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キングダム蒙恬【2021年最新版】ネタバレ注意!作中では描かれない活躍と実際の蒙恬とは?

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キングダムの中では蒙恬(もうてん)は戦術に長け冷静でコミュニケーション能力もあり、イケメンそんなイメージで描かれています。

史実においても王賁(おうほん)とのライバル関係または秦に対する貢献度はものすごい人物です。

キングダムの見どころの3人の蒙恬(もうてん)を今回は詳しくお話させていただきます。

きっとキングダムなどでは描かれない蒙恬(もうてん)を知ることができます。

そしてもっと蒙恬(もうてん)という名将が好きになること間違いなしです。

是非最後までご覧ください。

キングダムに登場する名将蒙恬(もうてん)とは?

祖父・父が始皇帝の天下統一に貢献した蒙恬(もうてん)
史記での活躍は天下統一を成し遂げたものばかり

祖父である蒙驁(もうごう)のいいつけにより特殊三百人隊の楽華隊 ( がくかたい )率いて18歳で登場したのが蒙恬(もうてん)です。

信の周辺の登場人物の中では、最も遅い登場でしたが、実は「史記」に出てくる蒙恬(もうてん)は、個人で列伝が立てられ、またその他にも様々な列伝などにその名が登場する、中国史に非常に大きく名を残した人物です。

そのもっとも有名なものが、現在は万里の長城(ばんりのちょうじょう)と言われている匈奴(きょうど)から秦(しん)国を守る長城です。

また現在はこの説は後世の創作として覆されていますが、筆を発明したのが蒙恬(もうてん)だという話まであります。

ゆえに蒙恬(もうてん)という人物は古代中国史の中でも知られた人物でした。

キングダム蒙恬(もうてん)の史記「蒙恬(もうてん)列伝」の人物像

キングダムでも蒙恬(もうてん)は、祖父蒙驁(もうごう)、父蒙武(もうぶ)弟蒙毅(もうき)と一族で秦国に仕えています。

ちなみに、蒙驁(もうごう)は違うようですが、呂氏四柱に数えられる蒙武(もうぶ)、呂氏四柱の昌平君(しょうへいくん)の軍師学校で弟子となっている蒙毅(もうき)は、キングダムの中では、呂不韋(りょふい)に近い存在として扱われています。

しかし、史実の「秦本紀」「蒙恬(もうてん)列伝」によれば、蒙恬(もうてん)の祖父は斉(せい)の人で、祖父蒙驁(もうごう)が斉(せい)から秦に移って始皇帝の祖父である昭襄王(しょうじょうおう)に仕えたとされています。

蒙驁(もうごう)はその後紀元前249年の荘襄王(そうじょうおう)統治元年に秦の将軍となり、韓を攻めて三川群を設置しました。

翌年の紀元前228年には趙を攻撃して37の町を奪って太原を平定し、紀元前247年には魏を攻めて高都と汲を落とすなど、その武功が数多く残されています。

また、紀元前224年に父の蒙武(もうぶ)王翦(おうせん)の副将として楚を攻めて大勝利を得て、こののち秦を滅ぼすことになる項羽(こうう)の祖父項燕(こうえん)を倒し、さらに楚王の負芻(ふすう)を捕虜にしたとされています。

つまり他国出身ではありましたが、蒙氏は秦国で重用された一族なのです。

そして「蒙恬(もうてん)列伝」によれば、こうした家柄によって蒙恬(もうてん)は秦の将軍に命じられたとなっており、蒙恬(もうてん)は刑法を学んで裁判文書を扱う係になっていたとも記されています。

これは59巻をみていない方にとっては、ネタバレになってしまうかもしれませんが、こうして紀元前221年に蒙恬(もうてん)は秦の将軍となり、その後斉(せい)を攻撃して大勝し、都の長官という役職である内史に任命されます。

キングダムでの蒙恬(もうてん)の活躍と史実比較

キングダム蒙恬(もうてん)が千人将に出世したとされる韓との戦いは、作品の中では李牧(りぼく)と龐煖(ほうけん)に率いられた趙に攻め込まれた戦いの陰で行われたと思われます。

史記の「始皇本紀」にも、その紀元前243年の蒙驁(もうごう)が韓をせめて13の城を取った戦いが書かれています。

作品の中では、蒙恬(もうてん)はその後に始まった対魏の大攻略戦で、信や王賁(おうほん)とともに将軍蒙驁(もうごう)に従い前線ではありましたが正式に千人将に任命され流尹平野の戦いで楽華隊 ( がくかたい )、飛信隊(ひしんたい)、玉鳳隊(ぎょくほうたい)と連携させて武功をあげるなど活躍しました。

ただしその後は飛信隊(ひしんたい)に協力するなど、前線ではなく砦の中で文官的役目を行っているような姿も描かれています。

とはいえ、紀元前241年の行われた合従軍の戦いで王賁(おうほん)とともに騰軍(とうぐん)に所属し、楚の禍燐(かりん)との戦いで王賁(おうほん)とともに急場で右軍五千人将に臨時に任命され戦っています。

ただし蒙武(もうぶ)と楚の将軍汗明(かんめい)との戦いで加勢し、瀕死の重傷を負ったこともあってか、騰軍が行っている魏攻略戦には呼ばれず、信と王賁(おうほん)が魏戦の論功によって五千人将に任命されても、蒙恬(もうてん)は二千人将にとどまっていました。

しかし59巻では晴れて将軍になっています。

実は史記にみる蒙恬(もうてん)とはその主な実績のほとんどが紀元前221年以降にかかれている将軍なのです。

つまり李信(りしん)王賁(おうほん)と違って、主に始皇帝が中華統一を成し遂げた後、父蒙武(もうぶ)を継いで活躍した人物だと考えられます。

じつは史記では、書かれている人物の年齢などを具体的に言った言葉がほとんどありません。

祖父蒙驁(もうごう)は昭襄王(しょうじょうおう)の時代に斉(せい)から移って秦に仕え、荘襄王(しょうじょうおう)の時代に将軍となり、父蒙武(もうぶ)が王翦(おうせん)の副将という立場で始皇帝に仕えて天下統一に貢献しました。

しかし蒙恬(もうてん)はもしかすると、王翦(おうせん)という秦の大将軍の息子として登場した若い将王賁(おうほん)や、その王翦(おうせん)軍に若い副将のように従った李信と比べるとひとつ年代が下の将軍だったと考えられるかもしれません。

キングダムでは描かれない?蒙恬(もうてん)の活躍

大将軍を夢見ていた下僕の信という少年が、のちに秦の始皇帝となる同世代の嬴政(えいせい)という少年王に出会い、その天下統一という覇業を共に助け合いながら成し遂げる姿が描かれているのがキングダムという作品です。

それゆえ、そののちに暴君といわれるようなしたとされる秦始皇帝の姿は描かれず、天下統一のハッピーエンドで物語が完結してしましそうなことがかんがえられます。

ということは先ほど書いたことをかんがみれば、蒙恬(もうてん)歴史での本当の活躍は作中には描かれない可能性高いのではないかと思います。

ですが、それゆえに、蒙恬(もうてん)ファンのためにも彼が歴史に残すことになった史記にみられる実績を書いておきたいと思います。

天下統一を成し遂げた始皇帝は、蒙恬に30万の兵を率いて北方の匈奴などを追い払い、黄河以南の地を手に入れたとされています。

そしてその地域に長城を築かせるのです。

これが現在の万里の長城になるのですが、その長さは一万余里におよんだとされています。

またこのあと蒙恬は軍を率いて黄河を渡り、陽山を拠点としてさらに北進したとされています。

上郡に10年にわたって駐屯し、その威勢は匈奴を震撼させていたと記されているほどです。

この蒙恬と匈奴の戦いは「匈奴列伝」にも書かれています。

これによれば蒙恬は、10万の兵を統率して黄河以南のの地をすべて手に入れて黄河を利用して砦を築き、黄河を見下ろす44県の城を造って守備兵をおいたとされています。

ここに長城を築いたのちは、陽山から北仮の辺りまで占拠したとされ、自らが死が死を迎えるまでこの地に匈奴を一切侵入させなかったと書かれています。

またこのように蒙恬が国外で戦争と治安の維持を担う大任を担当していた時に、「蒙恬列伝」によれば、弟蒙毅(もうき)が始皇帝に重用されていたと書かれています。

それによれば、始皇帝は蒙一族を非常に信用し尊重し、感服していたとされ、いつも蒙毅(もうき)を上卿の位に取りたて身辺においたとされます。

また蒙毅(もうき)は、始皇帝が天下統一後5回に渡って行った自らの支配地域を巡遊する際には、お供として同じ馬車に乗ったほど常に側においていたとされます。

朝廷でも始皇帝の前に控え、政策の企画に加わり、忠実で信義もあるとして周りからその名声を称えられ、将軍や大臣も蒙恬、蒙毅と争うようなことはしなかったと書かれています。

ただし、それは逆に言うと、この頃の秦朝廷ではこの二人が絶大な権力を持っていたことを意味します。

それが「史記」によれば、「キングダム」にも登場している李斯や宦官趙高との確執を生むことになります。

趙高は作中では皇后の腹心ですが、史実では始皇帝が元趙の王族の遠縁だった趙高を官吏に抜擢し用いたとされています。

その後、趙高は始皇帝末子の胡亥に取り入り、大罪を犯して蒙毅の審理を受け死刑を命じられながら始皇帝に救われます。

そして趙高はそのことによって蒙兄弟を恨むことになったと書かれています

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