無能な父に苛立つ聡明な若武者、浅井長政(あさいながまさ)
浅井長政は織田信長(おだのぶなが)と同盟を結び、信長の妹であるお市を妻にするなどの固い絆を持って共に天下を目指したものの、最後は信長と敵対して滅ぼされた悲劇の武将として有名である。
なぜ長政は義理の兄だった信長と袂を分かち、一族もろとも破滅することになったのか。
その背景には、浅井氏が背負っていた「義」という重い枷があった。
1545年、南近江で浅井久政の嫡男として生まれました。
子供の頃から利発な少年だった長政は、知勇と武勇に優れた若武者に成長する。
それに比べて父の久政は、当主としての器量を十分に備えているとはいいがたい人物だった。
領土を接している六角氏に対して、弱腰な政策ばかりとり、強気の六角氏にいいように扱われていたのだ。
六角氏の浅井氏への圧力は、ますますエスカレートする。
浅井氏に対する優位をはっきりと示すため、六角氏は当主・六角義賢の「賢」の字をとって、長政に「賢政」という名前を名乗るよう命じ、さらには長政に、六角氏の家臣一族の娘との婚姻を強いたのである。
つまりこれは、浅井氏が六角氏の家臣であるということを公然の事実とするための圧力だった。
このような六角氏の態度に、あくまで弱気な父・久政。
武将としての器で父をはるかに上回っていた長政は、苛立ちを抑えきれなくなっていた。
浅井長政
浅井長政(あさいながまさ)古い「義」を否定して頭角を現す
六角氏の家臣一族の娘との縁談が持ち上がったとき、長政は十六歳だった。
父の命とあって渋々ながら婚姻を承諾した長政だったが、義父となる妻の父にあいさつに行けと命じられたことをきっかけに、長政の不満は爆発する。
なぜ大名家の跡取りである自分が、隣の大名の家臣に頭を下げに行かねばならないのか。
長政は怒って婚姻を破棄、「賢政」という名前も返上してしまう。
普段から久政の弱腰政策を苦々しく思っていた家臣たちは、これに喝采を送った。
今や息子の長政の方が、主君としての器量が上であるということを見抜いた家臣たちは、久政に隠居の圧力をかけるようになる。
この長政の行為によって六角氏と浅井氏の関係は険悪になり、やがて戦に発展する。
数では劣る浅井軍だったが、ここでも長政は優れた柔配を振るって、六角氏を追い払うことに成功したのである。
十六歳という若さながら堂々たる武勇を発揮して戦場を駆け巡る長政の姿に、臣たちはますます心酔したという。
結局、久政は家臣たちによってなかば追放されるように隠居させられ、家督は長政に譲られた。
長政は勢いそのままに六角氏の領土を次々に攻め落とし、浅井氏の領土を破竹の勢いで広げていった。
当然のことながら、その名声が周辺に輝くようになるのに、そう時間はかからなかった。
浅井長政(あさいながまさ)新興勢力・信長との同盟
同じ頃、もうひとりの若き天才武将・織田信長(おだのぶなが)は、天下への大いなる野望を胸の奥に燃やしながら、着々と足場を固めていた。
その頃の信長は、今川義元(いまがわよしのぶ)を破ったことで、全国にその名が知れはじめていた。
第十五代将軍足利義昭を手中に収め、傀儡政権とすることでその権力を得ようと目論んだ信長は、地理的な利点と厚い人望を併せ持つ長政と同盟関係を結ばうと考えた。
信長が提案したその同盟の条件は、浅井氏にとって有利なものばかり。
しかし長政は大いに悩んだ。浅井氏と古くから固い同盟関係にある、朝倉氏の問題があったからである。
越前国の朝倉義景と信長は、地理的な勢力争いから対立していた。
もし朝倉氏と信長が交代状態になった場合、浅井氏は信長と朝倉氏、両者との同盟関係の間で板ばさみになってしまう。
古い友人との国いをするか、それとも新たに出会った友人の誘いに乗るか……
という葛藤がが長政にはあった。
そこで、この同盟には特別な条件がつけられることになった。
「浅井氏との同盟がある限り、信長は朝倉氏を攻めない」
というものである。
これならば、父の代からの同盟国との関係も維持したまま、勢いに乗る大勢力である信長との同盟関係を結ぶことができる。
長政はこの申し出を受け入れ、信長は同盟の証として、実の妹であるお市を長政に嫁がせた。
信長はこの同盟を非常に喜び、長政とお市の結納費用も全額負担するなどして大いに祝った。
この同盟によって、信長がまんまと将軍義昭を手中に収めたことを考えれば、それもそのはずである。
こうして信長と長政は我兄弟となった。
浅井長政(あさいながまさ) 信長の裏切り、長政の苦悩と決断
同盟関係を結んでしばらくは、長政が織田軍の上洛典に参加して武功を挙げるなど、円満な関係が続いていた。
ところがこの同盟関係は、信長の突然の裏切りによって壊れてしまう。
同盟を結ぶ際の条件であった
「朝倉氏を攻めない」
という約束を破り、織田と徳川の連合軍が朝倉家を攻撃したのだ。
「将軍の上洛命令を無視した」
というのが信長の言い分だったが、それは建前に過ぎず、越前の制圧が目的だったと思われる。
それを知った長政は苦悶した。
「古い友人との固い絆を守るか、それとも新たに出会った魅力的な友人の誘いに乗るか」
というかつての葛藤が再び蘇ったのである。
信長と
同盟を結んだ際、これに反対した古い家臣たちは「それ見たことか」と言わんばかりに長政を説得した。
朝倉氏を助けて織田信長・徳川家康(とくがわいえやす)軍と戦うべし、というのだ。
ついには隠居していた父・久政までが、長政に信長を討つよう進言した。
重臣の中には
「古い同会は捨て、信長と共に天下を目指すべきだ」
という意見の者もいたが、少数派に過ぎなかった。
※今思えばその意見の力がもっと大きければ日本は変わっていたかもしれません。
結局、長政は昔からの同盟国である朝倉氏の味方につき、織田・徳川軍と戦うことを決めた。
かつては否定した、古い「義」を貫くことを選んだのである。
織田信長
浅井長政(あさいながまさ) 敵である信長にまで惜しまれた最期
浅井軍は、越前の朝倉氏を攻めていた織田・徳川連合軍を背後から急襲した。
当初は優勢に戦を進めていた織田・徳川連合軍は、はさみ討ちに合う形となり、危機的な状況に陥る。
長政にとってみれば先に裏切ったのは信長だが、信長にとっての裏切り着は、長政の方だったに違いない。
「金ヶ崎の戦い」
金ヶ崎の戦いは、戦国時代の1570年に起きた、織田信長と朝倉義景との戦闘のひとつ。金ヶ崎の退き口または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、織田信長の撤退戦である。
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と呼ばれるこの戦では、不意のはさみ討ちというピンチにもかかわらず、信長は命からがら逃げ延びている。
これは、織田軍がいち早く長政の裏切りという情報を知ったからこそ、可能だった命拾いである。
そして、その情報を織田軍にもたらしたのは、信長の妹にして長政の妻であるお市だったのではないかといわれている。
※あずきの入った袋の両側が結ばれているものを暗号として届け、両側から攻められていると伝えたかったようです。
長政は妻にまで裏切られたのだった。
「金ヶ崎の戦い」 の後、朝倉軍と共に戦った
「姉川の戦い」で浅井軍は善戦したものの、朝倉軍の施明きを徳川軍に突かれて敗走。
姉川の戦いは、戦国時代の元亀元年6月28日に近江浅井郡姉川河原で行われた合戦である。「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだ。
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武田信玄による援軍が上洛を目指して進軍し、状況が好転したのも束の間、信玄が持病の悪化で死去すると、援軍も撤退してしよう。
大挙して攻め寄せる織田軍に包囲され、朝倉軍が減はされると、次は浅井軍の出だった番であった。
長政を高く評価していた信長は一気に進事せずに、何度も降伏を回したという。
信長は裏切り者であるはずの長政に異例の説得を続けたが、長政はすべての降伏勧告をはねつけ、1573年、父・久政と長男共に自生して果てたのだった。
※市、娘の初、江、茶々は豊臣秀吉に救出されることになりました。そしてのちに秀吉と大きくかかわっていくことになりますが、それはまた別の機会に・・・