1600年関ケ原日本を二分した天下獲り最終決戦!
きっかけは秀吉の死後、覇権を狙う徳川家康と、石田三成を筆頭とする亀裂が拡大!合戦が勃発
家康の狙い通りだった石田三成の挙兵
豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後、徳川家康(とくがわいえやす)は露骨に天下取りに動き始めました。
まず会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)、直江兼続(なおえかねつぐ)の討伐に打って出ます。
友である三成のため参陣いたす
しかし、その進軍はなぜかゆっくり進められていました。
この家康の行動に対し、豊臣秀頼を盛り立てようとする石田三成(いしだみつなり)は激怒!
なんだとー!
三成は、家康を弾圧するために文書を各地の大名に発しました。
これに呼応して毛利輝元を筆頭に九州四国の諸大名が大阪へと続々と集結!
中国勢を合わせると、実に8万4千もの兵が集まったのです。
しかしこの三成の挙兵は家康の思惑通りでした。
「自分が大阪を留守にすれば三成が動く」
という読みが完璧にあたったからです。
景勝を討つ気など最初からなく、ゆっくりと進軍していたのは、この挙兵をまっていたのです。
三成の挙兵後、家康は三成に賛同していない諸大名を集めます。
そして三成率いる西軍と、家康率いる東軍が誕生します。
策で西軍崩壊を狙う家康。両軍は関ケ原で激突
東軍7万4千VS西軍8万4千
家康は直接対決の前に、西軍の大名に働きかけ、寝返るように画策していました。
それから満を持しして、江戸から大阪へと軍を進めたのです。西軍は大阪から江戸に進軍し、やがてその中心にある美濃の関ケ原で刃を交える体制となりました。
まず東軍の井伊直政が先陣を切って西軍へと突撃。
するとそれが合図となり、各地で戦闘が開始されました。
序盤は西軍が有利となり、戦いを進めておりましたが、、小早川秀秋の裏切りが決め手となり、西軍は一気に崩れ、家康の勝利で総勢16万もの兵が参加した世紀の大合戦の決着がついたのです。
ちなみにこの戦国最大の大戦は午前中で結果がつきました。
毛利輝元が動かなかったことや九州の島津義弘(しまずよしひろ)など、西軍に与しているだけの大名たちの思惑で一枚岩になれなかったことが西軍が敗戦してしまった原因ともいわれています。
関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の慶長5年9月15日に、美濃国不破郡関ヶ原を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある
ウィキペディア
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最新研究でここまでわかった 関ヶ原の戦いが半日で終わったというのはウソ
- 関ヶ原の戦いいままでの通説では?
- 激突した。両軍合わせて5万を超える一大決戦は、小早川秀秋らの寝返りによって東軍が圧勝。長期戦を覚悟した諸将の予想に反して、天下分け目の戦いはたったの半日で終結した。
関ヶ原の戦いの真相とは?
関ケ原の戦いのイメージは創造物の影響を大きく受けており、史実としてわかっていることとはかなり違います。大砲を撃って小早川秀秋(こばやかわひであき)を寝返らせた「問い鉄砲」の話は創作だとみなされており、そもそも戦いは半日で終わったのではなく、もっと早くに終わっていたという事実が出てきています。
軍記物に基づく関ヶ原の戦いの真実
通説では、関ヶ原の戦いは半日で終わった、といわれる。
ネタ元は、明治時代に日本陸軍が制作した『日本戦史』である。
しかし、『日本戦史』は一次史料ではなく、江戸時代の軍記物を参考にまとめられているので、信憑性は高くない。
そのため、江戸時代初期や関ヶ原の戦い直後の一次史料を参考にすると、通説とは違った戦いの経緯が見えてくるのだ。
たとえば、関ヶ原の戦いから約20年後に成立したという『当代記』は、戦いは西軍が陣を敷こうとしたところで秀秋が裏切り、東軍が勝利したと伝える。
また、戦いから2日後の9月1日付で徳川方の武将らが出した連署状にも、秀秋が開戦直後に寝返ったと記されている。
イエズス会の報告書でも秀秋がすぐに裏切った旨が触れられているので、これらは事実である可能性は非常に高い。
つまり、秀秋ははじめから裏切っていたわけだから、家康による「問い鉄砲」があったとは考えにくいのだ。
また、戦にかかった時間にしても、これまでいわれてきた半日よりも短い可能性がある。
午前8時とされた開戦時刻が、一次史料には午前10時と記されているからだ。
正午には西軍が総崩れになったというので、これが正しければ戦いは2時間弱で終わったことになる。
それでは、関ヶ原の戦いがあっさり終わっていたとしたら、なぜドラマティックな展開に改ざんされたのだろうか?
理由はやはり、徳川の権威を強化するためだろう。
戦いを史実どおりに描くと、徳川家の見せ場がなくなり、徳川家康の影は必然的に薄くなり、活躍した福島正則のような豊臣恩顧の大名を評価する動きも、もしかすると出るかもしれない。
『関 原 始末記』
そこで江戸幕府の権力をより強くするため、関ヶ原の戦いが脚色されていったと考えられており、「問い鉄砲」を含む架空話は、1656年に成立した『関 原 始末記』を境に生まれた。
上記同書は、徳川家に仕え、老中も務めた酒井忠勝が、家康の武功を後世に伝えるためにまとめさせたものである。
その後、次々と家康神話がつくられていき、戦闘の時間も半日間へと延長された。
なお、徳川方を東軍、石田方を西軍と呼ぶのは、戦いから約100年後の軍記物からだとされる。
「数時間の膠着状態が続く中、優柔不断な秀秋を家康が一喝して東軍有利に導いた」
という定番の流れが時間をかけて創られると、当時の作家はそれらを参考に、軍記物を執筆した。
これによって、1700年代には庶民の間でも関ヶ原の戦いに関する情報が出回ったようだ。
ちなみに、近代になって日本陸軍はドイツを参考に兵制を組み立てたが、その中心人物であるメッケル将軍は、関ヶ原の戦いの布陣図を見て、西軍の勝ちを断言したという。
地の利は西軍が押さえていたことを示す話として引用されることもあるが、これも元ネタが不明であるため、創作である可能性が高い。
関ヶ原の戦いが家康の謀略どおり進んだというのはウソ
- 関ヶ原の戦い 家康の策略の通說
- 関ヶ原の戦いは、徳川家康の強かさがよく表れた戦である。上杉家に謀反の疑いをかけて米沢(山形県米沢市)への遠征を決め、石田三成の挙兵を誘導。江戸で諸将への工作活動を行い、反三成派の武将に岐阜城を落とさせた。さらに偽情報で西軍を関ヶ原におびき寄せ、事前に根回しした小早川秀秋らの裏切りによって勝利を得た。関ヶ原の戦いは、家康の計算どおりに展開したのである。
関ヶ原の戦い 家康の策略 真相 とは?
家康は石田三成の挙兵を全く予想していませんでした。江戸に留まったのも、上杉家への警戒からである。それに家康率いる上杉討伐組は、多くが豊臣恩顧の武将だったので、裏切られる危険が常にあった。戦いが始まるまで、家康は軍内の主導権を主導権を維持することすら難しい状況だったのです。
関ヶ原の戦い 追い詰められていた家康
ドラマや小説では、
「関ヶ原の戦いは、上杉討伐に釣られて挙兵した三成を、家康率いる東軍が万全の準備で撃退した」
と語られることが多かった。
しかし、通説となっている「あらすじ」は、江戸幕府による家康神格化に影響されたものである。
実際には、家康は西軍を翻弄したどころか、逆に危機的状況に陥っていた。
そもそも、東軍に属する徳川直属の武将は3人しかおらず、兵力は合計7000人程度。家康は約3万の兵力を擁していたが、主力は秀忠率いる約3万の軍だった。
しかし、この秀忠軍の到着が遅れたせいもあり、東軍は反三成派の豊臣武将に頼るしかなかった。
結果、家康は諸将の裏切りを常に警戒することになったのだ。
家康が三成挙兵を知ったのは1600年7月9日だが、詳細を知らされなかったために上杉領への進軍を続行した。
ところが、毛利・宇喜多ら大物大老の多くが三成に味方したことを知るとさすがに対策が必要となり、1日、下野国小山において軍議を開き、三成討伐を決定している。
軍機 小山評定 とは?
この軍議が東軍の一致団結を促したことで有名な「小山評定」だが、これも現在では後世の創作だとされており、実際は、三成の挙兵を諸将に知らせただけのようだ。
家康からすれば、三成を迎え撃つことを決めても、不安定な状況のため、すぐに動くことはできなかった。
目付役を除いた徳川の軍が関東に留まったのも、上杉軍の南下と東軍内の裏切りを警戒したからだと考えられる。
現に、家康が江戸から送った120通以上の書状はほとんどが東軍内の豊臣武将や東北諸将に宛てたもので、味方になるよう促しはしたが、敵側につかないよう、大老と奉行案の大半が三成についた情報は伝えられなかった。
また、
「その間に家康が使者を通じて美濃国の岐阜城を東軍の武将に攻めさせた」
という話も、実際は痺れを切らした東軍諸将が独断で攻撃しただけようだった。
実際は痺れを切らした東軍諸将が独断で攻撃しただけようだった。
この結果、岐阜城はわずか2日で落城し、東軍は三成のいる大垣城の目前にまで迫っていたが、家康はこれに危機感を抱いた。
家康不在のまま三成が討たれれば、東軍側豊臣武将の勢力が強まり、家康の立場が弱くなるかもしれないからだ。
そのため家康は、東軍に戦闘中止を命じると、秀忠率いる主力軍約3万の進軍を優先させた。
自らの出陣も繰り上げ、9月1日には尾張の清洲城にて東軍と合流している。
しかしここでも予想外のことが起きた。
嵐などの悪条件が重なり、秀忠は到着できなかったのである。
主力軍の遅れに対して、秀忠との合流を待つか、現状の戦力で決戦を挑むかで意見が分かれたが、内部崩壊を懸念した家康は、現戦力で西軍を打倒することを決断。
かくして東軍は徳川の主戦力なしで決戦に臨んだのだった。
結果的には勝利したものの、家康にとっては、最後までどうなるかわからない戦いだった。
関ケ原の戦いゆかりの地「決戦場」
ここが最大級の激戦が繰り広げられた地:笹尾山を背に、現在は田園の広がる中程に「決戦地」があります。ここには大きな石碑、徳川家・石田家の家紋入りの旗があり、休憩所もあります。1600年9月15日午前、関ケ原の戦いは西軍有利の展開で進んでいたといわれています。しかし、小早川秀秋の裏切りによって状況は一変します。これによって、一挙に東軍が優勢となり、奮闘むなしく西軍は敗北します。そしてこの決戦地は、東軍諸隊が三成の首級を狙って、最大級の激戦が繰り広げられた場所といわれています。この地で激戦が繰り広げられていたのかと思うと、現在はのどかなこの風景も全く見え方が変わってきます。
【公式】関ケ原観光ガイド
家康が掲げた、謎の言葉?!「厭離穢土欣求浄土」:家康の陣旗にはとても難しい文字が連なっています。この言葉は、「戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦い、国土が穢れている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土を願い求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す」という意味です。家康は幼いころより人質生活を強いられ将来を悲観し、桶狭間の戦いの後、松平家の墓前にて自害しようとしました。その時、寺の住職が「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」を説き、切腹を思いとどまらせたということです。三成・家康ともに平和を願う心は同じだったことがうかがえます。
【公式】関ケ原観光ガイド
スポット詳細
住所 | 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1202 |
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アクセス | JR関ケ原駅より徒歩20分 |