんなく発揮し、着実に出世を重ねていった。
ところが1582年、本能寺の変が起きて、信長が覇道の途中で命を落としてしまう。
1578年から、信長の命を受けて中国地方の攻略に従事していた秀吉は、このとき、備中高松城に水攻めを行なっている最中だった。
そこに「明智光秀謀反」の報が飛び込んできたため、秀吉はただちに高松城城主・清水宗治の切腹を条件に毛利輝元と講和、急いで京に軍を返した。
二百キロの距離を六日で走破したといわれる、この「中国大返し」に、光秀も体勢を整える余裕がなかった。
本能寺の変のわずか十日後に着陣し、翌日には山崎の戦いで光秀を打ち破ります。
弔い合戦に勝利した秀吉の存在感は、家中でひと際目立つところとなった。
そんな中、清洲城で信長後継と遺領の分割を決める会議が開かれた。
この席上、筆頭家老の柴田勝家は信長の三男・織田信孝を推したが、秀吉は信長の嫡男・織田信忠の長男で、まだ三歳の三法師を推した。
会議中、秀吉は三法師を抱いていたといわれるが、実は事前におもちゃを与えて三法師を手なずけてあったというから、用意周到である。
まさに武辺一辺倒の勝家とは役者が違った。
会議の結果、三法師が信長の後継者となり、信孝が後見人ということになった。
遺領分割でも秀吉が勝家を上回ったのだ。
こうなると決裂は時間の問題で、ついに翌1583年、両者の間で賤ヶ岳の戦いが起きる。
この戦は、勝家の与力・前田利家の裏切りなどもあって秀吉方の勝利に終わり、実上、秀吉が信長の後継者となった。
豊臣秀吉家康との直接対決と全国統一の完成
秀吉の天下統一の最大の障害は、徳川家康(とくがわいえやす)であった。
両者は1584年、小牧長久手で直接対決の日を迎える。
この戦は、秀吉への不満を募らせていた信長の次男・信雄に家康が加担して起きたものだが、その本質は、新たな天下争奪戦だった。
東海一の弓取りと称され、野戦レベルでは、戦上手として知られる家康の勝利が続いた。
兵力では勝りながらも局地戦での敗北が続いたことで、秀吉は作戦変更を余儀なくされる。
彼が狙ったのは信雄だった。
秀吉は信雄を領内に押し込め、経済的に追いつめて単独講和に持ち込んだ。
すると、
秀吉と戦う大義名分がなくなった家康は、三河に引き上げざるを得なくなった。
戦後、家康を臣従させた秀吉は、1585年に紀州と四国を、1586年には九州を討伐。
そして1590年の小田原の役で関東を平定すると、奥州仕置も行なって、ついに信長も成し得なかった全国統一を完成させた。
豊臣秀吉
豊臣秀吉天下人の名を自ら汚す晩年の暴挙
1592年あたりから、秀吉には、お世辞にも天下人とは思えない異常行動が目立ち始める。
今なお批判されるように、二度にわたる朝鮮出兵も問題だが、関白秀次事件の取り扱いも常軌を逸している。
1593年に側室の淀殿に嫡男・秀頼が生まれると、養子としていた実姉の息子(甥)・秀次との関係が悪化。
すると秀吉は1595年、乱行を理由に秀次を廃嫡して高野山に追放、のちに謀反の疑いで切腹を命じた。
これに伴い、三条河原において、秀次の妻子、側室、侍女らも含めた三十九名が処刑された。
五時間かけて全員の処刑が済むと、遺体の首や死骸は、秀次の首もろとも、河原に掘った大穴に投げ込まれたという。
処刑の行なわれた場所には塚ができて「豊臣秀次悪逆塚」の碑が建てられた。
しかし人々はこの塚を「畜生塚」と呼んだという。
畜生とは無論、秀次ではなく、情け容赦ない秀吉を指したものです。
長く子に恵まれなかった秀吉だけに、実子ができて養子が邪魔に思われるようになった気持ちは理解できなくもないが、どうにもやり過ぎであった。
だが、秀吉は死後にその代償を払うことになる。
享年28の秀次は、秀吉に何かあればその後継ぎとなれる一族唯一の成人男子であった。
また、このとき処刑された秀次の子らが生き長らえたならば、同じ豊臣一族として二代・秀頼を補佐していたかもしれないのだ。
我が子かわいさとはいえ、秀吉の行為の代償は実に高くついたものである。
※ちなみに茶人千利休(せんのりきゅう)にも自害を命じておりこのころは無茶苦茶だったんですね。
豊臣秀吉成り上がりの終わり
1598年8月18日、百姓の身から天下人にまで登りつめた豊臣秀吉が、その波乱に満ちた生涯を終えた。
死の一カ月前、秀吉は居城・伏見城に諸大名を集めて遺言を残し、特に徳川家康に対しては、
「秀頼のことをくれぐれも頼む」
と言った。
辞世の句は
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」
秀吉の死後、政権内での勢力争いが顕在化し、1600年の関ヶ原の戦いへと時代は突き進んでいく。
秀頼に秀吉ほどの器量はなく、1614年~1615年の大坂の役で豊臣家は滅亡する。
秀頼の子のうち、男子の国松は殺され、女子の天秀尼は仏門に入って子は残さなかったので、まさしく一族滅亡であった。
後継者に恵まれなかった秀吉だが、人一倍、好色だった。
宣教師ルイス・フロイスは『日本史』の中で、
「秀吉は三百名の側室を抱えていた」
と記録している。また、当時は一般的な風習だった衆道(男色)にも興味がなく、訝しんだ家臣が、家中で一番の美少年と対面させたときには、秀吉は手を出すどころか
「お前に妹か姉はいるか?」
と尋ねたという。
女好きの面目躍如だが、こうまでして、ほとんど子に恵まれなかったというのも皮肉な話である。
豊国神社 豊臣秀吉ゆかりの地
「豊国神社」は、豊臣秀吉をまつる神社で、日本各地の秀吉に縁のある地に鎮座しています。
博多の「豊国神社」は、戦火で焼け野原となった博多を復興に導いた太閤の遺徳を偲び、1887年に創建されました。秀吉に「筑紫ノ坊主」と呼ばれ寵愛された博多の豪商、神屋宗湛の屋敷跡に建てられています。
豊国神社 豊臣秀吉ゆかりの地 | 博多の魅力
名称 | 豊国神社 |
---|---|
住所 | 福岡市博多区奈良屋町1-17 |
アクセス | 地下鉄 中州川端駅より徒歩7分 |
豊国神社 豊臣秀吉ゆかりの地 | 博多の魅力
豊臣 秀吉、または羽柴 秀吉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、武家関白、太閤。三英傑の一人。
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「鳴かぬなら鳴かせてみよう ほととぎす」
この一句が、秀吉の性質を端的に表している。
落ちない城、振り向かない女や人材、そして天下 農民から天下人まで這いあがった秀吉は、欲しいものはあらん限りの知恵を絞って手に入れる。
「鳴かずば斬る」 信長のような過激さや、「鳴くまで待つ」 家康の狡猾さと一線を画すその生き方は、長らく庶民的な人気を獲得してきた。
そんな秀吉であるから、残した逸話は、ユーモアや叡智に満ちている。
だがよくよく調べてみれば「明るい知恵者」のイメージとは違う、狂気や謎に満ちた人物像が如実に浮かび上がってくる。
秀吉はやばいやつ
一般に「貧しい百姓出身」として知られる秀吉だが、実態は謎めいている。
『太閤記』などによれば、1537年に尾張の中村で生まれた百姓の息子で、若い頃は山で薪を売って生活していたという。
※太閤記 秀吉の生涯を綴った伝記。作者は儒学者の小瀬甫庵。著者独自の史観、資料解釈が多く見られる。加賀藩の緑を食でいる関係からか、藩祖前田利家が大活躍する。
『武功夜話』では裕福な村長の息子であり、与介という名で泥鰌を捕まえ売っていたとする説がある。百姓の息子という点で多くの説は共通している。
珍説では、秀吉が朝鮮を攻めた時の敵国の宰相だった柳成龍が紹介した「あいつは中国人」説、裏社会の情報を仕切った放浪民「サンカ」出身説、秀吉自身が言った公家出身説がある。
中国人説は、柳成龍が「もともと秀吉は中国の人間で、 薪を売って暮らしていた」と述べていることから。 サンカ説は、秀吉が農民だったにもかかわらず、城の建造に詳しく兵法にも優れていたため、サンカ出身とみなされたのだ。
サンカとは裏社会のネットワークを駆使した謎の放浪民のこと。
最後の説は、秀吉自身が関白に就任した際「公家である中納言の血が流れている」と主張したが、そもそも萩中納言という人物がいない。
なぜ、こうも出自がはっきりしないのか。
ひとつには身分の劣等感によって、秀吉が出身について確かなことを話さなかったと推測される。
秀吉が最初に仕えたのは今川義元の家臣・松下之綱だった。
※松下之綱 (まつした ゆきつな) 近江源氏六角氏の一族で、今川義元に仕える。今川氏が滅亡すると徳川家に仕え秀吉と敵対するが、後に召し出され家臣となる。90年に遠江久野1万6000石を与えられた。1598年没。 娘・おりんは柳生宗矩の正妻。
そこでは、農民の出身であるためイジメが酷く、傷心した秀吉は一度村に戻っている。
戦国の世は身分など関係ない下克上といわれるが、実はそうでもない。
成り上がれば成り上がるほど、気がかりになったのだろう。
秀吉の場合は足利義昭の養子になろうとしたり、平氏を名乗るなど策を講じている。 これは、現代でも芸能界や政界に残る「二世や貴種を尊ぶ」傾向と似ている。
加えて、当時の農村には、特別なことがないかぎり、記録を書く習慣がなかった。
これが、秀吉の出自がはっきりしない一番の要因だろう。ちなみに「特別なこと」とは、一揆や天災などを指す。天下人である秀吉の出自がはっきりしないというのは、実に興味深いではないか。
右手の指が6本あった
京都の高台寺にある、有名な秀吉の肖像画。 その、長い笏を持っている右手に注目したい。
親指を隠すように持った不自然な持ち方は、2本の親指を秀吉が隠したためと指摘されている。
もちろん、これは多指症と呼ばれるもので、人種に限らず稀に見られるものらしい。
秀吉の大老となった忠臣・前田利家の『国祖遺言』では、こう記されている。
あるとき、深夜の聚楽第で、利家を囲んだ密会が開かれた。そこで、秀吉の指のことが話題になった。
「秀吉様は右の手の指が、一本多く、6本もあった。若いときに6番目の指を切り捨てた方が良かったのだが、しなかったという。だから、後まで指が6本残ったのだ」
ちなみに、信長も、
「六つめが・・・」
とあだ名で呼んでいる。『国祖遺言』はこのエピソー ドを「確かなこと」として、締めくくっている。
なぜ、このような症状が秀吉にあったかは分かっていないが、医学的に日本人の多指症は、手なら親指に見られるケースが多く、ほとんどは幼いうちに切ってしまうのだという。
外国人を例に挙げれば、作家のサリンジャーや、毛沢東の4番目の夫人・江青、メジャーリーグで活躍したアントニオ・アルフォンセカなどがこの多指症だった。
秀吉のルックスは決して恵まれたものではなかった。
史書では、「彼は身長が低く、醜悪な見た目だ」
「おまけに眼がとび出ていた」(ルイス・フロイス『日本史』)
と記されており、朝鮮から来た二人の使者の言
葉は次のような印象を抱いている。
「ネズミのような目をしているから怖くなかった」(金誠一)
「まるで大猿だ。目ヂカラがあって、 光と威厳を感じさせる。立派な人だ」(黄允吉)
威圧感を覚えたかどうかで意見が分かれているが、ネズミや猿といった、少々下種なものに例えているという点で、共通している。
自分の容姿のことは、秀吉自身が一番よく知っていたのかもしれない。
彼は、
「皆が見るとおり、ワシは醜い顔をしている。五体も貧弱なのだ」
と言ったことがあるという。
秀吉は信長の意志をつぎ、天下統一の偉業を果たした。
その性格は、明るく潔かったともいわれる。コンプレックスなど一見、感じさせない印象だ。
そんな彼だが、太閤となったとき、肖像画を狩野光信に頼んだ。そこで3つの注文をつけたという。
「見栄え良く、威厳のある顔つきで」「顔を小さくし、首から下を際立って大きくし」「顔立ちがよく見えて、立ち上がれば六尺(180センチ)はあるであろう、豊かな偉丈夫で描くように」
当時の男性の平均身長が150センチ台であることを考えれば、身長180センチともなれば神話を感じさせる背丈だ。
やがて、出来あがったものが、先の肖像画である。
光信への注文の数々が、生涯拭い去ることができなかった、秀吉の身体的コンプレックスを表しているように思える。
逸話は嘘だらけ
華やかに脚色されたのは肖像だけではない。有名な「墨俣一夜城」などの逸話の信憑性も、現在では疑問が呈されている。
また、秀吉が信長に仕えて間もない頃、信長が草履を履いたときに、冷えた草履では足が冷たいからと、草履を着物の懐に入れて暖めていたというエピソードも、江戸期に成立した架空の逸話である。
「三杯の茶」も有名なエピソードだ。
まだ秀吉が信長の部下で、近江長浜城に封じられていた時のこと。
鷹狩りに出掛けた秀吉は、喉が渇いたので近くの寺に寄った。
そこで茶を所望すると、寺の小僧が大きな茶碗にぬるめに7、8分程度の茶を煎れた。
一気に飲み干した秀吉は、更にもう1杯所望。すると今度は、少し熱めの茶を茶碗に半分ほど入れて出した。
秀吉が3杯目を所望すると、小僧は小さな茶碗に熱い茶を煎れ、差し出した。
効率よく喉の渇きを癒そうとする小僧の機知に感じ入った秀吉は、彼を連れ帰り小姓として召抱えた。
この小姓が、後に豊臣政権下きっての能吏として辣腕を振るう石田三成であった・・・・・・という話。
の三成の機知と、人材の獲得に対する秀吉の貪欲さが伺える逸話として有名だが、実はこれも後世の創作。
三成の息子が書き残した史料によれば、三成が秀吉に仕えたのは16歳の頃で、おまけに場所は姫路であった。
※狩野光信 安土桃山時代に活躍した天才絵師・狩野永徳の息子。若い頃から織田信長に仕え、安土城の障壁画を描く。豪華絢爛の画風で知られた父とは正反対に、繊細で自然な奥行きのある構成を好んだ。
※墨俣一夜城(すのまたのいちやじょう) 1566年、信長による美濃侵攻にあたって、秀吉が要衝墨俣に一夜にして城を建造したという逸話。敵に襲撃される危険を孕みながらの築城である為、 秀吉は夜陰に紛れて川に木材を流し、突貫工事で城を完成させたという。秀吉の機略が冴えわたる、ドラマや漫画でも見せ場となるエピソードだが、この話が詳細に記載されている一次資料は『前野家古文書』のみ。この書物が偽書であるかどうかが、現在議論されている。
美少女狩りとセックス指南書
秀吉は40歳を過ぎると猛烈な女漁りを始める。
京都や堺で美しい娘や未亡人がいると聞けば、部下に連れてこさせた。気に入れば愛人にし、気に入らなくとも2日は手元に置いたという。
秀吉には梅毒の疑いがあったが、町から連れられた娘は知るよしもない。また、大名の娘をあらかじめ養女にし、22歳になれば自分の情婦にした。
こうして召し上げられた女性は300人にも及んだという。
「その淫らな行為は、宮殿を遊郭にしてしまったほどだ」
とフロイスはいう。
こうして多くの側室を抱えた秀吉だが、それでも満足はできない。
多くの諸大名を虜にした性の指南書 『黄素妙論』に、秀吉も傾倒していく。
著者は日本医学の祖ともいわれる曲直瀬道三。
これは、今でいう"セックス・マニュアル”だ。
一例を挙げると、
「男は女人の反応に慌てて荒々しく出し入れをしてはいけません。男子たるもの精の液を常に保つのが大切で、みだり頻繁に放出すべきではありません。女人に情欲を覚えさせ、自ら欲するところまで導きます。玉門(女性器)に強く出し入れをしますと、すぐ漏れます。目的を達するためには戦術を大事にしなければなりません」
「おのれの欲望だけを勝手に処理する性交は、女人が満足しません。反応も上滑りに終わり、体にも悪い。これを例えれば、戦いで敵に少しの損害も与えずに、虚しく犬死にするのと同じです」
今でも通じるこのセオリーを、秀吉が無視したとは思えない。
太閤が犬死になど許されないことだ。とはいえ、『黄素妙論』は養生や健康が主眼になっているものの、俗にいう3Pの作法も記載されているほどで、夜の華が咲き乱れたことに違いはなさそうだ。
農村出身の秀吉に男色という習慣はなく、美しい少年を見つければ、
「おぬしに姉妹はいるのか」
と話しかけたという。女好きの秀吉は、300人の女性を抱え、おかげで側室・淀殿と正室である高台院との関係がギクシャクするなど、女性には悩まされた。
また、キリスト教を認めていた秀吉が、1587年に突如、禁止令を出したのは、政治的な理由だけではなく、美少女狩りの挫折も挙げられている。
というのも、秀吉がいつものように美少女を召し上げようと有馬領内の娘たちに狙いをつけると、キリストに貞節を誓っている彼女たちは逃げてしまったのだ。
淀殿には他の大名とのキス禁止を呼びかけるなど、嫉妬深かった秀吉。有馬領の娘たちが彼に与えたショックは、実は大きかったのかもしれず、そうであれば、一国の法律を、秀吉の女好きが動かしたということになる。
得意戦法は「兵糧攻め」
秀吉は緻密な男だった。特に殺しにおいては手ぬかりがない。
信長の仇を討つため岡山から京都へ急速な引き返しを図った「中国大返し」では部下への細かい気くばりや、緻密な連係プレイが成功した例だった。
秀吉の代表的な戦術は徹底した兵糧攻めだ。なかでも「三木の干し殺し」はすさまじい。
1580年、信長に逆らった別所長治を討つため、秀吉は三木城を包囲する。敵軍の兵糧は残りわずか。
籠城している8000の兵は、飢えに耐えながら必死の防戦。
至急、毛利氏が別所に救援を寄越そうとするが、秀吉が砦を次々に落としたことで望みは絶たれてしまう。
やがて、兵糧が底をついた。
閉じ込められた人々は、雑草やぬかを口にし、次に牛や馬、鶏や犬を殺して食べた。
三木城は、1年半もの長きに渡り兵糧攻めを受け、既に城内は、数千人が餓死しており、最後まで生き残った人々は溢れる死臭のなかで、傷んだ肉を刀で刺して食べたという。
秀吉は完全な戦意喪失にこだわる。包囲を厳重にした三木城の周囲では、たくさんのかがり火が焚かれていた。
「深夜でも白昼のようであった」と「播磨別所記』に記されるとおり、秀吉は彼らの睡眠すら許さなかった。
一方、姫路城に帰った秀吉は茶会を開き、つかの間の休息をとっている。
これと並ぶ、秀吉の代表的な兵糧攻めが「鳥取の飢え殺し」である。 三木城攻めの翌年、毛利家の吉川経家が反旗をひるがえし、3000人の兵とともに鳥取城に立て籠もる。
秀吉は鳥取周辺の兵糧を時価の2倍で買い占め、城の周り1キロを柵で囲み、完全封鎖する。
川に杭を打つなど、輸送路の封鎖も万全だ。
経家は絶望的な状況に陥った。
あっという間に兵糧がなくなり、人々は木の実や皮を食べはじめた。
4ヵ月が過ぎた。
※中国大返し 秀吉が本能寺の変を受けて、中国から素早く軍を返して明智光秀と対峙した大移動のこと。秀吉は信長の死(6月2日)の翌日には光秀の反乱を把握し、戦っていた毛利軍と和平を取りまとめる。6日に敵の撤兵を確認するや、すぐさま兵を返し22日には摂津に達していた。
「餓鬼のごとく痩せ衰えた男女が、城の柵へもたれかかり、悶えている。「助けてください』と叫んでい
る。
阿鼻叫喚の悲しみ、なんと哀れなことか。目もあてられず」
と、『信長公記』にある。
鉄砲隊に撃たれた者がいれば「争って捕まえて食い尽くした」というから悲痛極まりない。
こうした兵糧攻めは、秀吉がつねづね自慢していた戦術だった。
姫路城に戻った秀吉は、やはり茶会を開き、優雅なひとときを楽しんでいる。
秀吉と茶人
茶人としても知られる秀吉だが、戦国の大名は多く茶道を好み、血生臭い修羅場を離れ、気持ちをあらためて一服した。礼を尊ぶ静謐な茶室は、心が洗われる空間であった。
秀吉は、黄金で塗られた改造茶室をつくり、持ち運べるようにした。
茶室に部下を招き、謀略を練る密室として利用するなど、政治としての茶の美味も味わっている。
手な茶会を開くことを好んだ。何度か開いた仮装茶会(とくに名古屋城のものが有名)では、参加する武将達に、わざと身分の低い者の格好をしてくるように通達した。
自身も瓜売りの姿で参加したと伝えられる。
武将たちも喜んで通達に応じ、徳川家康は同じく瓜売り、伊達政宗は山伏に扮し参加したという。
1587年に開かれた北野大茶会は、10日間に渡って開催される大規模な茶会だった。
「茶好きは集まれ。ワシが茶をたててやる」
秀吉の大号令のもと、花盛りの場所で、草木を愛でる者共が一斉に集った。武士とは限らず庶民の参加も許されていた。
その数は803人といわれ、太閤の茶を待つ。 次から次へと茶をしばいていく秀吉。千利休・津田宗及・今井宗久という、時代を代表する三茶人と共に4人で茶を点てても、一人当たり最低200人はさばき続けなければならない。
熱湯を注ぐ、 抹茶を入れる、掻き回す、礼を尽くす。掻き回す。
ところがこの大茶会、この日限りで中断となってしまい、開されることもなかった。
理由は「肥後で一揆が発生し、秀吉が機嫌を損ねたから」というのが有力な説だが 「秀吉の自己顕示欲が一日で満たされたから」「疲れたから」など、秀吉らしい気まぐれな仮説もある。
※千利休 和泉国・堺の商家に生まれる。若くして茶に親しみ、武野紹鴎に師事する。 織田信長が堺を支配した際に仕え、その死後は秀吉の厚い信任を受け3000石の碌を与えられた。1591年、突如秀吉の勘気に触れ切腹を命じられる。享年70歳。
秀吉は、その大茶会に協力した、当代きっての名茶人・千利休を殺した。
堺の豪商のメンバーであり、政治に対する発言力が強かった利休。
あるとき、彼が大徳寺の山門に自分の木像を設置したことが、秀吉の怒りを買ってしまった。
「ワシも歩く山門に、木像が見下ろすように立つ。利休はワシより偉いのか」
すぐに切腹命令が出された。
利休の弟子による嘆願が集められたが、覆ることはない。
やがて、利休は自害し、斬られた首は惨めに晒された。さらに木像が取り外され、今度はそれが一条戻橋で磔にされたのだった。
人ではなく木像を磔にしたのは、有史以来初といわれ、秀吉の恨みの深さが伝わってくる。
実は、この事件については、謎も多い。木像の件は「いいがかり」に過ぎず、茶人・利休の発言力が大きくなったため、これを排除しようとした石田三成ら反利休派の陰謀だったとする説や、利休が茶器の目利きを不当に行い、高値で売るなど詐欺商法をしていた疑いがあったこと、秀吉の毒殺容疑など諸説ある。
ほかには、例によって秀吉が利休の愛娘を手込めにしようとして断られた美少女狩りの失敗”説などもある。その際、利休は、
「娘をやれば、私の地位がそのために築かれたものだと思われる」
と言って秀吉の要求を退けたといわれる。
利休の死の真相は今に至ってもはっきりしていない。
太陽帝国の挑戦
晩年、秀吉は海外を侵攻した。 諸大名に朝鮮出兵を命じ、15万の兵力で大陸を攻めた。
1592年の文禄の役、99年の慶長の役がそれだ。
当時は「唐入り」と呼ばれ、秀吉が目指したのは帝国建設である。
「天皇を大陸に移し、縁者を唐の関白にしたい」
緒戦こそ勢いに乗った。
だが敵の水軍に制海権をとられると、徐々に苦戦を強いられていく。
戦場では武功を示して褒美をとるために、刀で相手の耳や鼻を根こそぎ削いだ。
削いだ耳鼻は、腐らないよう樽のなかに集められ塩漬けにした。
「鼻をかき斬り、 具足の鼻紙入れにしまった」(『朝鮮物語』)
「1300人を斬首して、ことごとく耳を斬った」(『清正公行状』)
など、船で秀吉のもとへ届けられた耳鼻の数は5~10万個以上、そのなかには女性や、生まれたばかりの幼児の耳まであったという。
朝鮮王朝の武将・李舜臣は文禄の役において半島各所で日本軍を撃破、沿岸の制海権を取り戻した。
一度讒言で失脚するが復職、戦国武将たちを苦しめ続けた。
露梁津の海戦で戦この頃には秀吉は耄碌しており、家康が戦況を隠し、朝鮮との交渉は小西行長ら部下たちの独断で進んでいく。
秀吉の威光は、この頃には衰えていたのだ。
終戦後、この戦争は島津義弘らが朝鮮から優れた陶工たちを連れ帰ったため、陶器愛好家たちから、
「やきもの戦争」
と呼ばれ、一方世間には、加藤清正が戦地で虎に挑む「虎狩り伝説」の記憶しかない、との評判が残された。
秀吉には、優秀な弟がいた。
名を秀長という。病に倒れた彼は、死の前年に病床で、
「近頃の兄者の振る舞いには意見したいことがある」
と、兄の言動を大変気遣っていたという。
この秀長が、秀吉が頼ることのできる、ただ一人の親族であった。すでに豊臣家滅亡の足音は聞こえ始めていたのだ。
1598年、秀吉は伏見城で62歳の生涯を終えた。
秀吉の葬儀は行われなかった。
遺体は、三成ら奉行数名で京都東山の阿弥陀が峯にひっそりと移された。
それは、音も出さずに、声も漏らさず隠れて行われた。体よくいえば密葬だ。
豊臣家一丸となって大規模な葬儀が打てない。
この事情を、石田三成の末裔の一人・石田多加幸は「写真で見る豊臣秀吉の生涯』のなかでこう解き明かす。
「長年にわたる朝鮮出兵の失敗で、武将と文官との間に亀裂が起こり、確執が尾を引いて伏見城下が一触即発の状態に陥っていた」
また、
「こうしたとき大老の徳川家康が勢力伸長をはかって御法度の大名間縁組を結んだため、生前秀吉が期待した『五大老・五奉行合議制』の政治が崩れ始め、豊臣家が不安定な状況に追い込まれていた」
※豊臣秀長 秀吉の異父弟(一説に同父弟)。兄に従い数々の合戦に従軍し、武功をあげる。統治の難しい大和、紀伊和泉国を平和裏に治めるなど、行政手腕も卓抜したものがあった。
※五大老五奉行合議制 豊臣政権の根幹を成す制度で、秀吉の死後に台頭が予想される家康を、合議制と盟約で抑えつけるシステム。前田利家、小早川隆景といった有力大名の逝去で有名無実化した。
身内で意見が一致せずに騒乱必至、大立者が裏切ってくる。
これが一世一代で成り上がり、派手好きで知られた男の最期の身内事情だった。