真田幸村
真田幸村の通説では語られていない人物像とその真実とは?
真田幸村。
その名は大坂の陣の活躍と共に伝えられています。
冬の陣では「真田丸」と呼ばれる砦で大軍を退け、夏の陣では一転、敵軍の本陣に苛烈な突撃を繰り返し、徳川家康をあと一歩のところまで追い詰めた。
戦国時代最後の合戦に「死に花」を咲かせたという悲劇性も相まって、幸村は日本人の間で絶大な人気を誇っています。
容姿端麗にして、沈着冷静、知謀沸くが如し、その武勇一騎当千……大衆人気に引っ張られながら「幸村像」は進化してきた。
その過程で置いていかれた感のある、真実のの幸村をここで是非知っていただきたいと思います。
上記で少し触れていたようにそもそも、幸村の本名は信繁だ。
「幸村」の愛称は江戸時代に軍記物『難波戦記』に記され、大ヒットしたことで日本人に定着しました。
信繁は生涯を通じて幸村の名を名乗ったことはありません。
幸村は、1567年に真田昌幸の次男として生まれました。
真田家は、信濃の豪族だった海野氏から派生した三田氏が先祖とされています。
三田が訛って「真田」になったといわれています。
現在の長野県上田市真田町が発祥の地です。
父・昌幸は武田信玄(たけだしんげん)の側近として活躍。
「武田二十四将」の一人となった足軽大将で、出城を用いた奇抜な戦術、敵の裏をかく智謀に優れたことから、小さい信玄と異名をとりました。
武田家滅亡後は織田家、北条家、徳川家、豊臣家、上杉家と次々に従属先を替え、所領を維持しました。
1600年、家康が上杉家討伐の軍を起こすと、真田家では重大な家族会議が設けられた。
石田三成率いる西軍につくのか、徳川家康率いる東軍に与するのか、が議題です。
昌幸が次々に主家を替える過程で、長男信之は家康の、次男幸村は秀吉の人質として仕えた過去があったため、兄弟の意見は真っ二つに割れます。
昌幸は第一次上田合戦で家康の重臣が率いる大軍を寡兵で蹴散らした経緯もあり、西軍派です。
相当に緊迫した話し合いであったようで、密談の様子を心配した家老・河原綱家が扉を開けると昌幸は激怒、綱家の顔面歯茎に下駄を見舞ったそうです。
前歯が砕け散った綱家はその後も昌幸に仕えたが、前歯がないまま歯抜けで生涯を終えています。
幸村は幸村で、信之を手厳しく批判します。
「兄者。我らは豊臣家に恩があります。だから、彼らのために潔く身を捨ててこそ本望なのです。もちろん、兄者もそんな武士の生き様を理解していると思います。それだけに、そんな兄者が徳川に味方し、家を守って命を永らえようとは、恥知らずの誇りを免れませぬ」
真田幸村/信繁
信之は、
「お前の言葉は無礼なり!」
と応じ、刀を抜いて斬りかからんとしました。
家老に下駄を投げるほど興奮していた昌幸も、これには驚き体を張って止めました。
結局、昌幸と幸村は西軍、信之は東軍に分かれて戦うことになったが、幸村は腹の虫がおさまりません。
密談の帰り道、昌幸と信之が正覚寺で一服していると、なんと幸村が腹いせに信之の敷地に火をかけようとしています。
その不審な動きに気づいた昌幸は、
「ばかなことをする! 放火も時によりけりだ」と言いつつ馬を制し、幸村をうまくなだめたという。
後年「真田家は家を存続するために、うまく、兄弟を両勢力に分散させた」とする向きもあるが、逸話から伝わってくるのは一時の感情に激しブチギレ寸前の親子三人であります。
豊臣に殉じた悲運の名将 天下統一間近の家康を脅えさせた真田の名
1614年、方広寺を再建した豊臣家に、
「寺の鐘に刻まれた文字が自分を呪っている」
と家康が言いがかりをつけた、いわゆる「方広寺事件」をきっかけに、徳川家と豊臣家の間に一触即発の空気が流れます。
この時期、豊臣秀吉(とよとみひでよし)なき豊臣家に味方する大名はほとんどおらず、豊臣家浪人を戦力に頼るほかないような状況でした。
そんな中、九度山に蟄居中の真田幸村のもとに使者がやってきます。
この日が来るのをじっと待っていた幸村に、無論、否やはない。
真田幸村が蟄居を命じられた場所は、常に徳川家康(とくがわいえやす)の監視下に置かれていました。
そこで幸村は村役人らを招いて酔わせると、その隙に九度山を脱出します。
古川柳に
「村中を酔わせて真田ずっと抜け」
とあるのは、このことである。
幸村は国元の真田家旧臣たちを召集し、大坂城に入ります。
真田入城、の知らせを聞いた家康は、板戸にかけた手を震わせながら
「親か、子か?」
と聞き返しました。
それが幸村と知ると、家康はすでに幸村の父・昌幸が死んでいることを思い出して胸をなで下ろしたという。
戦国時代の荒波を巧みに生き抜いた父・昌幸、武田信玄(たけだしんげん)の家臣として信玄にその知力を認められた祖父・幸隆に比べれば、まだ幸村の名は家康を脅えさせるほどではなかったが、まもなく始まる大坂の役において、幸村は自分をゆった家康を大いにおそれさせることになるのです・・・
真田幸村(さなだゆきむら)流転の果てに天下人・豊臣秀吉の傘下へ
改めてさらに詳しく解説します。
幸村は、戦国きっての策士として名高い真田昌幸の次男として生まれた。生年は1567年とされています。
幸村は後年つけられた異称とされ、本名は信繁です。
この名は昌幸が、信玄の弟・信繁の名にちなんでつけたものであります。
1575年、幸村九歳のとき、真田氏の主筋にあたる武田勝頼が、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗北。
その際、父・昌幸の兄たちが亡くなったため、真田家は昌幸が継ぐこととなりました。
そして1582年、織田・徳川・北条連合軍の甲斐侵攻で武田氏が滅亡すると、真田氏は織田信長に帰順しました。
この頃から真田氏は、御家存続のための綱渡りを始めます。
同年、本能寺の変で織田信長(おだのぶなが)が死ぬと、真田氏は続いて北条氏に、その二ヵ月後には徳川氏に帰属。
1585年には上杉景勝を頼りました。
このとき、幸村は昌幸の命により上杉の人質となりました。
その後も弱小の真田氏が主家を変えるたびに、幸村は諸勢力の間を転々とするが、最終的に昌幸が豊臣傘下に入ったため、幸村も秀吉のもとにとどまることになります。
そして1594年には豊臣姓を許されるまでになりました。
真田幸村(さなだゆきむら)家名を残すため兄弟で敵味方に分かれる
1600年、昌幸と幸村、そして幸村の兄・信之の真田父子三人は上杉討伐軍に従って会津を目指していました。
その最中、下野犬伏の陣中に石田三成(いしだみつなり)からの密書が届く。
西軍への加担を求める手紙である。
この扱いを巡って、ついには信之と幸村が互いに刀に手を掛け合うほどの激論になったという。
長い議論の末、結局昌幸と幸村は三成の西軍に、信之は東軍につくことになりました。
これは幸村が三成の盟友・大谷吉継の娘を娶っていたこと、信之が家康の重臣・本多忠勝の娘を、いったん家康の養女にしたうえで妻に迎えたことが関係していたともいわれています。
が、それ以上に、戦の結果がどちらに転んでも真田の家名は存続するという、策士家系に相応しい判断があったのが大きいのです。
幸村は父と共に家康の陣を抜けるが、これを聞いた秀忠は、
「虎を野に放したわ」
と声を荒げたという。
十数年前の上田城攻めの際、昌幸に惨敗を喫した記憶が甦ったのだろう。
そして上田城に反旗を立てた真田父子を攻めたのも秀忠でした。
だが、秀忠はまたしても真田の術中にはまり、3万8千の大軍が釘づけになったばかりでなく、幸村の
奇襲で秀忠自身も命の危険にさらされることとなりました。
真田幸村(さなだゆきむら)関ヶ原の戦いで西軍につき、九度山へ流される
幸村がまだ幼いころ、主家の武田氏が滅亡したため、父・昌幸とともに各大名のもとを転々とし、上杉景勝や豊臣秀吉のもとに人質に出され、こうした状況から、幸村の初陣は24歳と遅く、秀吉の「小田原征伐」に従軍したのが最初となりました。
その後、兄・信之が昌幸のもとから独立して徳川家康の与力大名となったため、幸村は父・昌幸の後継者となり、常に行動をともにすることになります。
1598年、時の最高権力者である秀吉が没すると、息子の秀頼がその跡を継いだが、「朝鮮出兵」以来の武断派と文治派の対立や上杉景勝が越後奪還のために帰国するなど、さまざまな問題が浮上してきました。
1600年、五大老の筆頭だった徳川家康は上杉征伐の軍を起こし、会津へと向かいます。
幸村は、昌幸や信之とともに従軍することになったが、家康の留守を狙った石田三成が大谷吉継とともに挙兵し、昌幸のもとにも「家康弾劾状」が届きました。
有名な「関ヶ原の戦い」のはじまりである。
真田家では協議の結果、家康の与力大名であった信之は東軍に、秀吉の与力大名であった昌幸は西軍につくことになり、幸村も昌幸に従って西軍につくことになったというのが通説です。
ともかく、昌幸・幸村父子は、上杉討伐のために進軍していた徳川軍から離脱し、上田城へ引きあげて籠城をはじめました。
上田城へは、徳川秀忠指揮のもと、譜代の大名を中心とした三万もの兵が押し寄せたが、昌幸と幸村はわずか三千の兵で迎え撃ち、大損害を与えたのです。
真田幸村(さなだゆきむら)城外に「真田丸」を築いて徳川勢を悩ませる
真田家の健闘もむなしく関ヶ原の戦いは東軍勝利に終わりました。
本来であれば幸村らも死を免れないところだが、信之の必死のとりなしもあり、父子は九度山に蟄居を命ぜられます。
この間、家康との最終決戦を予想して、昌幸は幸村と策を練ります。
昌幸は自分が生きていれば、徳川軍を釘づけにし、その間に秀吉恩顧の武将に働きかけることも可能と考えていました。
だが、幸村には実績と名声がないため、諸大名を動かすことはできないと見抜いていました。
その昌幸が蟄居中の1611年に死去、幸村は父の名に頼らない独自の策を用意する必要がありました。
1614年、冒頭に述べたように「方広寺事件」をきっかけに大坂の役が起き、幸村は豊臣方の一員として大坂城に入城します。
彼は豊臣秀頼に対し、大将自ら城を出るよう献策するが、難攻不落を謳われた大坂城の守備力に依存する秀頼の近臣たちは籠城を主張、幸村案はあっさりと退けられる。
父ほどの勇名を持たなかったことと、兄・信之が徳川方の一員だったことが原因であったとも言われている・・・
そもそも幸村の意見は顧みられるはずもなかったのです。
こうなれば、自分は自分の戦いをするほかはない。
そう思い立った幸村は、本丸南二キロの場所に出丸を築きました。
これが「真田丸」である。
百数十人の近臣含む五千人の部下と真田丸に籠もった幸村は、徳川方をさんざんに悩ませました。
家康は
「味方に参ずれば十万石をあてがう」
といって懐柔を謀るが、幸村が応じるわけもありませんでした。
家康はしまいには
「信濃一国ではどうか」
と値を吊り上げてきたが、幸村は
「十万石では幸村は不忠者にならぬが、信濃一国なら不忠者になるとお考えか」
と激怒してみせました。
真田幸村(さなだゆきむら)「日本一の兵」と称された最後の戦い
初めから長期戦は考えていなかった家康は、予定通り早期講和を取りつけました。
講和条件は惣堀 (外堀)を埋めるというものだったが、家康はとぼけて、大坂城のすべての堀を埋めてしまいました。
そして1615年、大坂夏の陣が始まってしまいます。
堀がなければ、いかに難攻不落の名城といえども丸裸同然。
籠城も不可能、戦力的にも劣る中でただひとつ勝機があるとすれば、家康の首をとる以外にない。
幸村はほかには目もくれず家康本陣を執拗に襲いました。
三度にわたる攻撃は、家康に
「もはや逃れられず、ここで腹を切る」
とまで言わしめたが、あと一歩のところで悲願は叶いませんでした。
やがて数に勝る徳川方の前に、大坂方の敗色は濃厚となります。
幸村も四天王寺近くの安居神社境内で身を休めていたところを襲われ、越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門宗次に討ち取られたのです。
享年49歳。
幸村の奮戦は勝者である徳川勢の心も打った。
島津家家臣が記した『薩藩旧記雑録』には、
「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由。徳川方、半分敗北」
と称の言葉が残されています。
大坂の陣は、江戸幕府と豊臣家との間で行われた合戦。大阪の陣とも表記する。大坂の役とも呼ばれている。 慶長19年の大坂冬の陣と、慶長20年の大坂夏の陣から成る。
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場所: 大阪城冬の陣:約200,000 夏の陣:約165,000: 冬の陣:約90,000; 夏の陣:約55,000江戸幕府: 豊臣氏不明: 不明(40000人以上)
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真田幸村(さなだゆきむら)不利を承知で戦うその姿に多くの大名が共感
1615年5月、停戦協定は破られ両軍はふたたび刃を交えた。
「大坂夏の陣」の開戦である。
幸村は当然ながら豊臣方に加わり、徳川本隊に向けて三度に渡る突撃を敢行。
そのなかでも、伊達政宗(だてまさむね)との戦いで、幸村は類い希な指揮を見せます。
伊達軍の先頭には伊達家自慢の八百人の騎馬鉄砲隊が配置されていた。
馬上から一斉射撃する戦法は強力で、これまで幾多の戦闘で勝利を収めてきた、まさに強兵と呼ぶに相応しき部隊でした。
そんな伊達軍に対し、幸村は兵たちに槍を持たせず、兜をも脱がせて待機命令を出したのである。
敵との距離がジワジワと狭められていき、その距離が約一キロになったとき、幸村はおもむろに
「兜をつけよ」
と命令した。不思議と兵たちの心に勇気が芽生え、さらに敵が二百メートルまで距離を詰めると、今度は
「槍を取れ」
と声をかける。
さらに猛る心が兵士たちに沸き上がり、彼らは無敵の白兵武者と化したのです。
そして鉄砲に怯むことなく伊達軍に立ち向かっていき、圧倒しました。
最初から槍を持ち、兜をつけた状態であったなら、徐々に迫ってくる敵の鉄砲騎馬隊の圧力に兵たちの心は押しつぶされていたでしょう。
味方の心理状態を徐々に高揚させていくという見事な采配により、彼らは恐怖に打ち勝ち、見事な勝利を収めることができたのである。
幸村はこの勢いのまま決死の覚悟で敵の本陣に攻め込みました。
彼が狙ったのはただひとつ、家康の首です。
このときすでに戦況は家康側に傾いており、それを覆すには大将の首を取るしかなかったのです。
兵たちが次々と倒れていくなか、幸村はついに家康のいる本陣まで攻め入った。
しかし、幸村の決死の快進撃もここまでだった。
数に勝る徳川軍の前に、真田の部隊は全滅してしまいました。
力尽きた幸村はなんとか安居神社の境内まで引くことに成功するが、そこで越前松平軍の鉄砲頭・西尾仁左衛門に討たれたといわれている。
享年49歳。
幸村が倒れてからほどなくして総攻撃がはじまり大坂城は陥落。
豊臣秀頼は淀殿とともに自害し、家康の完全勝利で「大坂夏の陣」は幕を閉じたのであった。
さて、家康本陣を攻める幸村の様子は、敵方だった諸氏が記した多くの書物に残されており、特に島津氏の『薩摩旧記』では「真田は日本一の兵」とまで記され、絶賛されている。
太平の世が訪れたのちは、講談師たちがその様子をさらに猛々しく脚色したため民衆の間で人気を博し、猿飛佐助や霧隠才蔵らが登場する『真田十勇士』のような物語までつくられた。
真田十勇士
こうした書物の存在は、不利を承知で最後まで秀頼を見限ることなく存分に働く幸村の姿が、同じ武士として多くの諸大名に感銘を与えた証といえるだろう。
真田幸村(さなだゆきむら)戦場を駆ける深紅の軍
「大坂の陣」が勃発した際、幸村は兵たちの団結力を高めるために真田隊の鎧兜をはじめ、旗指物、馬具、刀槍の外装、陣羽織など、ありとあらゆる武具を朱塗りさせ、
「真田の赤備え」として後生に残ることとなりました。
色を赤にした理由としてはいくつか説があり、闘志や気概の現れで相手を威圧するためだともいわれているが、実際のところは不明です。
ただ、伊達軍の鉄砲騎馬隊との戦いでも分かるように、幸村は人の心理を読むことに長けていたようだ。
そのため、味方の士気を上げるために赤い色を利用した、という説は十分に考えられます。
「赤備え」に関する数少ない資料のひとつとして、家康の伝記『武徳編年集成』において夏の陣での真田隊の様子を
「戦場にツツジの花が咲いたかの如く、赤備えが映えていた」
と記述しています。
このときすでに真田隊には打つ手がなく、幸村自身も
「もはやこれまで。最後の戦を皆心おきなくやるべし」
と兵たちに告げたという。
真田幸村(さなだゆきむら)殿様育ちが治らない
関ヶ原の合戦では、東軍の家康が勝利し、西軍の石田三成(いしだみつなり)は処刑されました。
昌幸と幸村は家康の子・秀忠の大軍を上田城に足止めし、天下分け目の決戦に遅参させるという武勲をあげました。
とはいえ敗軍の武勲は家康にとっては死罪に処すべき大罪である。
二人は処刑される手はずとなっていたが、信之が家康に何度も嘆願したことで、九度山に流されるだけで済んだのです。
二人は流刑地でかなり自由に行動でき、そこで昌幸と幸村はひとり一軒ずつ家を構えました。
物資が窮乏する貧しい土地であったが、信之が生活費を毎月送金してくれたそうです。
『真武内伝(しんぶないでん)』によれば、九度山で幸村は狩に興じ、一日中、囲碁に熱中することもあった。
和歌や読書にも熱をあげ、家まわりの装飾を華美に変更するなど、質素な暮らしぶりではなかったようです。
また、真田家に恩がある蓮華定院の指令も、二人の身の丈知らずの生活に拍車をかけました。
『九度山町史』によれば、蓮華定院は、「殿様育ちの二人が無理をいっても従うように」と九度山の実力者・松山又兵衛に通達を出していました。
『真田三代』の著者・橋場日月は、「殿様育ちの二人が結構、我がまま言ったことも窺え、非常に面白い」と述べています。
とはいえ、土地の貧しさか、使いすぎか、二人はいつでも金がない。
流刑地で昌幸と幸村は借金を繰り返し、いつしか信之や家臣の送金では歯が立たない多重債務に陥っていました。
この件で、信之は二人から正月早々、何度も金の仕送りをせびられるという憂き目にあっており、直筆の手紙も現在まで残されています。
かの地で二人の生活は14年も続いた。
流刑は解かれぬまま、昌幸は病に倒れ帰らぬ人となりました。
幸村に至っては、
「私など去年から急に歳をとりました。病弱になり、歯なども抜け、髭は白髪になりました」
「長年の山住まいは不自由で、大変くたびれてしまった私です」
という有り様だったという。
近年は
「家康の眼を欺く為に、遊んでいる風に見せていた」
という説が信じられているが、
こうした逸話からすると大名らしい生活にこだわったせいで困窮し、辛い借金生活を強いられていたのが実像ではないでしょうか。
真田幸村(さなだゆきむら)便所から消える
さて、幸村2歳のとき、中央では家康の策謀が豊臣方を驚かせていた。方広寺鐘銘事件である。
1614年、豊臣方が京都で大仏供養を行い、繁栄を祈って方広寺の鐘に「国家安康。と文字を刻んだ。
すると、これに家康が反応する。
「私の名前である家"と"康、を離すなど、信じられない。これは徳川家に対する呪いである!」
このいいがかりに豊臣方は大変驚いた。
この策は老年を迎えた家康が、自分が生きている間に豊臣方を潰そうと焦ったために生まれたものだ。
その思惑通り、豊臣方はこれがきっかけで挙兵することになる。
大坂の陣のはじまりだ。
豊臣家は全国から浪人を募り、九度山にいた幸村にも、豊臣挙兵の知らせは届けられた。
豊臣秀頼からの参陣の要請です。
その軍資金は黄金200枚、銀30貫目。
なんと現在の金額で3億(桑田忠親説)とも、9億(小林計一郎説)ともいうから、いち浪人の幸村にとっては、破格の待遇です。
さて、どのように幸村は九度山から脱出したのか?
諸説には、幸村が坊主と談笑中に、
「便所にいってくる」
と言い残したまま去ったという便所脱出説
(この場合、密かに先発させていた家来の後を、便所付近から急いで追いかけて合流したのだという。『仰心貴録』)があり、また一方では、村人全員を集めて宴会を開き、酒を大盤振舞にして、彼らが酔いつぶれているうちに出発した、という説などがあります。
幸村のあまりに大胆なこの手口は川柳の題材となり、後世に残る名句が生まれました。
真田幸村(さなだゆきむら)頑固で譲らない性格なの?
こうして、無事に大坂城へ到着した幸村。
その役目は、金を目当てに集まった浪人たちを仕切りながら、戦争経験のない豊臣方の重鎮たちを、出撃論で納得させるという、手間のかかるものでした。
だが、豊臣方は籠城策が最善と考えていたため、次第に幸村は信用を得られなくなっており、
淀君に奇襲を提案すれば、
「みっともない」
と断られ、運良く秀頼が話を聞いてくれるようになると、ほかの諸将に、
「幸村は徳川のスパイ」(兄が徳川に味方していたため)
とやっかみを受けることが多くなっていきました。
幸村も手紙で、
「なによりここでは、気苦労が多いのです」
と書き残しています。
とはいえ、大坂冬の陣で、幸村は「真田丸、という出城を、自軍の重要な地点に配置しそこを攻めてきた徳川軍を一網打尽にしています。
一説では、冬の陣による徳川方の被害のうち8割は、幸村の真田丸からの攻撃によって出たものとされています。
真田丸は冬の陣の豊臣方を見事に救い、幸村の武名は轟いた。
これにて、大坂の陣前半は豊臣方の勝利となったが、一転して翌年の1615年の夏、豊臣方は窮地に立たされてしまいます。
それは、戦闘中に淀君が次々に叩き込まれる家康の砲撃に恐怖して、豊臣方が家康の和陸に応じてしまったからだ。
そのとき大坂城の外堀だけを埋めるという約束を、家康が駄洒落のように総掘、と勝手に言い換えさせたため、大坂城は丸裸にさせられてしまい、家康のこの悪知恵により、和睦は決裂した。
堀を埋められれば、もう籠城するのも無理である。
これに憤った幸村は、もはや野戦による奇襲攻撃を徹底して主張するしかありませんでした。
大坂夏の陣、後半戦・・・
幸村はいよいよ家康夜襲に踏み切っていく。
秀頼の開いた軍議のなかで彼はこう発言している。
「今、伏見から茶臼山へ移動している徳川勢は、寝ずに動く強行軍です。さすがに無理が祟って今日あたり休憩を取るでしょう。そこを一撃、葬るのです」
すると、同じくリーダー格の後藤基次が賛同し、現場のボルテージは一挙に上がっていく。
基次は言う。
「その通り。だが、真田殿を夜討ちへ向かわせて万が一のことがあっては、真田殿を慕ってやってきている諸国の浪人どもが落胆してしまう。この役目はぜひ、この基次にお任せください」
覚悟を決めた幸村は同意できない。
「いや、とにかく私がむかいましょう」
というと、基次も覚悟をみせる。
「いや、真田殿は後の合戦こそ大事。ぜひここは拙者が」
「いや私が」
「いや拙者が」
「いや……」
この日、秀頼の開いた軍議で、二人はこのまま争論となり、そうこうしているうちに、この奇襲案は中止になってしまった。配流先の九度山でも生活ぶりを変えなかった、幸村の頑固さは健在といったところです。
真田幸村(さなだゆきむら)クジで神がかる?
大坂夏の陣の最中、5月6日のこと。豊臣方は道明寺の戦いで徳川軍に競り負け、窮地に立たされており、豊臣方の兵力は、浪人の寄せ集めで構成された5万、対して徳川軍は3倍の5万。
奇襲に長けた幸村の部隊も、伊達政宗の突撃隊を食い止めたまでは良かったが、先がつながらない。
幸村らも徳川の包囲網を前に、いよいよ追い詰められていきます。
そこで秀頼は、使者を通じて、生き残った部隊に撤退するよう伝えます。
さて、問題は撤退の方法である。
毛利勝永の陣に集った諸将は、クジで撤退する順番を決めることにした。
現代とは逆の考え方である。命がけの局面だからこそ、神聖なクジを使います。
戦国の世とてクジは神聖な扱いを受ける。
命を捨てるに値するほど尊重されていたのです。
ところが、ここで幸村がすっと立ち上がると、こういいました。
「おい、クジは必要ないだろう。ここは私一人で敵を引き受けるから、その間に皆は撤退されよ」
すると諸将のプライドが火を噴いた。
「いや、たった今クジで決めるとしたではないか!」
さらに幸村への批判は収まらず、後藤のときと同じく、またしても口論となってしまった。
「クジではなく、ぜひ私に」
「いや、ならば我々のうち誰かだ」
「いや、私こそ」
「いや、ぜひ私に」
スマートなイメージのある幸村だが、前述のエピソードでも紹介したように、実際はこうと決めると頑として譲らない性格だった。『幸村君伝記』や『北川遺書記』などの史料によれば、この口論の後すぐ、それまで黙っていた明石全登が、
「徳川が今にも挟みこんでくるというのに、こんな話に付き合ってられるか! 私が先に撤退するから後は、幸村殿に任せるなり、最初のとおりクジで決めるなりしてくれ!」
と、諸将を一喝して、出て行ってしまったという。
場が静まり返ると、残された幸村と諸将は口論を止めて、神妙に一人ひとりクジを引きはじめました。
その結果、クジが当たったのは幸村だった。
殿の大役を任された幸村は、追撃する徳川軍を苦もなく蹴散らしていく。蹴散らすごとに嘲嘲りながら味方を逃がします。
幸村は見事、部隊の最後尾で、致死率10%ともいわれる殿任務を成功させました。
無事、自らの部隊も引き上げさせた幸村。その途中、怯んだ徳川軍に向かって、
「関東勢は100万もいるが、男が一人もいないな!」
と罵りながら、ゆうゆうと去っていったといいます。
※殿(しんがり)
後退する軍の、最後尾を担当する部隊のこと。本隊からの援護が得られない中、限られた兵力で時間を稼ぐという過酷な任務です。
真田幸村(さなだゆきむら)不利な状況をこえ家康を追い詰める
5月7日、家康が主戦場の天王寺に進出すると、続いて秀忠が岡山に歩を進めます。
これを豊臣方が迎え撃ち、いよいよ大坂の陣、最後の決戦の幕が切って落とされました。
幸村は、茶臼山の南に明石全登を陣取らせ、家康の本隊を挟み込んで一挙に奇襲する策を立てます。
だが、本多忠朝隊の連続発砲に挑発された毛利勝永隊が勝手に応戦し、軍の規律が乱れたことから幸村の策は、実行不可能となってしまいました。
失望した幸村は家康を前にし、突撃を叫ぶ。自らの部隊を丸く固めさせ、まず正面にいた家康の孫・松平忠直の部隊に幸村が突進します。
忠直の部隊も強靭であり、強行突破など許さない。
弾丸となって突撃する幸村3500の兵は、半分また半分と急激に減っていく。
幸いなことは家康の本陣に近づくにつれて、 、多くの旗本たちが驚いて逃げたことです。
細川忠興の手紙によれば、
「戦場から南の平野に約5キロも逃げた者もいる」
とも言われています。
幸村の部隊は決して退かなかった。
弾かれては突入し、退けられては踏みとどまり、ついに三度の激しい激突が家康の陣をこじ開けた。
本陣はパニックとなり、徳川の馬印を幸村が倒すと動転した家康の家臣までもが一緒になって馬印を踏み倒しています。
さすがの家康もこのとき切腹を覚悟したという。
書物により幸村が突撃した回数、家康が切腹を試みた回数に変動はあるが、家康がここまで命の危険に晒されたのは、武田信玄と戦った三方ヶ原の戦い以来のことでありました。
さらに徳川軍は混乱する。
幸村の本陣突撃に、目散に逃げ出してしまった家康の側近たち。
おかげで部下も家康の位置が分からず、隊列は大混乱に陥り、ここで幸村は、新たな戦術を世に問うていた。
合戦の最前線で、何人もの影武者たちにそれぞれ、
「我こそは幸村なり!」
と叫ばせて突進させていたのだ。
これがすこぶるややこしい。
徳川軍の兵士は、幸村を名乗った者と右で槍を合わせれば、左からも幸村を名乗る者が刀を振りかざし迫ってくる左かと思えば後ろからも名乗られる。
前からも幸村が襲ってくる。
文芸評論家・中野秀人は「真田幸村論』でこう述べています。
「どれが本当の真田幸村だか判らない。ひとつの幸村が斃れれば、別な幸村が現れる。これは一体どうしたことか」
いわば、それだけ幸村の身も危険に晒されていました。
本陣までの突撃により激減した真田隊は、もはや精鋭が点在するのみ。
数度の突撃で家康を追い込んだ幸村だったが、家康が切腹を思いとどまり、指揮に復帰すると、数で押された幸村が傷を負って敗走していきます。
昼過ぎには、真田隊は完全に壊滅していました。
今度は、幸村が追われる身です。
彼は急ぎ馬を走らせ、本道から少し離れた田んぼのあぜ道に腰を下ろします。
そこで幸村は従者に薬を与え、しばし談笑していました。
そこに、幸村狩り。を行っていた越前隊の鉄砲頭・西尾久作が彼らが幸村を発見。襲い掛かれば、連日の激戦に精根果てた幸村は、満身創痍のまま、この無名兵士に首を刎ねられてしまいました。
享年49歳。
一説では、対決する間もなく、幸村は近距離から一斉に鉄砲を撃ちかけられ惨殺された、という説もあります。
その鉄砲頭の西尾だが、喜んで家康に首を持っていくと、
「お前程度のものが、あの幸村を討てるわけがない!」
と一喝され、信じてもらえるまで少し時間がかかったようです。
というのも、家康が行っていた首実検の部屋には、
「我こそは幸村なり!」
と叫んで討ち死にした多数の影武者の首が数列並んでおり、容易に判別がつかなかったからです。
その後、家康に認められた西尾は、幸村の霊を慰安する地蔵を作りました。
その下には幸村の鎧が大切に埋められています。
これ以来、西尾が祈りを欠かすことはなかったと伝えられています。
真田幸村(さなだゆきむら) 実は生き延びていた?浮上した生存説
ところが、幸村の死後、
「実は生きのびている」
そんな噂を人々は信じた。
大坂の陣で活躍した幸村の噂は、家康を追い詰めた英雄として、庶民に十分伝わっており、当時から幸村生存説は流行った。
とりわけ有名なのが、京童に歌われていた、
「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田がつれて、退きものいたよ加護島(鹿児島)へ」
という節である。平戸商館長リチャード・コックスは、
「ある者は、鹿児島か沖縄にいると信じています」
と書き残している。
また、かつて九度山に流された経験から、幸村が和歌山・三重の山中で生活をはじめ、20歳まで生きたという伝説や、鹿児島県南九州市頴娃町の郷土史によれば、当地の、丸部落に「真江田」と名を変えて潜んだ話もあります。
もちろん、これらの説は噂や創作の域を出ない。
しかし時の権力者・家康をあと一歩のところまで追い詰めたことは事実です。
そのヒーローの生存を願う庶民の思いが、幸村伝説には息づいています。
短気で頑固、武将としての生活が板についていた真田「信繁」は大坂夏の陣で散りました。
しかしその活躍は「幸村」というヒーローを生み出し、それは今も物語の中で躍動しています。
上田城内容
上田城は長野県上田市二の丸にあった日本の城である。
なお、現在残っている城は、仙石忠政によって江戸時代初期の寛永年間に再建築城されたものである。
所在施設:上田城跡公園所在地: 〒386-0026 長野県上田市二の丸4−6営業時間: 現在営業中 · 混雑時間を追加
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開業: 1583年主な城主: 真田氏、仙石氏、松平氏築城主: 真田昌幸築城年: 1583年(天正11年)天守構造: 不明滅失: 1874年
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