学校では教えてくれない歴史の話 学校では教えてくれない!歴史の話(戦国時代編)

前田利家(まえだとしいえ)加賀百万石の礎を築いた漢の生き方と生涯とその最後とは?徹底解説

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前田利家

1538年~1599年

前田利家は、尾張(現在の愛知県西部)の土豪・前田利昌の四男として生まれた。若いころから派手な出で立ちを好むかぶき者として知られており、当時の遊び仲間のなかには、うつけ者と評判の織田信長もいたという。

前田利家(まえだとしいえ)もとは「槍の又左衛門」といわれたかぶき者

前田利家

利家は各地で暴れながら武芸を磨き、仲間たちとともに雄々しい武人として成長していくのだった。

このころの尾張はまだ統一されておらず、この一帯を支配していた織田家ですら、身内同上で争っていた。十四歳になった利家は織田家に仕官することとなり、もともと顔見知りということもあって、信長の近習として仕えるようになる。

信長が勢力を拡大していく時期だっただけに、利家も頻繁に戦に出ることになるが、初陣から華々しい活躍をして、順調に戦功をあげていった。

ただ、腕っぷしに自信があり、覇気みなぎる若者にはありがちな話だが、このころの利家はかぶき者だった時代の色がまだ抜けていなかったようだ。

日ごろから派手なつくりの槍を持って歩き、また短気だったことから、人々は「槍の又左衛門」もしくは「やりに又左」と呼んで彼を避けたといわれている。

ちなみに、利家は幼名を「犬千代」といい、元服後に名乗った名前が「前田又左衛門利家」であった。

そのことからこのあだ名がつけられたようである。

この暴れ者の利家が、織田家家中でいざこざを起こさないわけがなく、利家が二十二歳のとき、刃傷沙汰を起こしてしまう。

信長の配下に対して無礼な態度を取り続ける拾阿弥という坊主に対して堪忍袋の緒が切れてしまい、こともあろうか信長の前で拾阿弥(ぜあみ)を斬って捨て、そのまま逃走したのである。

拾阿弥(ぜあみ)

この拾阿弥という人物、たしかに無礼者ではあったが、大は信長の腹ちがいの弟であった。主君の親類を斬ったことで、利家の死罪は免れまいと思ったが、利家に一目置いていた織田家の宿老・柴田勝家があいだに入り、利家の処分は謹慎という形で済まされることとなった。

だが、そこは腕に覚えのある利家のこと。このまま家でのんびりとしていたわけではない。

桶狭間の戦い」や美濃攻略に無断で出撃。

豪将たちを討ち取り、その首を信長に差し出して謹慎を解くことを願い出た。

「桶狭間の戦い」の際にはあまりに身勝手な行動に信長も不信感を抱いたが、さすがに二度も続けると利家の忠義は本物と感じ取ったのか、信長は利家を許し、確慎処分は解かれたのであった。

帰参後、利家は誰慎中に何かと世話をしてくれた勝家のり力となり、その力を存分に振るうこととなる。

そして、信長の計らいにより利家に転機が訪れる。

当時、前田家は兄・利久が継いでいた。だが、利久は武芸に疎く子供にも恵まれなかったため、のちに養子をとろうとしていた。

しかし、主家である信長は、

「前田家をよその者に継がせるわけにはいかない」

とこれを認めず、利家に家督を継がせるように命じ、利家が前田家の当主なったのである。

前田利家(まえだとしいえ) 勝家と秀吉とのあいだで苦しい立場に追い込まれる

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前田家の当主となった利家は、朝倉,荒井氏の討減で活躍し、板前(現在の仙川県の北部)の一向一揆の鎮圧の際には一揆衆に対して苛烈な弾圧を見せ、武田氏との「長篠の合戦」では鉄砲隊を率いて参戦。

織田の主だった戦いにに参加してより一層力を振るい、とくに越前での一向一揆鎮圧での働きが認められ、越前の府中を領有することになった。

大名・前田利家の誕生である。

なお、府中を治めていたのは利家だけでなく、同様に手柄を立てた佐々成政、不破光治らとの共同支配であった。

この三人を称して「府中三人衆」と呼ばれることもあったようである

その後も順調に勤めを果たし、利家は能登(現在の石川県北部)一国を任されることになったが、その直後にさらなる一大転機が訪れる。

主君の信長が本能寺の変で倒れ、明智光秀(あけちみつひで)を討った実力者・豊臣秀吉(とよとみひでよし)と柴田勝家が、後継者の座をめぐって対立したのである。

利家は、直属の上司であり領国も近く、過去のきもある勝家を尊敬しており、

「おやじ殿」

と呼んで親しくしていた。一方、秀吉とは娘を養子に出しており、個人的に非常に親しいあいだ柄だった。

勝家と秀吉のあいだで板ばさみとなった利家は、当初は勝家に味方していた。

しかし、内部の権力闘争だったこともあって戦意は乏しく、「賤ヶ岳の戦い」では五千の兵を率いていたが、すぐさま撤退して府中城に籠ってしまう。

そして、勝家は秀吉に敗北。

勝家は北ノ庄城へと落ちていく道中で府中城に立ち寄るが、利家に対し怒りを露わにするわけでもなく、これまでの労をねぎらって湯漬けを所望しそれをたいらげると、そのまま利家の前から立ち去っていった。

その後は、利家は秀吉側につき従うことになり、秀吉と勝家の決着戦である「北ノ庄城の戦い」では先鋒を命じられる。

つらい戦いであったが利家はこの大役を果たし、一度は対立したものの、板ばさみという苦しい立場が理解され、秀吉からのお咎めはなく、もあって秀吉の信頼を得ていった。

前田利家(まえだとしいえ) 秀吉の家臣として確固たる地位を築く

勝家が没した翌年、徳川家康(とくがわいえやす)が信長の次男の織田信雄と手を結び、秀吉の前に立ちふさがった。

これに呼応したのが越中 (現在の富山県と新潟県西部)の半分を治めていた佐々成政である。

成政は大の秀吉嫌いでもともと勝家の与力でもあり、利家とは功を競い合うあいだ柄であった。

能登へと侵攻してきた成政に対し、利家は越中と能登の境にある末森城を拠点にして奮戦。

見事にこれを退けることに成功する。

そして翌年、越中に攻め込んだ利家は、越後(現在の新潟県)の上杉景勝と連絡を密に取って成政を挟み撃ちにするという作戦に出る。

すると、秀吉自らが十万の大軍を引き連れて利家をサポート。

利家の先導もあって、完全に成政の軍を包囲すると、さすがの成政も降伏し、秀吉の傘下となる道を選んだのだった。

このような経緯もあって、最終的に利家は加賀(現在の石川県南部)・能登・越中の三国を支配することになり、北陸の重鎮としてなくてはならない存在となる。

こののち、利家は秀吉の全国統一に尽力し、「小田原征伐」への参加や奥州(現在の東北地方)諸大名との仲介などを行った。

国内が統一されると、利家は家康と並ぶ重臣として遇され、のちに豊臣家の後継者・秀頼の御守り役に指名される。

また秀吉が五大老・五奉行の制度を整えたとき、利家が五大老のナンバー2となったことからも、秀吉がいかに利家を信頼していたかがうかがえる。

また、秀吉は利家の邸宅をよく訪れていたようで、個人的にも親密な関係だったことがよくわかるだろう。

利家も秀吉の信頼によく応えて忠誠を尽くし、秀吉が逝去したのちは秀頼とともに大坂城へ入った。

親・豊臣家の筆頭として睨みを利かせたが、秀吉が没してからわずか七ヶ月後、六十二歳で利家も病没してしまう

利家は武芸に秀でていただけでなく、能や茶などの芸能にも通じた文化人であり、加賀藩百万石の礎を築いた偉大な人物として、現在も親しまれている。

秀吉の天下取りの介添人豊臣政権の柱石として秀吉没後も存在感を発揮

丹羽長秀の死に伴い、越後・上杉氏、関東・北条氏、そして東北の諸大名と連絡する北陸道の総取締役に任ぜられた。

信長から秀吉へと天下の覇権が移る過程で、利家の上位にいた諸将が、失脚やその死によって次々に消えていった

こうなると、自然に利家の立場も上がっていく。

気づけば秀吉の次に位置する場所にまでたどり着いていた

秀吉は、長年のつき合いがある利家をいよいよ重用するようになり、彼を個人的な相談役とする一方、湯宿を共にしたり、前田邸を訪ねて互いに灸をすえ合ったりする関係になっていった。

家康への抑止力を期待されるが…

1598年,身体に衰えが見え始めた利家は、家督を嫡子の利長に譲り隠居する。

しかし重鎮の利家が政権外部に去ることは許されず、秀吉から五大老の長となることを命じられた。

これは家康と同格の地位である。

無論、自分亡きあとの政権を考えた秀吉による,家臣たちの権力のバランスを調整するための人事だった。

同年八月,秀吉が没すると利家は豊臣家二代・秀頼の後見人となった

翌1599年、伏見城での年賀の席には秀頼を抱いて着席、諸大名の拝賀の礼を受けた。

そして正月十日は秀吉の遺言に従って、家康が伏見城に、利家が秀頼の傳役として大坂城に人城する。

その後は秀吉の期待通り、利家は家康に対する抑止力として振る舞った。

秀吉の遺言に背き、家康が大名との婚姻政策を進めたときは、これに反発した。

また、家康が病状の悪化した利家の見舞いにやってきたときは、利家は抜き身の刀を身近に忍ばせて家康に会ったといわれる

しかしその後まもなく、利家は大坂の邸で病死した。

享年61。

利家という重石が外れたことで政権内のバランスが崩れ、没後、すぐに加藤清正らの武断派七将が石田三成を襲撃する事件が起きている。

それはもちろん、その先に待ち受ける天下分け目の決戦の予兆であった。

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【兼六駐車場】
住  所 金沢市小将町1番53号
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営業時間 24時間(年中無休)
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所要時間60分
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