片倉小十郎才能を認められ伊達家当主・輝宗の小姓に
伊達政宗の軍師として名高い片倉小十郎景綱は、1557年、米沢・成島八幡神社の神職の家に生まれた。
身分はさほど高くないが、政宗の乳母・喜多は異父姉にあたる。
片倉 景綱(かたくら かげつな)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。伊達家の家臣。 ... 代々伊達氏に仕えた「片倉小十郎」の名跡は、以後伊達家忠臣の鑑と称された。
片倉景綱 - Wikipedia
小十郎の才能を最初に見抜いたのは伊達家の宿老・遠藤基信でこの基信の推挙を受け、小十郎は当主・伊達輝宗の小姓に取り立てられる。
輝宗の嫡子・政宗は、幼くして疱瘡(天然痘)を患い右目の視力を失ってしまった。
しかも眼球が飛び出し、醜い容貌となったことで、他人はおろか母親にまで遠ざけられるようになる。
傷ついた政宗は内向的な性格になるが、これを案じたのが小十郎だった。
いずれ一国の当主となるべき人間が、自信を失い、自分の殻に閉じ籠もっているのは甚だ問題だと考えたのである。
片倉小十郎政宗の悩みを目玉ごとえぐり出す
意を決した小十郎は輝宗の許しを得て、政宗を医者のいる部屋まで連れて行くと、彼の頭を抱え込み、小刀で一気に眼球をえぐり出した。
もちろん麻酔などない時代、血液も神経も通ったまま、衛生的にも問題がある環境での行為である。
政宗はしばらく生死の間をさまようが、回復したのちは一転、快活で前向きな少年に変わっていった。
小十郎は眼球もろとも、政宗のコンプレックスまでえぐり取ったのです。
輝宗の許可があってのこととはいえ、政宗に何かあったら小十郎は切腹する覚悟だったという。
そんな彼の勇気と決断力が認められたのか、小十郎は1575年、九歳の政宗の守り役を命じられる。
終生変わらぬ緊密な主従関係が、このときより始まったのです。
政宗15歳の初陣のとき、深追いした政宗は敵に囲まれてしまった。
このとき小十郎は、
「我こそが政宗なり」
と進み出て、相手を引きつけることで政宗の窮地を救ったというエピソードも残されている。
片倉小十郎若き主君・政宗のもと戦功を挙げる
1584年、政宗が十八歳の若さで伊達家の家督を相続した。小十郎二十八歳のときである。
すると翌1585年、小手森城主の戦国大名・大内定綱が二本松城主の戦国大名・畠山義継と手を組んで、政宗に対抗しようとした。
政宗は小手森城に討伐軍を送り、これに小十郎も加わって大内氏の兵と戦った。この攻城戦は、政宗が城内皆殺しを命じて反抗勢力への見せしめとした事件として知られている。
俗にいう「小手森城の撫で斬り」である。
この時期、妻が懐妊するが、政宗にまだ嫡子が生まれていなかったため、小十郎は生まれた子を殺そうと考えていた。
これを聞いた政宗が、
「子を殺すようなことがあればその方を恨む」
と、小十郎を思いとどまらせるために書状を送ったという逸話が残っている。
その後も小十郎は、政宗について数々の戦に参戦した。
1585年、伊達軍と、畠山氏・佐竹氏・蘆名(あしな)氏の反伊達連合軍が戦った人取橋の合戦においては、小十郎の家臣としての有能さを物語る逸話も残されている。
反伊達連合軍三万に対し、伊達軍七千という劣勢の中で迎えた合戦は、両軍入り乱れる大激戦となった。
伊達軍本陣まで敵が乱入し、政宗自ら槍を振るう始末。
そんな中、政宗が敵の弾丸を受けて負傷してしまう。
主君の危機を聞いた小十郎は
「片倉ひるむな。政宗ここにあり」
と叫び、敵軍の注意を自分にひきつけたという。
結果としては、両軍撤退したため勝敗はつかず、伊達軍は領土を守ることに成功した。
だが、小十郎のとっさの機転がなければ、大将の政宗が討たれて、伊達軍は敗北していたかもしれず、この戦によって、政宗の小十郎に対する評価が大きく上がったのは間違いない。
小十郎は、続く1588年の郡山合戦などにも従軍して、大いに活躍し、小十郎は、この時期、作戦参謀としても際立ったところを見せる。
刻々と変化する周辺情勢に巧みに対応し、政宗の奥州制覇の足がかりを作ったのは彼の功績だと言えよう。
そして1589年、伊達氏は会津蘆名氏を滅ぼし、奥州の覇者となる。
伊達軍二万一千、蘆名軍一万八千がぶつかり合い、両者が雌雄を決した摺上原の戦いに、小十郎は二番手の将として参戦、自軍の勝利に貢献した。
豊臣政権下でも独眼竜の右腕として活躍
奥州は政宗によって平定されたものの、ここに至るまでの一連の戦いは、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が発した「惣無事令」に反するものであった。
1590年、豊臣秀吉の天下統一業の総決算ともいえる「小田原攻め」に、伊達家も参陣を求められていた。
政宗は秀吉からの再三にわたる上洛要求を無視してきたうえ、先の奧州惣無事礼違反もある。
これは事実上の最後通告であった。
豊臣方として参陣するか、小田原北条氏と結んで秀吉に対抗するか、政宗は迷いに迷う。
だが、普段から情報収集を怠らなかった小十郎は、秀吉と真っ向勝負しても勝ち目はないと見ていた。
「夏の蝿は払っても来る。結局は疲れて敗れることは必定」
小十郎にこう説得された政宗は小田原攻めに参陣、危ないところで秀吉から許される。
ただ、苦労の末に手に入れた会津領などは没収されてしまう。
奥州を豊臣政権に組み込んだ「奥州仕置」に際し、秀吉は三春五万石を与えて小十郎を直臣に取り立てようとした。彼の知勇はすでに秀吉の知るところともなっていたのだ。
それで小十郎はこれを断り、政宗への忠義を貫いた。
小十郎は引き続き政宗の軍師として、葛西大崎一揆の討伐などを行ない、文禄の役では朝鮮にも渡海しており、豊臣政権下でも、独眼竜政宗の右腕という彼の役割はまったく変わらなかった。
そんな中、1595年、関白・豊臣秀次が謀反の疑いをかけられ切腹に追い込まれるという事件が起きる。
このとき、秀次と親しかった政宗にも連座の危機が訪れたが、小十郎は秀吉に対する誓紙にほかの重臣たちと共に名を連ね、主君を苦境から救った。
秀吉に続いて家康からもスカウト
秀吉の死後、1600年に起きた関ヶ原の戦いに際して、小十郎は軍師として非情なところも見せている。
越後の上杉景勝が最上義光を攻め、政宗が義光から援軍を求められたときのこと。小十郎は、
「すぐには助けには赴かず、双方疲弊したところで攻め込み、上杉軍を完膚なきまでに叩くべし」
と進言するが、最上氏の山形城にはそのとき、政宗の母・保春院がいた。
さすがに政宗は小十郎の進言を退け、ただちに援軍を送った。
小十郎は政宗に忠誠を誓う一方で、軍師としては現実的に合理的な判断をすることもあったのだ。
1602年、政宗が仙台藩主となると小十郎は刈田郡白石城一万三千石の城主となっていて、この城は伊達領南端に位置する国境の要害であり、小十郎の責任も重かった。
このとき、一国一城令によって伊達領内には仙台城、白石城の二城しかなかったため、小十郎は最重要の拠点を任されており、このエピソードだけを取ってみても、小十郎が政宗にどれだけ信頼されていたかがわかる。
またこの頃、徳川家康(とくがわいえやす)から小十郎に、江戸に屋敷を与えようという申し出があったが、無論、小十郎は固辞する。
秀吉に続く天下人からの厚遇でのスカウトは、小十郎の当時の名声を物語るものなででしょう・・・
1614年に始まった大坂の陣への参陣は、病床に伏していたため叶わなかった。
代わりに息子の重長が伊達軍の先鋒として活躍、翌1615年の夏の陣でも勇将として知られる後藤又兵衛らを破る大功を挙げた。
この合戦の最中、重長が自ら敵軍の中に飛び込み、組み討ちで敵の首級を挙げたことをあとで伝え聞いた小十郎は、
「一軍の将たる者、乱戦の中で組み討ちを演ずるなど慮外の極み」
と、息子を叱りつけた
同年、小十郎は病のために死去した。
享年59。死後、景綱を慕って家臣六名の殉死があったという。
小十郎の名は、片倉家嗣子(しし)の幼名として受け継がれ、伊達家の忠臣の鑑(かがみ)として代々の主君を支えた。
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