大谷吉継
大谷吉继 とは?
近江出身 1559年~1600年
豊臣秀吉の配下として活躍し、越前(現在の福井県北部)の大名となった。
一部では豊臣秀吉の隠し子だったのではという説もある。
大谷吉継(おおたによしつぐ)秀吉に「百万の兵を指揮させてみたい」といわしめた男
豊臣秀吉の配下として活躍し、越前(現在の福井県北部)の大名となった大谷吉継。
その出生については不明な点が多く、一部では豊臣秀吉(とよとみひでよし)の隠し子だったのでは、という説も流れている。
石田三成(いしだみつなり)に推挙される形で秀吉に仕え、柴田勝家との激闘であった「賤ヶ岳の戦い」や「朝鮮出兵」などで活躍。両者は良きライバルとして切磋琢磨しながら、ともに出世街道を上っていき、やがて固い友情で結ばれる。
吉継は秀吉からその能力の高さを認められており、できることなら百万の兵を指揮させてみたいといわれたほどの逸材であった。
しかし、重度の病を患い顔が醜く崩れてしまっていたので、政治的な面では表舞台に立つことはなかった。
病は年を追うごとに進行し、普段の生活においても常に深々と頭巾を被って生活することを余儀なくされ、やがては足腰も弱り、戦場では輿に乗って兵を指揮するようになる。
醜い姿となった吉継を人々は徐々に遠ざけていくが、三成だけは友人というスタンスを崩すことなく、吉継と接したといわれている。
ある茶会の席でのことである。集まった大名たちが茶を回して飲むことになるが、吉継のあとを受けるのを誰もが嫌がり、なかには飲むふりをして次に回してしまう者もいた。
そんなとき、吉継の頭から膿が垂れて茶のなかに入ってしまう。
それを見た誰もが青ざめてしまい、吉継も呆然となるのだが、三成はその茶を受け取ると、ひと息で飲み干したのだった。
このようなこともあって、ふたりの絆はますます深く結びついていく。
大谷吉継(おおたによしつぐ)ここの命、友のために
秀吉が死ぬと、吉継は次の時代を担う者であると感じた徳川家康(とくがわいえやす)に接近し、両者は良好な関係を築くようになる。
しかし、天下取りを露骨に意識した家康が豊臣家を軽視するようになると、日本中の諸大名が豊臣派と徳川派でまっぷたつに分かれてしまう。
豊臣派の筆頭は友である三成。
吉継は三成と家康の狭間で揺れることとなる。
そして迎えた1600年。
密かに軍備を強化する上杉軍を征伐すべく、家康が軍を動かす。
吉継はこの討伐軍に参加することになったが、その道中で吉継は三成の居城・佐和山城に立ち寄った。
三成にも討伐軍に参加するよう促すためである。
吉継は少しでも三成と家康の関係を良好にしたかったのだ。
しかし、三成の口から出た言葉は、吉継の期待とは裏腹なものであった。
「打倒家康のために挙兵する。吉継も力を貸してほしい」
あまりにも唐突な願い
に戸惑う吉継。家康の力は強大で、今戦ったところで三成に勝ち目はない。
挙兵を思いとどまるよう説得する吉継だが、三成の決心は揺るがなかった。吉継は悩んだ末に、三成の同志となることを決意する。
大谷吉継(おおたによしつぐ)三成との関ケ原の戦い
そして決戦は「関ヶ原の戦い」へ。全国から集まった諸侯が豊臣方の西軍と徳川方の東軍とに分かれて対峙するか、吉継は裏切りの気配を感じ取り、小早川秀秋の軍に目を光らせていた。
しかし、裏切り者は小早川だけではなかった。
対小早用のために吉継が配置していた脇坂安治らも東軍に寝返り、西軍は完全に崩壊。
吉継は敗北を悟り、もはやこれまでと自害する。
その際、自分の醜い首が敵の手に渡らぬよう、部下に自身の首を地中深く埋めるよう指示したという。
吉継の予想通り関ヶ原で三成は敗北した。
死地に向かうとわかっていながら、なぜ吉継は三成とともに戦うことを決意したのだろうか。
やはりそこには三成との間に固い絆があったからにほかならない。
病に犯された身であろ吉継は、余命幾ばくもないことを感じていたのだろう。
ならばこの残された命、友のために捧げたい。結果的には残念なことになったが、このふたりの関係は凄惨な戦国の世にあってひときわ輝き、気高さすら感じさせる。
大谷吉継(おおたによしつぐ) 観光スポット
裏切りが常の戦国の世に、盟友・石田三成との堅い友情に殉じた武将、また晩年はハンセン病を患い、白い布で頭を覆って戦った武将として知られています。
【敦賀観光案内サイト 漫遊敦賀/数奇な運命を歩んだ3人が、敦賀の地で見たものとは「お江・お市・大谷吉継 ゆかりの地コース」】一般社団法人 敦賀観光協会 (turuga.org)
天正17(1589)年には秀吉政権のもと敦賀城主となり、12年間才能を発揮し、軍事・物流の最重要拠点であった敦賀城下の整備拡大を図りました。慶長5(1600)年、天下分け目の関ヶ原で勝ち目のない戦と知りつつ、西軍三成側について善戦しましたが、味方の裏切りにより大谷軍は全滅し、吉継は自害しました。
大谷吉継(おおたによしつな) 玄蕃尾城(げんばおじょう)
天正11(1583)年に柴田勝家と羽柴秀吉が、信長亡き後の織田軍の指導権を争って戦った「賤ヶ岳の戦い」の際に柴田勝家が本陣を構えた城。北陸街道と刀根越を同時に抑える要衝でした。妻・お市、娘・お江たちも見届けたであろう父・柴田勝家の最期の勇姿の場です。
【敦賀観光案内サイト 漫遊敦賀/数奇な運命を歩んだ3人が、敦賀の地で見たものとは「お江・お市・大谷吉継 ゆかりの地コース」】一般社団法人 敦賀観光協会 (turuga.org)
玄蕃尾城は、日本で最も完成された山城と言われています。
【刀根】から「愛発線」で【敦賀駅】へ約30~37分、【敦賀駅】から「金山線」若しくは福井鉄道広域路線バス「菅浜線」又は「若狭線」乗換で【市立病院前】へ約8分 | ||
玄蕃尾城から約21分 |