桶狭間の戦い取るに足らない存在だった。
皆様の桶狭間の戦いのイメージはどんなイメージでしょうか。
多くの皆様は大河ドラマやドラマ等でやっている通り、雨が降っている崖を駆け下り油断している今川義元の本陣に突撃し、奇跡の勝利を収めた。
ざっくりではありますがそんなイメージではないでしょうか。
私もそう思っていましたがそうではないようなのです。
戦国時代の英雄といえば、織田信長(おだのぶなが)です。
織田信長が、日本統一の足がかりを作った戦国武将として非常に高い評価をうけてきました。
主要な戦いのほとんどで勝利を収めてきた信長の戦歴の中でも、語り草になっているのが、上洛を目指す東海道の覇者・今川義元(いまがわよしもと)を奇襲で打ち取った
「桶狭間の戦い」(1560年)です。
この戦いは
「公家趣味に走った大大名・義元を若き変革者・信長が破った」
として広く知られている。
ところが、近年になって様々歴史家や研究者が、この通説にメスを入れ、日本人のイメージが間違えていたことが立証されつつあります。
桶狭間の戦い戦場は桶狭間ではなかった
まずは戦いの背景をおさらいしていきましょう。
駿河、近江(ともに静岡)、三河(愛知)の3ヶ国を収める大大名、今川義元は背後のの武田信玄・北条氏康と「甲相駿三国同盟」を締結し後顧の憂いを断つと、いよいよ上洛を目指し動き出す。
4万人と称する大群を前に織田家の前線基地、鷲津・丸根の砦は陥落し、いよいよ本拠・清州城に迫っていた。信長は家督相続前の「うつけ者」のイメージそのままに、城にこもって態度をはっきりせず、重臣たちは気をもんでいた。
しかし密偵から「義元が桶狭間にて休息中」との耳打ちを受けると、突如立ち上がり十八番の敦盛を舞い踊る。そして、「勝利は我にあり!」と大喝をして、自軍を鼓舞すると、さっそうと馬にまたがって単騎駆け出した。
人間~50年~げてんの月にくらぶれば夢幻の如くなり~
あっけにとられた家臣たちが、心を決め信長に従って桶狭間の敵本陣に一直線。
緒戦の勝利に気をよくした義元は、桶狭間の地を休憩所に選び、酒宴を開いていた。
想定外の奇襲に色を失った今川軍は大混乱におちいり、乱世の中で織田家渦中の毛利新助が義元の眼前に飛び出す。
「覚悟!」と突き出された槍を一度は払った義元だったが、やがては力尽き首をはねられる。
これが「事実」として定着してきた戦いの様子だが、まず戦場から間違えている。
場所は桶狭間ではなく「田楽狭間」であり、またここは通説であるような、本陣を構えるには、不的格な場所ではなかった。
だいたい義元は「海道一の弓取り」と謳われ、東海地方随一のの大国を築き上げていたのだから、そんな下手をを打つはずがない。
奇襲ではなく「正面攻撃」
また、この戦いが「奇襲」だったという話も、極めて疑わしい。
織田家関連の資料として最も信頼性が高い『信長公記』によれば、
信長は善照寺砦に全軍を集結させた後、鷲津・丸根両砦を墜落させて疲労した今川軍を狙うべく、中嶋砦から南下して攻撃を仕掛けたことになっている。
その動きは「奇襲」ではなく、どう見ても「正面攻撃」である。
しかし現れた敵は、砦の攻撃部隊ではなく、なんと義元本隊の前衛であった。
それを知る由もない織田軍の攻撃で義元の本隊まで混乱し、ついには総大将も討ち取られてしまった…というのが現在有力視されている説なのである。
信長の狙い通り、確かに敵軍には疲労があった。
織田領内に深く入り込み、満足な休息が取れていなかったのだ。
それにしても「奇襲」ではなく「正面攻撃」だったとしたら、大軍だったはずの今川軍がなぜ織田軍に織田軍に敗れてしまったのか?
という疑問が残る。
しかし、そもそも両軍には、そこまでの兵力差がなっかったようなのだ。
というのも、大軍が上洛するために織田領内に入ってくるとなれば、相応の混乱が起きなければおかしい。
織田家の敗色が濃厚なのであれば、内通者が出たり、謀反が勃発しているはず。
ところが、織田領内に大きな混乱があったとする記録は一切ない。
これは両軍の実力がある程度拮抗していたことの有力な証拠だ。
義元が率いる公称4万人の兵はせいぜい2万人が実際の数で、しかも非戦闘員を除くとさらに減少したという。
対する信長の兵力は2000人などと脚色されているが、実は数千人の戦闘員を動員することができたのだ。
単なる国境争いの一環だった
だとすれば、今川義元が「上洛」による天下獲りを目論んでいたという話も、俄然信憑性を失ってくる。
確かに義元の家には足利将軍家と縁がある名門で、上洛して将軍を助けるという動機も納得はできる。
しかし、この程度の陣容で京都までたどり着くことができるかどうかというと、極めて厳しい。
上洛の途上に尾張(愛知県)の織田家、美濃(岐阜県)の斎藤道三(さいとうどうざん)だけではなく、近江(滋賀県)の六角家や越前(福井県)の朝倉家など、有力大名が目白押しである。
軍勢を率いて京都に居座るためには、彼らへの根回しが不可欠だが、今川軍はひた押しに織田家に迫るだけで、途上の各国に連絡を取った形跡が一切ない。
そこで導きだされるのは「義元の狙いは尾張一国」という結論だ。
織田領内の静けさ、上洛するにしては少ない今川軍の陣容、諸大名になかった連絡…すべてのつじつまが合う。
だとすれば「桶狭間」の戦いは、信長の父・信秀の代から、何度も繰り広げられてきた今川・織田両家の尾張をめぐる争いのひとつに過ぎず、たまたま本隊が張り出したところに正面から信長が現れ、義元は運悪く命を落とした、という真相にたどりつく。
信長が一躍名を上げた戦いに水を差す形になったが、義元を討ち取って進軍を止めたのは事実だし、伸びきった敵軍への狙いも正確だった。
また、信長が義元の進軍までに尾張一国を束ねられていなっかったら、全く違う結果になっていただろう。
「運も実力のうち」
とはよく言ったものだが、この場合の彼の実力によって強運を引き寄せたというのが正確なのでではないでしょうか。
桶狭間の戦いは、永禄3年5月19日に尾張国知多郡桶狭間での織田信長軍と今川義元軍の合戦。2万5千人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、尾張の織田信長が本陣を奇襲、または正面から攻撃し、今川義元を討ち取った。
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