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キングダム項燕(こうえん)楚の大将軍・項燕登場するのか?項羽と項翼との関係とは?

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【キングダム】楚の項燕の武将タイプは?李信を打ち破る東の大将軍【キングダム考察】


キングダム項燕(こうえん)楚の最後の大将軍はいったいいつ登場するのか?

名前だけしか登場していない、大物の武将がまだ残っていいます。

その最後の武将こそが項燕。

『キングダム』内では李園が。東の大将軍と項燕のことを称していました。

ということは、項燕はすでに数多くの武勲を立てて大将軍の地位にあるということでしょう。


項燕の出自であろ項家の一族は、代々花の将軍を務めた名家で、項燕(こうえん)の父・項寄彬も楚の上将軍を務めました。

この一族については、もう少し後で詳しく述べていきまが、ここではまず、史実の項燕がどんな働きをしたのか、たどっていきましょう。

キングダム項燕(こうえん)史実ではどんな働きをしたのか?


紀元前225年、秦王政はついに楚攻略に乗り出します。

そこで秦王政は、李信にどれほどの軍勢で攻めればとよいのか、尋ねました。

李信は、前年に燕を攻めで首都まで達し、王とと大子を敗走させる武功を上げています。

その勇猛を買われ、李信は「20万人いれば大丈夫です」と応え、蒙恬(もうてん)とともに楚に向かわせたのです。

楚軍は弱く、李信(りしん)は平輿を、蒙恬は寝丘を簡単に落とします。

ここで2人は油断し

「楚軍、恐るるに足らず」

と調子に乗ってしまいます。

2人は城父で再合流しようと約束してふたたび分かれ、李信は楚の地をひたすら南下しました。

ところが、これはすべて項燕の巧妙な罠だったのです。


項燕率いる楚軍は国土を蹂躙された怒りを溜めつつ、楽勝ムードで進軍を続けろ李信たちのあとを、3日3晩かけて追い続けました。

そうして、城父に着いてすっかり油断しきった秦軍に猛然と襲いかかったのです。

この奇襲に李信たちはまったく対処できずに敗戦、将7人を失って敗走するしかありませんでした。

項燕 と楚軍は逃げろ秦軍を追いかけつつ、失った城を奪い返していきます。

最後には30万人を率いて、秦国の函谷関(かんこくかん)にまで到達しました。


泡を食ったのは秦王嬴政(えいせい)です。

気がつけば、目の前まで楚軍が迫っているのですから。

老齢で軍務を退いた王翦(おうせん)を呼び出し、60万の軍勢を与えて函谷関の守備に向かわせます。


王翦(おうせん)はさすがでした。

ひたすら守備に徹し、いたずらに討って出ようとはしません。

いつもまでも落ちない函谷関に募る楚軍の苛立ち。

自軍の士気が切れたと感じた項燕は退却を命じますが、

それこそが王翦(おうせん)の狙いでした。

退却する楚軍の後ろから、元気いっぱいの秦軍が襲いかかってきたのです。

楚軍は敗走し、結局、首都にまで攻め上った王翦(おうせん)によって若王は捕縛。

ここで一度楚の歴史は閉じてしまうことになったのでした。

キングダム項燕(こうえん)は登場するのか?



ここで考えたいのが、歴史上とても有名なこの逸話を『キングダム』でも描写するのか、ということ。

『キングダム』は史書に書いてあることを無視しませんが、対楚戦における李信と蒙恬の大敗走は今までのキャラクターにそぐわないと感じられます。

とくにあれだけ知略にすぐれ、明敏な性質に描かれている蒙恬は、簡単に城を落としたからといって油断するようには見えません。

軍師・河了貂(かりょうてん)がついている飛信隊も同様でしょう。


先ほどの項目で、信と蒙恬の20万人の軍勢は、『キングダム』で楚のもう一人の大将軍となっている媧燐(カリンたちと死闘を繰り広げるのではないかとおもっております・・・

媧燐(カリン) の配下には現在、信と因縁のある項翼、白麗もいます。

白麗に対抗できる弓の腕を持つ仁淡兄弟も、飛信隊には加わりました。

彼らと信、蒙恬が戦わないわけにはいきません。


媧燐(カリン)のことですから秦軍を追い詰めるために、大いなる策略を巡らすでしょう。

十分に警戒している蒙恬や河了貂が相手としても、の策が上回ったとしたら秦軍に甚大な被害が出てもおかしくはありません。

この戦いで秦軍は将7人を失う大損害を受けたといわれます。

ストレートに考えれば、将=将軍"です。

『キングダム』の世界では,将軍=1万人の兵を率いる将』という扱いです。将軍が7人以上もいる軍を率いるのですから、楚侵攻の時点で信が大将軍になっている可能性は高そうです。

とすると、飛信隊からも羌瘣(きょうかいを筆頭に、将軍になっているキャラが出るかもしれません。

楚水や岳雷は素質もありそうです。

そして、彼らが楚軍との死闘で倒れる可能性は否定できません。

その代わりに、もしかしたら楚の大将軍になっているかもしれない項翼や白麗を打ち倒すのだと思われます。

ただし、この展開では史実に描かれた項燕の武功を無視することになってしまいます。

では、どう考えればいいか。例えば、項翼、 白麗 たちと戦ったうえに、 媧燐(カリン) にトドメを刺して疲弊した飛信隊 、楽華隊に、背後から項燕の軍勢が迫ったとしたら。

項燕が増と張るほどの大将軍だとしたら、どんなに信や蒙恬が踏ん張ったとしても大敗は免れないでしょう。

もしかしたらこういった事態を見越して、 媧燐(カリン) や李園ならば項燕の存在を隠すために、項燕はすでに引退した、将軍としては役に立たないくらいの噂は流しているかもしれません。

こういった流れならば、信や蒙恬が敗走する、という史実、「キングダム』のテイストからあまり外れなくなりそうです。

実際に、李信の歴史的大敗を『キングダム』に合わせて原先生がどう描き出すのか。楽しみなところです。

キングダム項燕(こうえん)と昌平君の不思議なつながりとは?


さて、王を捕らえられ、事実上の滅亡となってしまった楚ですが、項燕はあきらめませんでした。

楚王家を復活させるべく奔走し、結果、目を付けたのが昌平君(しょうへいくん)でした。

項燕は昌平君を説得して王に立て、楚を再興したのです。


当然、秦がそれを許すわけがありません。

王翦(おうせん)と蒙武(もうぶ)が率いる60万の軍勢を送り、この新しい楚を丸ごと討ち取ってしまいます。

この時に昌平君、項燕も討ち死にしました。

項燕は死に際して

「例え、残り三戸となるとも、秦を滅ぼすのは楚なり」

と強烈な呪詛の言葉を叫んで絶命したといわれています。


なぜ昌平君が楚王に立つなどという無謀な行動に出たかは、昌平君が 媧燐(カリン) の生き別れた弟ではないか、という説に基づいて前項で考察しました。

けれど、なぜ敗残国の将の項燕が、勝利国の相国たる昌平君と連絡が取れたのでしょうか。

大将軍の項燕といえど、急に連絡を取るのは難しいように思います。

もしかしたら、もともと昌平君と項燕は連絡を取り合う間柄だったのでしょうか。

推測のひとつではありますが、鍋燐の弟=昌平君=下民の出というなら、昌平君が秦に送られたのも項燕が関わっていた。

そこまで考えることもできます。
もうひとつ考えられるのが、李園が尽力した場合です。

史実では春申君(しゅんしんくん)を暗殺した狡猾な人物である李園ですが、『キングダム』では国を憂えた策士として描かれています。

李園は 媧燐(カリン の過去も知っていました。

弟の所在も掴んでいてもおかしくないでしょう。

楚を復興させたい李園が、項燕に協力した可能性は十分にありそうです。


紀元前223年、項燕が立てた楚王・昌平君は秦国に討たれました。

項燕は戦死したとも敵将に捕まる前に自害したともいわれています。


キングダム項燕(こうえん)の野望を叶えたのは孫の項羽



最後になりますが、項燕と項翼のつながり、項家の一族について触れておきましょう。

項翼は原先生のオリジナルキャラですが、名前からして項一族の出身には間違いありません。

ただし、項翼が項燕について述べていろ描写は今までのところ一切ないので、もしかしたら秦の王騎(おうき)のように分家の出身なのかもしれません。

ただし、名家には間違いないので、その伝手でならば莫耶刀(ばくやとう)のような宝剣を持っていたとしても不思議はないでしょう。


一方、項家の本家たる項燕には4人の息子がいたといわれています。

長男の項嬰は史書にあまり記述が見えなく最期も不明です。

秦との戦いで戦死したか、生き延びていても項燕の息子だからと処刑されたと推測されます。

そして、彼の息子こそが項羽になります。


強権をふるった始皇帝(しこうてい)が死ぬと、各地で反乱が相次ぎました。

紀元前209年、楚で陳勝・呉広の乱が勃発すると、項羽も叔父の項梁(項燕の次男)とともに会稽郡役所に討ち入って、壊滅させます。

項梁は会稽郡守を乗っ取り、反乱軍に参加しました。

やがて陳勝・呉広の乱が秦に鎮圧されると、項羽は独立して反乱活動を開始。

項梁は軍師の范増に教えを請い、楚王家の末裔を捜し出して「楚王」に立てました。

この直後、項梁は戦死してしまいます。


項羽は、自分と意見の違うリーダー宋義を殺害し、実質的な楚軍のリーダーとなって、軍勢を咸陽に進めていきます。

途中では、秦20万と戦い、なんとこれに勝利。

これで各地の反乱軍も項羽のことをリーダーと認めたのです。

項羽軍は咸陽に入り、秦王子嬰を一族郎党含め処刑しました。


中華統一を果たした秦王朝の終わりでした。


戦国時代末期、項燕が遺した

「秦を滅ぼすのは楚なり」

という呪詛は、時を経て、孫の項羽の手によって現実のものとなったのです。


キングダム項燕(こうえん)加速する秦の滅亡楚の復活と項羽の登場

新たなる英雄は、因縁ある楚から生まれた


K
政は秦が二世皇帝、三世皇帝と永遠に続くことを願っていたと思われますが、その治世は長く続きませんでした。

ここでは嬴政(えいせい)と多くの将軍達や軍師達の努力によって作られた秦が滅亡へ向かっていく道のりを追っていきます。


始皇帝の死後、二世皇帝として即位したのは胡亥でした。

始皇帝は扶蘇を後継者にしようと考えていたようですが、これは趙高と李斯(りし)によって妨げられてしまいました。

有能な扶蘇が皇帝になると自分達にとって都合が悪いと考えたのです。


「扶蘇はまずい。胡亥ならいいだろう」

と思われたくらいですから、即位した胡亥は趙高の指導の下・・・

というより完全に牛耳られてしまい、意のままになってしまいました。

この二世皇帝の下で趙高が絶大な権力を握り、超高によって秦を支えてきた蒙恬、それに李斯も殺されてしまいました。

李斯も胡亥を扱いやすいと思っていたのですが、誰にとっても扱いやすい人物であるということをしっかり考えなかったのです。


このように秦の宮中は始皇帝の死後大混乱に陥ったのですが、混乱を起こしたのは宮中だけではありませんでした



【キングダムの時代⑤】項燕(こうえん)大国「楚」を支えた大将軍 そして項羽と劉邦の楚漢戦争へ

キングダム項燕(こうえん)中国初の農民反乱陳勝・呉広の乱起こる

既に見てきた通り秦は法律による厳しい支配をしていました。


もし、法律を守れないと死刑になるというのですから、大変です。

もちろん大抵の人は違反をして死罪になりたくないので法律を守ろうとするわけですが、それでもどうしようもない事態というのが発生します。

後に大反乱を起こすことになる陳勝と呉広らに起こったことはまさにそういうどうしようもない事態でした。


陳勝と呉広は辺境守備の任務を任されて任地に向かっていたごく普通の農民でした。

二人がどういう出自なのかは不明ですが、この時集められた農民グループのリーダー的な存在だったようで
す。
そんな彼らを不運が襲います。

任地に向かう途中で大雨に見舞われ、道が水没して進めなくなってしまいました。

秦の法律ではどんな理由があろうとも遅刻したら死罪になってしまいますから、彼らが絶望的な思いになったのは間違いありません。

そんな大雨を恨んでいるうちに陳勝が、どうせ死罪になるのなら、思い切ったことをやって名を残そうと仲間達に呼びかけたのです。

この時、

「王侯将相いずくんぞ種あらんや」

という有名な言葉を使いました。

王や貴族になるのに決まった種(家柄)などは存在しないのだと言ったのです。


このような経緯で反乱を起こしましたが、これが予想外にうまくいきました。

秦の厳しい支配に不満を抱く人達が多かったということもあり、多くの人間が参加して反乱が大きくなったのが理由
の一つです。

また、秦の宮中が混乱していたのも大きな理由でしょう。

もし、始皇帝が健在なら反乱を起こしたとしても直ぐに鎮圧できたに違いありません。


キングダム項燕(こうえん)険勝・広の茶の業から域へ


もちろんうまくいった理由は秦の側だけでなく、陳勝と呉広の側にもありました。

彼らは自分達が農民であったことから、民衆をうまく味方につけるにはどうすればいいかが分かっていたのです。

まず、陳勝と呉広はそれぞれ扶蘇と項燕を名乗りました。

秦の皇太子であった扶蘇と、秦と敵対したの名将項燕の取り合わせは奇妙ですが、二人とも悲劇的な死を迎えたことで民衆の同情を集めていました。

と同時に

「ひょっとしたら生きているのではないか」

と思われていました。素朴な民衆感情をうまく使うことで多くの人達を反乱に参加させることに成功しました。


陳勝と呉広は瞬く間に勢力を拡大し、程なく陳勝は王、呉広は副王を名乗るようになりました。

反乱に呼応してかつて秦に敗れた国の生き残り達も兵をあげました。

後に争う劉邦や項羽もこの頃から反乱軍を起こします。
始皇帝が亡くなってから僅か1年。

秦は存亡の秋を迎えることとなりました。


キングダム項燕(こうえん)新たなる将軍達「三秦」


秦は反乱軍相手に後手に回ってはいましたが、それでも中国を統一した大帝国ですから、いつまでもやられっぱなしということはありません。

しばらくすると秦軍は反乱軍討伐に乗り出すことになります。

この時、中心となった三人の将軍を三秦と呼びます。

章邯 、司馬、董霧の三人です。

この中でも特に活躍が際立っていたのが章取でした。


章邯 はそれほど身分の高い人物ではありませんでした。

彼が頭角を現したのはある意味陳勝と呉広のおかげといえるでしょう。


二世皇帝の二年に陳勝の配下の周章が、万の軍勢を率いて秦の本拠地付近まで乗り出してきました。

咸陽には兵士が少なかったため、宮中はパニック状態になりました。

この時、解決策を提示したのが京都でした。

彼が提示した案というのは近くで陵墓造営にあたっている囚人を解放し、武器を持たせて戦わせようとすることでした。

国の大事ですから、のんびり墓など作っている場合ではないですし、解放されるとなると囚人もしっかり戦ってくれるだろうという意図によるものでした。


切羽詰っていたのでしょう、秦の宮廷は章邯の作戦を受け入れ、周章軍。万とあたらせました。

章邯 は見事に周章を打ち破り、これで一気に秦宮廷の信用を得ることとなりました。

章邯 は反乱軍を討伐する司令官となり、その補佐役として残る二人司馬欣、董翳が任命されました。


三秦の指揮する軍は次々に敵を打ち破っていきました。

これは 章邯 の指揮も良かったのでしょうが、反乱軍の側にも問題がありました。

当初は一致団結していた反乱軍でしたが、うまくいくにつれてどんどん数が増えてきており、統制が取れなくなってきました。

また、当初は農民を中心に結成されていた反乱軍でしたが、次第に六国の貴族等も入ってきました。

彼らが協力すればよかったのですが、貴族達は当然自分達の手で国を再興したいと考えているわけですし、身分意識もあります。

貴族達同士も特別仲がいいわけではなく、結局、それぞれが独自に行動するようになってしまいました。

反乱軍側がバラバラだったので、章邯 としては非常に戦いやすかったと言えるでしょう。


三秦率いる軍は連戦連勝のまま農民軍を蹴散らし、陳勝も戦死させました。

呉広はそれより早くに仲間割れによって殺されておりましたので、陳勝・呉広の乱はこの時点で終了したと言えそうです。

しかし、陳勝と呉広が撒いた種はこの後も広がっていき、最終的には新しい中国を作る原動力となっていきました。


キングダム項燕(こうえん)信(李信)や王賁らはこの時代どうしていたのでしょうか?


王賁(おうほん) の息子王離は反乱軍との戦いで活躍していましたが、王賁本人については記録されていません。

息子が活躍しているくらいですから秦に粛清された可能性は低そうですが、ひょっとしたらこの時代には亡くなっていたのかもしれません。

李信(りしん)については残念ながらこの頃の時代何をしていたかについて史書に記録は残されてはいません。

彼の子孫が出てくるのはしばらく後の漢の時代になってからです。

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